第一話 氷の公爵、朝の絶望
翌朝。小鳥の囀りと、自作の遮光フェルトの隙間から漏れ出す柔らかな光で、アルベルトは目を覚ました。
視界に入ったのは、見慣れた執務室の天井でも、豪華だが冷え切った自身の寝室の天蓋でもない。煤けた石造りの天井と、どこか懐かしいハーブの香り。
(……温かい。体が、信じられないほど軽い……?)
三年間、絶え間なく脳を万力で締め付けていたあの焼灼感のような頭痛が、跡形もなく消えている。 それどころか、指一本動かすのが億劫になるほどの、重厚で深い充足感。五感のすべてが洗浄されたかのような、圧倒的な「多幸感」がそこにはあった。呪いによって砂漠のように乾ききっていた彼の精神に、一晩の眠りが慈雨となって染み渡っていた。
だが、次の瞬間。 彼は傍らに、自分をじっと見下ろしている気配に気づき、跳ね起きた。
「あ、おはようございます。よく眠れました?」
そこには、どこから用意したのかエプロンを身に纏い、湯気の立つマグカップを手にした紬が、呆れたような、それでいてどこか誇らしげな顔で立っていた。 アルベルトは、昨夜の記憶を瞬時に呼び戻す。自分はこの女に「デカい赤ちゃん」呼ばわりされ、無理やりベッドに押し込まれ、あろうことか「敵地」と認識していた場所で、数年ぶりの無防備な爆睡を晒してしまったのだ。
「……っ、貴様……私に何を盛った! 毒か? 禁忌の魔導薬か!? 自白剤の類か!?」
アルベルトは、反射的に傍らに置いていた剣を掴もうとした。しかし、あまりにも深く眠りすぎたせいで、指先に力が入らない。紬は眉ひとつ動かさず、平然とした手つきで「はい、白湯。まず胃を温めて」とカップを差し出した。
「毒なんて、仕入れるのも処分するのもコストがかかるもの使いません。ただのツボ押しとアロマですよ。あんた、寝顔は案外可愛いのね。ちょっとだけ『死神』の評価を改めてあげるわ」
「か、可愛いだと……!? この私を、ブラッドレイ公爵を愚弄するか!」
顔を真っ赤にして怒鳴るアルベルトだったが、どうしたことか、腹の底から力が抜けていて、いつもの凍りつくような威圧感が全く出ない。それどころか、声に張りが戻りすぎていて、怒鳴っているのに健康そのものに見える始末だ。呪いの暗い魔力が鳴りを潜め、生命力の循環が正常化している証拠だった。 さらに、紬はためらいもなく彼の額に手を当てた。
「うん、熱も下がってる。でもまだ脳の興奮の残り香があるわね。自律神経がようやく一息ついたところなんだから、ぶり返したくないなら、今日から一週間、毎日ここへ通いなさい。これは『処方』よ。……拒否権はないから」
至近距離で見つめてくる、揺るぎない紬の瞳。 アルベルトは、毒気を抜かれたように言葉を失った。自分にこれほど不敬な態度をとり、なおかつこれほどの救いを与える存在に、彼は今まで一度も出会ったことがなかった。
この時、アルベルトの胸に宿ったのは、不敬に対する怒りでも、未知の技術への恐怖でもなかった。
(……この安らぎを、この温もりを、二度と手放したくない) という、自覚することすら恐ろしいほどの、暗く深い執着心だった。




