第五話 静寂に響く寝息
数分後。 先ほどまで怒号と破壊音が渦巻いていた屋敷の中には、屋根を叩く雨音と、穏やかで規則正しい寝息だけが響いていた。
アルベルトの険しかった眉間の皺は、魔法が解けたかのように驚くほど平らに伸びている。数分前まで「死神」と恐れられ、殺気を撒き散らしていた男は、今や紬が心血を注いで整えたベッドを占領し、まるで深い森で眠る子供のように無防備な顔で眠りこけていた。
「ふぅ……。玄関、蝶番からイカれてるじゃない。後で絶対に直してもらわなきゃ。……っていうか、私の聖域(寝床)、完全に取られたんだけど」
紬は腰に手を当てて呆れながらも、月の光さえ届かない暗闇の中で、安らかに上下する彼の胸元を見つめた。 不眠の呪いに焼かれ、紫色の溝になっていた目の下の隈が、深い眠りの中で少しずつその毒気を失っていくように見える。 紬は現代で、プロジェクトの成功と引き換えにボロボロになって倒れ伏す同僚たちを何度も見てきた。今のアルベルトは、彼女にとって「恐ろしい公爵」ではなく、ただの「最も手のかかる重病患者」に過ぎない。
ふと、彼の首元に目が留まった。そこには、紬が「強制シャットダウン」の際に一点突破の指圧を施した、鮮やかな赤い指跡が残っている。
(……まあいいわ。不敬罪で首が飛ぶのと、三年の不眠が解消されるの、どっちが価値があるかなんて明白でしょ。これだけ深いレム睡眠、あんたにとっては一生モノのプレゼントよ)
紬は、冷たい雨に濡れていた彼のマントを静かに脱がせると、予備の分厚い毛布を顎のあたりまで丁寧に掛け直した。 あれほど鋭利だったアルベルトの気配が、今はただの「一人の疲れ果てた男」としてそこにある。 自分の睡眠を犠牲にしてまで他人をケアしてしまうのは、染み付いた社畜の業かもしれない。紬は「有給休暇なのに、何やってるのかしら」と小さく自嘲した。
紬は、名残惜しそうに自分のベッドを一度振り返ると、静かに寝室を後にし、リビングのソファへと向かった。 窓の外、濡れた土と雨の匂いに混じって、彼に施したアロマの香りが微かに漂っている。サンダルウッドとハーブが混ざり合ったその香りは、氷のように冷たかったこの部屋を、不思議な温かさで満たしていた。
それは、孤独に呪いと戦い続けてきた公爵の心に、初めて深く刻み込まれた、**『眠の残り香』**だった。




