第三話 招かれざる「死神」の訪問
隠居生活……もとい、究極 of 有給休暇を開始して数日が経った、ある雨の夜のこと。 外界では、叩きつけるような冷たい雨が石造りの壁を打ち、針葉樹の森がざわめく音が響いていた。だが、紬が心血を注いで作り上げた「安眠の城」の内部は、湖の底のように静まり返っている。
紬は、自作のアロマキャンドルに火を灯した。揺れる炎がハーブの香りを優しく広げ、副交感神経を存分に刺激する。
「……よし、今夜のコンディションは最高ね。パジャマの温度よし、湿度は最適。寝るわよ、10時間コース……!」
まさに、幸せの絶頂で毛布を被り、意識を暗闇へ投げ出そうとしたその時だった。
ドォォォォォン!!
「……っ!? なに!? 暴漢!? それとも建物が老朽化で爆発したの!?」
理想的な睡眠導入(入眠)を切り裂く、物理的な破壊音。 玄関の分厚い扉が、蹴破られた衝撃で蝶番ごと悲鳴を上げ、リビングに転がった。吹き込む雨風。紬の心臓は、恐怖というよりは「寝入り端を邪魔された激しい憤り」でバクバクと跳ね上がる。
「ちょっと! 誰よ、人の『有給』を土足で荒らす無作法者は!」
紬は寝巻きの上にローブを羽織り、護身用の剪定バサミ(カイルから拝借したもの)を片手にリビングへ飛び出した。 そこには、漆黒のマントを雨で滴らせ、冷徹な殺気を放つ一人の男が立っていた。
背は高く、肩幅は広い。彼がそこに立っているだけで、部屋の空気が凍りついたように温度を下げ、重苦しい威圧感に支配される。 男は、ゆっくりと顔を上げた。
「…………」
白磁のように滑らかな肌に、すべてを見透かすような冷徹な銀色の瞳。 その顔立ちは、ため息が出るほどに端正で、美しかった。しかし、それ以上に――あまりにも、悲惨だった。
紬は、突きつけられた剣の冷たさよりも先に、職業病的な「驚愕」に脳を支配された。
(……待って。何あの『隈』。……不眠症の最終段階、末期症状じゃないの!)
男の目の周りは、青黒い隈を通り越して、もはや紫色の深い溝になっていた。 頬は不健康にこけ、唇は渇ききり、その銀色の瞳に宿る光は、生命力というよりは「極限状態の疲労」が引き起こす、神経過敏な拒絶反応そのものだ。
「……お前が、例の女か」
低く、ひび割れた声。 男――この広大なフェルゼン領を治める主であり、戦場では「死神」と恐れられるアルベルト・フォン・ブラッドレイは、抜き放った長剣の先を、容赦なく紬の喉元へ突きつけた。
「カイルが言っていた。たった数分の指圧で、不治の呪いを鎮める癒やし手がいると。……だが、見たところただの小娘だな。詐欺師か? それとも、私に引導を渡しにきた刺客か?」
剣先から伝わる微かな震え。それは武者震いなどではなく、脳が限界を超えて悲鳴を上げているがゆえの、制御不能な震えだ。紬は、かつて大きなプロジェクトの納品前、三日三晩一睡もせず「マウスを握る手が勝手に痙攣していた同僚」の姿を目の前の男に重ねた。アルベルトの瞳には、希望など欠片もない。ただ、消えない焼灼感に苛まれる獣のような、危うい狂気だけが揺らめいていた。
紬は、喉元に迫る死の予感よりも、目の前の男の「あまりにも酷いコンディション」に、反射的に仕事のスイッチが入ってしまった。
「……詐欺師かどうかは、寝てから判断しなさい。あんた、それ、最後にまともに寝たのいつ? 三日前? 一週間前? ……いいえ、もっとね。よく立ってられるわね、そんなボロボロの脳で」
紬の恐れを知らない、むしろ憐れみすら混じった言葉に、アルベルトの眉がピクリと動いた。




