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聖女の力は安眠のために。〜ブラック企業帰りの私は、現代知識で冷徹公爵を寝かしつけます〜  作者: 無比子
第1章:聖女、有給消化の代わりに追放される

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第一話 意識のシャットダウン

「……紬さん、この修正。明日の朝イチ、9時のクライアント会議までに。……起きてる? 聞いてる?」


上司の、湿り気を帯びたぬめっとした声が、遠くの地鳴りのように鼓膜を震わせる。

安藤紬あんどう つむぎ、26歳。中堅広告代理店の進行管理担当。


オフィスビルを包む深夜の静寂の中で、その声だけが不快なノイズとして脳に突き刺さった。現在の時刻は、午前2時45分。窓の外は、夜の闇というよりは、疲弊した街が吐き出す淀んだ灰色に染まっている。


(聞いてる。……いや、音としては鼓膜に届いてるけど、私の脳が『この情報は不急かつ有害です』って判断して、片っ端からゴミ箱へシュートしてるんだわ……)


思考の解像度は、今や144pの低画質動画よりもひどい。


最後に「布団の中で、意識を失うように眠った」のはいつだったか。


昨日はデスクに突っ伏して、タイマーをかけた30分だけの仮眠。一昨日は、人工的な味がする高濃度エナジードリンクを胃に流し込み、シャワーで強引に神経を叩き起こしただけ。


そもそも、26歳の独身女性が連日午前2時過ぎまでオフィスに居座っている時点で、色恋沙汰など入り込む隙間などどこにもない。


かつては「素敵な出会い」を夢見たこともあった気がするが、今の紬にとって「ときめき」は心臓に負担をかけるだけの不要なコストだ。マッチングアプリの通知は溜まった広告メールと一緒に未読のまま埋もれ、最後に男性と手を繋いだのがいつだったか、歴史の教科書を捲るよりも思い出すのが困難になっている。


鏡を見るまでもない。目の下の隈は、最新のデパコスで最もカバー力が高いと評判のコンシーラーを塗り重ねても、隠しきれないほど深く暗い影を落としている。恋を知らぬまま枯れていく自分への哀れみよりも、明日の会議をどう乗り切るかという生存本能が、彼女を冷徹なマシーンへと変えていた。


「紬さーん? これ、今回落としたら次ないからね。分かってる?」


「……は、はい。承知……いたしましたぁ……」


返事をした自分の声が、まるで水底から響くかのように遠い。

その瞬間、視界がぐにゃりと万華鏡のように歪んだ。


使い古されたキーボードの、油分でテカテカになった「Enter」キー。それが、なぜか白くて、ふかふかで、最高級のパンの柔らかさを備えたクッションに見えた。


(あ……これ、ダメなやつだ。ブレーカーが落ちる……)


張り詰めていた最後の一本の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。


意識は、糸が切れた凧のように重力から解き放たれ、ゆっくりと、けれど抗いようのない速度で暗闇へと沈没していく。


意識が完全に消失する直前。


意識の端で、紬はデスクの隅に置いた「それ」を無意識に指先でなぞった。


それは、数ヶ月前に深夜のネットオークションで、「強力な安眠効果あり(ただし使用法注意)」という怪しい説明文と共に投げ売りされていた、古ぼけたすずのケースに入ったアロマキャンドルだった。 ラベルは掠れて読めず、どこか異国の、あるいはこの世のものではないような、古びた教会の香りがする代物。


(……これ、結局一度も火を灯せなかったな……。最後くらい、良い香りで眠りたかった……)


紬の目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。 それは悲しみというより、過労によって自律神経が崩壊し、制御不能になった体から溢れ出した、塩分濃度の高い「限界の雫」だった。


その一滴が、錫のケースの中にあった芯に触れた瞬間。 火も灯していないはずのキャンドルから、ありえないほどの眩い白光が溢れ出した。


(えっ……?)


驚く間もなかった。 紬の意識の消失と同時に、彼女がこれまで自分の体を騙し、削り、酷使するために蓄積してきた「癒やしの知識」と「休息への執念」が、その白光に吸い込まれていく。 デスクに突っ伏した彼女の指先が、最後に「Enter」キーを強く叩いた。


それが、異世界への「決定エンター」キーとなった。


(もし……もし次に目が覚めるなら。スマホの通知も、上司の嫌味も、面倒な人間関係も一切ない。遮光カーテン完備の静かな部屋で。……誰にも邪魔されず、100年くらい寝かせてほしい……)


その強烈な願いを燃料にして、安藤紬の魂は、現代日本のオフィスから物理的な法則を無視して「転送」された。


後に王都の魔導師たちが解析したところによれば、それは「極限状態の聖女候補による、無意識の時空転移魔法」であったという。だが、その時の紬にとっては、ただただ、この地獄のような深夜残業から解放されるための、たった一つの出口に過ぎなかった。


白光が収まった時、深夜のオフィスには、冷めきったコーヒーと、主を失ったパソコンが虚しく発光し続けているだけだった。

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