第六話 悪夢の終焉と、静かな夜明け
寝室を「死神」に明け渡し、リビングのソファで横になった紬の意識は、アロマの残香に導かれるように、深い、深い記憶の底へと沈んでいた。
そこは、逃げ場のない「戦場」だった。 天井の蛍光灯が寿命を告げるようにチカチカと明滅し、青白い光がデスクに散乱したエナジードリンクの空き缶を照らしている。
「紬さん、クライアントが『やっぱりロゴの角度を3度戻したい』って。明日の朝九時までに全部の資料、差し替えいけるよね?」
「紬さん、別の案件だけど……今すぐ、これの修正案も三つ出して。断れないよ、僕らの首がかかってるんだから」
ひっきりなしに鳴り響く電話の電子音、誰かの苛立った足音。キーボードを叩く乾いた音が、まるで秒読みの時限爆弾のように神経を逆なでする。 画面に映る、終わりが見えない修正指示。目の奥は焼けるように熱く、心臓は不規則なビートを刻む。コーヒーは泥のように冷え切り、窓の外では残酷にも、始発電車が走り出す音が聞こえる。
「……休み……たい……」
掠れた声でそう願うたびに、上司の冷徹な顔が、赤字で埋め尽くされた締め切りの日付が、鋭い刃物のように彼女の精神を切り刻んでいく。眠りすら奪われたその場所には、尊厳など存在しなかった。紬が必死に繋ぎ止めていた意識の糸は、他人のエゴと効率化という名のハサミでズタズタに切り裂かれ、彼女の存在自体が「会社」という巨大な歯車の一部として消費されていく。
「……っ……はぁっ!」
紬は、自分の指先が激しく震えているのを感じて、弾かれたように目を開けた。 心臓が喉から飛び出しそうなほど強く鳴っている。だが、視界に飛び込んできたのは、青白いモニターの光ではなく、石造りの壁が作る穏やかで深い影だった。
耳を澄ませても、キーボードを叩く音も、上司のヒステリックな叱責も聞こえない。 ただ、石壁の外で降り続く雨が地面を打つ、単調で規則正しいリズム。そして、寝室の奥から漏れ聞こえてくる、深く、穏やかな、誰かの寝息。
「……あぁ、そうだった。……私、もうあそこにいないんだ」
紬は肺の底から長く吐息をつき、冷たくなった指をぎゅっと握り込んだ。 この石造りの壁、自分が心血を注いで目張りした遮光フェルト。そこにあるのは、前世でどれほど金を積んでも、どれほど地位を築いても手に入らなかった、不可侵の「本当の静寂」だ。ここは締め切りに追われるオフィスではなく、誰にも邪魔されない自分の家なのだと、自分に言い聞かせるように。
ベッドを占領し、勝手に眠りこけているのは、この国の「死神」と恐れられる不眠の公爵。 だが今の紬にとっては、自分を精神的に殺しに来る元上司やクライアントよりも、安らかな寝息を立てる死神の方が、ずっと無害で、愛らしく、そして「守るべき患者」に思えた。
(不眠症の死神に、元社畜の安眠オタクね。……お似合いじゃない。どっちも、世界の隅っこで静かに寝ていたいだけなんだから)
紬はソファの上で小さく体を丸め、自分の体温を愛おしむように毛布を抱き寄せた。 窓の外、雨の気配が遠ざかり、空がうっすらと白み始めるのを感じる。 今度はもう、悪夢に邪魔されることはなかった。
彼女の意識は、再び穏やかな眠りの海へと溶け込んでいく。
それは、安藤紬という一人の人間が、人生で初めて勝ち取った、誰にも奪わせない「本物の休息」だった。




