第四話 街道の「死に体」イケメン
王都を離れ、ガタゴトと激しく揺れる格安の乗合馬車に揺られること三日。
紬が目指したのは、王国の北端に位置する「フェルゼン領」だった。そこは巨大な原生林に囲まれ、冬は長く厳しいが、その分だけ人跡稀な静寂と、冷徹なまでに透き通った清流に恵まれた場所だという。
(……静か。冷たい空気。スマホの電波……じゃなくて、魔法の通信すら届きにくそうな僻地。最高じゃない。恋愛? 何それ美味しいの? 今の私には、イケメンの愛の囁きよりも、無音の空間と清潔なシーツの方が一億倍価値があるわ……)
そこは、安眠を切望する紬にとって、究極の隠居先(予定)だった。 だが、隠居するにも最低限の体力は必要だ。三日間の強行軍は、ブラック企業の過酷なプロジェクトで鍛え上げられた紬の体をもってしても、限界を突きつけていた。
「……はぁ。やっぱり、長距離移動は体に毒だわ。腰の筋肉が固まって、脳がずっとシェイクされてる感じ……。これ、絶対に自律神経が悲鳴を上げてるやつ……」
馬車の休憩中。紬は街道の脇にある大きな樫の木の木陰へ逃げ込み、凝り固まった首を回して、ボキボキと不穏な音を鳴らした。 ふと見ると、その木の根元のさらに影、陽の光を避けるようにして一人の男が座り込んでいた。
ボロボロの茶色いマントを羽織り、その手元には年季の入った剪定バサミが置かれている。一見すれば、仕事の合間に休息を取るしがない庭師に見えるだろう。
しかし、そのフードの隙間から覗く横顔に、紬は息を呑んだ。
(……わあ。国宝級のイケメン。……じゃなくて、国宝級の『隈』ね。これ、CGじゃなきゃ再現不可能なレベルの陰影じゃない……)
男は長い足を無造作に投げ出し、力なく木の幹にもたれかかっている。 整った顔立ちは青白く、というよりは死人のように血の気が引いて土気色だ。そしてその目の下には、もはや「鋭い彫刻刀で執拗に掘り進めたのか?」と思うほどに暗く、どす黒い影が深く深く落ちていた。
その男、カイルからは、普通の人間なら本能的に逃げ出すような「冷たい死の気配」が漂っていた。 だが、今の紬にとってそれは「恐怖」ではなく、懐かしい「親近感」でしかなかった。
(……わかるわよ。その、脳が液体になって耳から漏れ出そうな感覚。キーボードの音が心臓に直接響くような、過敏すぎる神経……。あんた、今『世界の解像度』が2bitくらいまで落ちてるでしょ)
「……ねえ、君。大丈夫? 呼吸、浅いわよ。一度肺を空にするつもりで、吐く方に意識を集中して。吸うのは勝手についてくるから」
声をかけると、カイルは、まるで錆びついた古い機械のようなスローモーションで顔を上げた。 焦点が全く合っていない、底の抜けた沼のように光のない瞳が、ゆっくりと時間をかけて紬の姿を捉える。
本来、カイルは「影」の隠密だ。見知らぬ女にここまで接近を許すはずがない。 だが、今の彼は、自分の名前すら思い出せるか怪しいほどの限界点にいた。
「……ああ。すまない、少し……立ちくらみが……。庭の、手入れを……しすぎて、ね……」
「庭の手入れでそこまでボロボロにならないわよ。あんた、それ、少なくとも三日は一睡もしてないでしょ。脳内アドレナリンと、生存本能の出し殻だけで動いてるでしょ」
カイルは、驚いたように目を見開いた。その拍子に、ふらりと上体が大きく揺れる。
「……なぜ、それを。……君は、医者か何かか……? それとも……刺客か……?」
「刺客? バカ言わないで。私はそれ以上の状態で、クライアントという名の魔物相手に、修正依頼という名の呪文を浴びながら一週間不眠不休で戦ったことがあるんだから。……二度と思い出したくない、暗黒の経歴よ」
紬は背負っていた麻の袋から、王都の道具屋で買い込んでいた保温性の高い水筒。それと清潔な布、そして道中で摘んでいた「心を静める青いハーブ」を取り出した。
「いい? 今からあんたを『強制終了』させるわよ。文句は寝てから言いなさい。……ブラック企業の鉄則を教えてあげる。患者が『大丈夫』って言うときは、大抵、魂が体から脱走しかけてる時なのよ」
紬は、現代日本で「どうしても寝られない夜」に自分で試していた秘伝のツボ――首の付け根にある『安眠の急所』に、迷いなく指を添えた。
「ちょっと、冷たいけど我慢してね。……はい、リラックス。システムアップデートを、開始するわよ」
紬の指先から、聖女としての本能的な魔力が、彼女の意志とは無関係に溢れ出した。 それは「浄化」ではなく、「強制的な休息」という名の、あまりにも慈悲深い呪文だった。




