棺の花嫁は、死んでなどいない
──初夏。
婚姻と誓約を司る女神アルベリアが微笑むこの季節は、白百合月とも呼ばれる。
純白の花に宿るように、女神は清らかな想いを携えた者へと祝福を与えた。
それは、真に誓いを捧げた者だけに許される恩寵である。
けれど──もしその誓いが、毒されたものだったなら。
祝いは届かず、報いのみが降り注ぐだろう──。
* * *
◇白い花の降る日
白百合が、雨のように降っていた。
それは死を悼む者たちの手で切り取られた、祈りの形──祭壇の供花。
震える指先が、ひとつひとつの別れを託して空へ放つたび、純白の雨が静かに降りしきる。
花は羽のように軽く、音もなく、やがて棺へと舞い降りた。眠りにつく人に寄り添うように、そっと、やさしく。
棺の中のその人は、確かに“花嫁”だった。
おだやかに閉じたまぶた。安らぎすら湛えた微笑。死の苦痛も、別れの哀しみも、いっさいを拒んだように、美しい姿をしていた。
純白のドレスの裾が、棺の中に幾重にも美しく折りたたまれている。繊細なレースの隙間から覗く肌は、光を吸い込むように青白い。その中で、唇に塗られた深紅の口紅だけが、不気味なほど鮮やかだった。
花嫁衣装を纏った彼女は、まさにこの日のために、そしてこの瞬間のために生まれたかのように──息を呑むほど、まばゆかった。
「そんな、ユリア……どうして、こんなに早く……」
絞り出すような声だった。苦痛に歪んだ彼の顔は、明らかに憔悴しきっている。
白い百合の花々が敷き詰められた棺の傍らで、彼女の夫──名をクロードという男は、ただじっと、その花嫁を見つめていた。
彼は膝を折るでもなく、手を伸ばすでもなく、ただひとところに視線を凍らせて立ち尽くしていた。
深く落ちくぼんだ彼の眼窩には、涙の痕が幾筋も残されている。
参列者たちは、沈黙のなかで目を伏せた。
誰ひとり、声をかけることができなかった。
「……ああ、なんてことだ……」
それでも遠慮深く言葉を交わす弔問客たちの声が、白百合の香に混じって空間を染めていく。
「こんなにも美しい花嫁が、よりにもよって白百合月に……女神アルベリアの加護があるはずだったのに、まさか」
「本当は今日、結婚式だったのにね……。入籍はすでに済ませていたから……皆で盛大に祝うはずだったのに」
「それが、たった三日前にまた熱を出して、一晩で容態が急変して──翌朝にはもう……」
「病弱だったわけでもないのに、突然すぎて……。女神の嫉妬だとか、いや、報いだとか、そんな噂もあるみたい……」
彼女はもともと健康的で、皆がその未来を祝福していた美しい女だった。
誰もが疑いなく信じていた。彼女の未来は、幸福に満ちたものになるはずだと──。
それなのに、このところ体調を崩しがちであったという。
医師は「ごく稀にある急性の症状です」と説明し、人々は「神に選ばれ、天に召された」と口を揃えた。
そして彼女は今、この神聖な礼拝堂で、花嫁衣装のまま棺に入れられている。
誓いの言葉を交わすはずだったこの日、彼女は誓いを立てることもできなくなってしまった。
誰もが、その喪失を惜しんでいた。
若く、美しく、これから人生を歩み出そうとしていた棺の花嫁。
最愛の人を失ったクロードは、痛ましいほどやつれ果てていた。
その深い悲嘆は、偽りようもなく、彼の心臓を抉っているかのようだった。
白い花がまた、一輪、棺の上に落ちた。
そのとき。
音もなく。
棺の蓋が、わずかに。
揺れた。
──ような、気がした。
* * *
◇その愛は、毒に似て
紅茶の香りが部屋を満たしていた。
カーテンの隙間から射し込む朝の光が、テーブルクロスに咲いた花の刺繍を優しく照らす。その輪郭が、テーブルの表面に淡い影を落としていた。
「ユリア。砂糖は……一匙だけでよかったかい?」
彼──クロード・ランベールが、いつものように問いかけた。
その声の響きはとてもやわらかいものだった。
「ええ。あまり甘いのは、朝には少し重たくて」
彼女が応じた声もまた、おだやかな響きを持っていた。
その言葉を聞いたクロードの唇が綻ぶ。
「そうだったね」
彼のまなざしは慈しむように妻の顔を見つめていた。
結婚してまだ間もない二人。籍は先に入れたものの、結婚式はまだ先に控えていた。
けれどクロードにとってはもう充分だった。彼女とこうして朝を迎えて食卓を囲み、何気ないやりとりを交わすこと。それだけで、世界は完全だった。
──ユリア。
その名を呼ぶたび、彼は幸福を噛み締めていた。
彼女の指先はテーブルクロスの花と同じように繊細で、透けるように白い。
少しばかり痩せた頬に涼やかな笑みを浮かべて、彼女は紅茶を口に運ぶ。その儚げな姿があまりに美しく、その雰囲気にクロードは満足げに目を細めていた。
「少し……熱があるのかもしれません」
ユリアがぽつりと呟いたのは、朝食を終える頃だった。カップを置く手がふと止まり、かすかに眉を寄せていた。
クロードの表情が、一瞬にして曇る。
「え?」
「昨夜から、喉がちょっと……。でも、大丈夫ですわ。きっと休めばすぐに」
彼女は笑おうとしたが、その笑みにも、どこか儚さが滲んでいた。
「それは……心配だ。無理はしなくていい」
椅子を引く音と共に、クロードはすぐに席を立ち、彼女のもとへと回り込む。
そして、そっとユリアの手を取った。
細く冷えた指先。クロードはその甲に、祈るように唇を落とす。
「やつれてしまったら、結婚式のドレスが似合わなくなってしまうかしら」
いたずらっぽくもどこか寂しげに、ユリアは彼を見上げた。
「大丈夫。君は、とても綺麗だ」
迷いのないクロードの返答に、ユリアは笑みを浮かべる。そしてゆっくりと目を伏せ、そっと頷いた。
ユリアの体調は、ゆっくりと日を追うごとに──けれど確実に、崩れていった。
ひどく熱があるわけでも、激しい咳が出るわけでもない。
ただ、起き上がるのが少し億劫になった。朝食も、夕食も、喉を通らない日が増えた。指先に力が入らず、紅茶のカップを落としてしまうこともあった。
「薬を飲んで、しばらく眠るといい」
クロードはいつも、やさしい声でそう言った。
彼の用意する薬は、不思議と苦くなかった。口に含んでも不快な味はせず、むしろ淡い甘みがあった。
「ごめんなさい……また寝込んでしまって」
申し訳なさそうにユリアがそう言うと、クロードはそっと首を振った。
「謝ることじゃないよ」
その声音は、やはりやさしい。けれど、その奥に、ふと垣間見えるものがある。
──嬉しさ。
そう、彼はほんの少しだけ、嬉しそうにすら見えた。
弱った妻の介抱をすることができるのは、夫の特権であったからだ。
クロードは、決して彼女のそばを離れなかった。
冷たいタオルを額に当て、スープを丁寧にすくい、ユリアの唇へと運んだ。
それは、あまりに慎ましく、やさしく──壊れ物を大事に扱う献身の仕草に見えた。
やがて、ユリアが目を覚まさない朝が来た。
窓から差し込む初夏の光が、白いシーツを静かに照らしていた。薄いレースのカーテンが揺れ、風がわずかに部屋の空気を撫でる。鳥のさえずりが遠くに聞こえ、日常は変わらぬままに続いていた。
けれどその中心にあるはずの彼女は、もう何ひとつ動かなかった。
クロードは何度も、その名を呼んだ。だが、返事はなかった。
頬に触れれば、まだかすかな温もりがある。けれど──彼女は、深い眠りについていた。永遠に目覚めることのない、安らかすぎる静寂のなかに。
「……ユリア」
涙に濡れた震える声が、室内にこだまする。
彼の胸を満たしていたのは、紛れもない喪失だった。何かを疑う余地などない。彼女がいないということ──それだけが、ただ冷たく現実となってそこに横たわっていた。
「どうしてだ、ユリア……こんな、早すぎる……」
彼女の肌は、透き通るように白く、頬にはまだ赤みが残っていた。喉の細さ、指先の儚さ──そして、唇に浮かんだおだやかな笑み。
ユリアは美しいまま、時を止めていた。
呼び出された医師が、低く、感情を交えぬ声で診断を告げる。
「明確な原因は判然としません。が……急性の心疾患、あるいは神経系の異常が考えられます。高熱が引き金となった可能性もあります」
クロードは何も言わなかった。ただ俯いて、彼女のそばから離れようとしなかった。
膝をつき、その手を取っていた。その沈黙は、深い悲嘆に打ちひしがれた男の姿そのものだった。
新妻のあまりに早すぎる死に、誰もがクロードを憐れんだ。
数日後、ユリアの葬儀が執り行われた。
参列者は皆、若くして命を散らした花嫁、そして最愛の人を失ったクロードの悲劇に、言葉を失っていた。
だが──そんな中、声なき囁きもまた、確かに忍び込んでいた。
「それにしても……また、とはね」
「クロード様がお選びになる女性は、どうも儚げな方が多いと聞いていましたが……こうも続けて亡くなられるとは。確か前の奥様も、同じように……」
「お可哀そうに。縁がないのか、それとも……」
誰もそれを正面から口にはしない。けれど、そうした影のような噂は、決して完全に消えることなく、冷たい風のように祭壇の周囲を這っていた。
だが、そんな声など届かぬかのように──クロードの悲嘆は、ただひたすらに深く、重かった。
彼女の棺を見つめて膝を折り、「どうして……」と何度も繰り返す。
その声は掠れ、肩は震え、頬を伝う涙は止むことを知らなかった。もはや言葉ではなく、祈りに近いその呻きが、静寂の礼拝堂に滲むように響いていた。
そして、夜が訪れる。
参列者たちが帰路につき、花々の香りも薄れていくなか。
誰もいない礼拝堂に、ただ一人──クロード・ランベールの姿だけが残っていた。
月明かりの下、彼は棺の前に跪き、深く長い祈りを捧げていた──。
* * *
◇遺された真実
〇月×日──
クロード様と出会った日のことを、今でもはっきりと覚えている。庭の白百合が満開で、風に乗って甘い香りが漂う中で、彼は現れた。まるで物語から抜け出たように優雅で、それでいて力強い瞳を持った方。
あのとき、私の世界は、彼の輝きで満たされた。こんな病弱な私など、誰も見向きもしないと思っていたのに。
クロード様は私の手を取って、「君のような可憐な人は、私が守らなければ」と、そう言ってくださった。
〇月△日──
プロポーズされた。信じられない。夢じゃないかと、何度も頬をつねった。この、病に伏しがちな私を、永遠の妻にと望んでくださるなんて。
「君の弱さも、私にとっては愛おしい」──そう言って、私の額に口づけてくれた。
胸がいっぱいになって、すぐにあの子に報告した。自分のことみたいに喜んでくれて、とても嬉しかった。
〇月□日──
結婚してからというもの、毎日とっても幸せだ。クロード様は、些細なことにも気を配ってくださる。私のために用意してくださる紅茶はいつもあたたかく、病に伏せれば献身的に看病してくださる。
「大丈夫かい? 顔色が悪いね」と心配そうに眉を下げて、私の手を握ってくださる。
そのたびに、私はこの方のために生きたいと願った。この命が尽きるそのときまで、彼にすべてを捧げようと誓った。
〇月×日──
このところ、体調がすぐれない。朝起きるのが億劫で、指先に力が入らない。けれど、クロード様はますます優しくなった。夜通し、私の傍らにいてくれる。
けれど時折、思う。私が寝込むことを、あの人は、喜んでいるのではないか。
そんなはず、ない。きっと、気のせいだ。
〇月△日──
クロード様が毎日欠かさず飲ませてくれる薬。甘い香りがする、不思議な薬。
「これは君のための特別な薬だよ」と彼は言うけれど。
ふと夜中に目が覚めて、薬瓶のラベルを見た。そこには見たことのない文字と、不穏な植物の絵が描かれていた。私は、少し、こわくなった。
〇月□日──
こわい。おそろしい。
今朝、熱にうなされるふりをして、そっと目を開けた。クロード様は、私の顔を見つめていた。その瞳は、うっとりとしていた。
そして、彼は静かに呟いた。「君は……本当に、美しい」って。
私の心臓は、凍り付いた。やっぱり、この人は、弱った私を愛しているだけなの?
〇月×日──
思い返せば、そうだった。
クロード様のこれまでの恋人たち。ローズ様も、デイジー様も、──そして、きっとその前にも、名前の残らなかった人たちがいるのかもしれない。
皆、病に伏せ、若くして亡くなった。あの頃は、ただの不運だと、運命のいたずらだと、誰もがそう言っていたけれど。
私は……私は、わかってしまった。彼にとってのいちばん新しい獲物、それが私なのだ。
指先が震えて、文字がうまく書けなくなってきた。
〇月△日──
あの子が、私の部屋を訪ねてくれた。
その声は、やさしかった。心配そうに私の顔を覗き込むあの子に、私は何も言えなかった。
ごめんなさい。助けてと言えなかった。あなたを巻き込みたくなかった。弱い私を許して。
〇月□日──
たぶん、これが最後の日記になるかもしれない。
私、白百合の月に結婚するのが夢だった。
きれいなドレスを着て、すてきな花嫁になるのが、ずっと憧れだった。
叶ったと思った。でも、私、間違えちゃったみたい。ごめんね。
ねえ、ユリア。
あなたは、幸せになってね。
──あなたの親友、リリアン
* * *
◇棺の中で眠る女
まぶたの裏は、闇の色をしていた。
夜の色よりも深く、泉の底よりも濃く濃く、濁りない無音の黒──決して、安らぎを伴うものではなかった。
ユリアは息を殺し、微動だにせず横たわっていた。冷たい木の底板。わずかに感じる百合の甘い香り。
外の音はほとんど聞こえない。ただ、世界がひどく遠いのだと実感させる静寂があった。
(……生きてる)
胸の奥で、言葉にならない声が反響する。心臓は確かに動いている。微細な緊張が肺を縛り、呼吸が浅くなる。
だが、誰にも悟られてはならなかった。自分が“まだ生きている”ことを、この棺の外に知られてはならない。
ユリアの唇には、紅が差していた。それは施された化粧の一部──ということになっていた。けれどその実、唇の内側には毒が塗布されていた。
医師と、彼女のもとで長年仕えていた老女と、そして親友の兄。信じられる人間の手を借りて、ユリアは自らの“死”を仕組んだ。
(ごめんなさい、お父様、お母様……)
本当に死んだと思わせなければ、あの男は決して気を緩めない。
微笑の奥に、ささやきの中に、彼は毒を仕込む人間だ。けれど同時に、自分の理想を崩された瞬間、あっけなく瓦解するほど脆いだろうと算段をつけていた。
だからこそ、“死”という舞台が必要だった。
ユリアは闇の中で、リリアン──親友の日記をはじめて開いた日のことを思い返していた。
中に綴られた文字は、あまりにも生々しかった。まるで書いた本人の温度をそのまま封じ込めたように──あたたかく、そして、哀しかった。
頁をめくるたびに、胸の奥がじくじくと痛んだ。そこに綴られていたのは、リリアンが遺した真実だった。
リリアンは、かつてクロード・ランベールに恋をした。
日記には、彼のやさしさが綴られていた。言葉遣いはおだやかで、目を見て話してくれて、決して声を荒げなかったこと。風邪を引けば薬を持ってきてくれ、咳が止まらない夜はそっと背中を撫でてくれたこと。
だが──季節が進むにつれ、日記の記述もまた変わっていった。
「少し疲れやすい」「最近、食欲がない」「指先がよく冷える」──行間から、リリアンの身体が細っていく音が、かすかに聞こえてくるようだった。
けれど彼女は「大丈夫」と微笑んでいた。ユリアの知っている、あの笑顔で。
そして──リリアンは、死んだ。
親友は愛された。けれど、愛されたまま壊された。
あの男は愛のかたちをして、人を殺す。愛した人の消えてゆくその過程にこそ、美を見出す。
クロードの嘆きは本物だっただろう。愛する女性が儚く散るのを、彼は心から悲しんだはずだ。だが、その悲しみは、彼自身の倒錯した愛の成就ゆえの甘美な悲劇なのだ。
ならば──自分も“死”を以て愛された女のふりをしよう。
“病弱で、儚く、美しく逝った”女として、棺の中から彼に微笑み返してやろう。
彼女はそう、決めていた。
かすかに棺が揺れた。外側から、誰かが触れたのだ。
ユリアは、呼吸すら止めたまま、じっと沈黙を保った。
──そして、声がした。
「……ユリア……」
それは、かつて幾度も耳元で囁かれた響き。
いま、それは胸の底で腐りゆく。心が震えた──怒りで、嫌悪で、そして哀しみで。
クロード──この男はきっと、本当に泣いている。だが、それが滑稽でならなかった。
自らの手で枯らした花の前で、愛を語る男のなんと愚かなことか。
(私の親友を病という檻に閉じ込め、それを愛と呼んだあなたを──私は、決して、許さない)
唇に塗られた毒によるわずかな痺れが、彼女の意識を澄ませていく。
この沈黙の底で、復讐の炎が音もなく静かに燃え上がっていた。
(目覚めの時間よ、クロード)
──彼女は、そっと目を開けた。
* * *
◇報いの口づけ
誰もいない礼拝堂に、ひとつだけ灯る燭台の火。
月のわずかな光が注ぎ込み、この空間を照らしていた。
クロード・ランベールは、膝をついていた。
白百合で飾られた棺の前、頭を垂れ、静かに祈っている。──いや、祈っているように見せかけていた。
本当は、ただ打ちひしがれていた。
愛した女が、こんなにも早く逝ってしまうなど。
もっと長く、愛でていられるはずだった。
もっと長く、病弱な彼女のか細い声を聞き、弱ってゆく様子を見つめていられるはずだった。
それなのに──。
「こんなに、早いなんて……」
そのときだった。
礼拝堂に、軋む音が響いた。
長く、低く、誰かの嘆きが木材に染みついたような、いやらしく耳を這う音。
クロードは反射的に顔を上げた。
──棺の蓋が、わずかに持ち上がっていた。
そこから現れたのは、白い指先だった。
やせ細りながらも滑らかで、まるで死化粧の一部のように静謐な美しさを湛えた、見慣れた手。
次の瞬間。
その手が、彼の首元を掴んだ。
瞬きの暇すらなかった。
喉に触れる冷たい指に、クロードはようやく、己の呼吸が奪われていることに気がついた。
棺から這い出てきたそれは、まさしくユリアだった。
純白の花嫁衣装に身を包んだ女の顔はほんのりと青白い。ただひとつ、唇に差された紅だけが、血のように黒かった。
その瞳にはかつての儚げな光はなく、底の見えない湖のように冷たい輝きを宿している。
愛された記憶も、語りかけたやさしさも、すべてがまやかしだったと告げるような、絶対零度のまなざしがそこにあった。
口を開こうとした。叫ぼうとした。
だが、喉が凍りついたかのように音を失っていた。
なんとか絞り出された声は、かすれきっていた。
「……あ……ユリア……?」
ユリアは何も答えず、ただ黙って彼の襟元を掴み、引き寄せる。
そして──そのまま、唇を重ねた。
ひとつの、冷たい口づけ。
それは愛の記憶などではなく、死と復讐の証として、彼の呼吸を封じ込めた。
クロードの肩がびくりと震えた。理解が追いつかない。理性が拒絶する。
だがその中でも、恐怖だけは真っ先に芽吹いていた。
臓腑を直接掴まれたようなどうしようもない底知れなさが、彼の内部で蠢いている。
「ええ。あなたのユリアです」
静かだった。だがその声は、礼拝堂の石壁を這うように響き渡り、彼の耳膜を直接叩く。
鼓膜の奥、脳に届く。否、魂に届く。
ユリアは、ゆっくりと彼を押し返した。
突き飛ばすというにはあまりにも軽やかに──だが、クロードは簡単に崩れ落ちた。
膝から砕け、床に手をつき、呆然と白い彼女を見上げる。
「なぜ……君は……死んだはずだ……! 私が……私が……!」
喉の奥からにじむその声は、すでに悲嘆ではなかった。
それは、罪を暴かれる者の呻き。崩壊を前にした、怯えの悲鳴だった。
「ええ。あなたの目には、そう映ったのでしょうね」
ユリアは、ひとひらの白百合のように膝を折った。
優雅に、荘厳に、彼の前へ。
その手がそっと、クロードの頬に触れる。けれどそれは、慰めではない。
病人を看病する恋人のような仕草でありながら──刃の冷たさを孕んでいた。
「あなたは私を“看病”していたのではなく、“観賞”していたのでしょう?」
クロードは、息を詰まらせた。
「ちがう……ちがう……!」
繰り返す声は、もはや自分自身への呪文のようだった。
目を伏せ、背を丸め、唇を噛み、崩れ落ちていく。
その言葉はどろどろと濁り、聖域の床を穢していった。
「愛していた……! 本当に、君を……! 愛していたんだ……! 女神アルべリアに、誓って……!」
神の名さえも持ち出し、己の愛を正当化しようとする。
だがそれは、祈りでも贖罪でもない。
ただ、自分が受ける罰への恐怖──その一心から湧き出た、情けない命乞いだった。
「私を……恨んでいるなら……許してくれ……謝る、謝るから! 君を……殺したことをっ……!」
額を床に擦りつけるようにして、必死に縋る。
ユリアの白い裾に手を伸ばし、泥のような声で叫ぶ。
その姿は誇り高き貴族であるとは思えぬほど、無様だった。
「あはっ……何をおっしゃって?」
ユリアが笑った。その声音に、狂気も憐れみもない。
あるのはただ、壊されたものの名を告げるための、静かな報復の響き。
「あなたが殺したのは、私ではありません。私の──大切な友人。リリアンです」
その名が告げられた瞬間。
クロードの瞳が、まるで稲妻を受けたかのように見開かれた。
喉が焼け、肺が軋み、心臓が乱打をはじめる。
「……リリアン、だと……君は……いったい……」
耳にした自分の声さえ信じられず、彼は震えていた。
「彼女の夢、知っていますか?」
ユリアの声が、そっと降る。
耳元で囁くように、甘やかに。けれど、その響きは鋭い氷刃となって、皮膚ではなく、心臓を裂いた。
「白百合の月に、素敵な花嫁になること。──あなたが、その夢を踏みにじったのです」
その言葉は、告発ではない。審判でもない。
ただ、もう二度と消えない真実を述べているだけだった。
「……っあ、……あああ……!」
クロードは──理解した。
目の前のこの女は、自分が壊したかつての花嫁──リリアンの祈りを背負い、復讐のために現れたのだと。
男は目を見開いたまま、唇を戦慄かせ、やがてその場で嗚咽を洩らした。
涙が止まらない。頬を伝い、顎を濡らし、礼拝堂の石床にぽたぽたと落ちてゆく。
鼻をすする音も、もう隠せなかった。
「たすけ、……たすけて……ユリア……命だけは……!」
掠れた声。震える舌。息が続かず、語尾が濁る。
懇願とも叫びともつかぬ呻きが、礼拝堂の高い天蓋にまで届いた。
彼は這いつくばりながら両腕を伸ばし、ユリアに縋ろうとした。
だが震えるその手は、ただ虚空を掻くだけだった。
「なんでもする……君のために、生きるから……!」
懇願は、もはや言葉ではなかった。
呻きであり、喉の奥から洩れる悲鳴であり、魂の底から湧き出たただの恐怖だった。
ユリアは、そんな彼を見下していた。
白百合のようなドレスは、涙も泥も受け入れず、ただ静謐に月明かりを浴びていた。
「まあ。ご安心くださいな。誰も命を奪うなど、申していなくてよ」
彼女は、まるで花が綻ぶように、微笑んだ。
その笑みは、クロードの瞳には──地獄の業火にしか見えなかった。
「だって。あの子が苦しんだ分だけ、あなたにも、苦しんでもらわないといけませんもの」
その声音は、冷たく、澄み渡っていた。
まるで、神殿に響く神託のように。
「女神アルベリアの祝福は、純粋な愛にのみ与えられる。歪んだ愛には、報いしか降り注がない。──これこそが、あなたの愛に与えられる“祝福”なのよ」
そう言って、ユリアは、ゆっくりと彼に歩み寄った。
膝をつき、顔を近づけ、そして──もう一度、唇を重ねた。
ただ触れるだけの、静かで冷たい口づけ。
けれど、その接触がもたらしたものは、恋でも愛でもなく──確かな“毒”だった。
そしてクロードの体に、異変が訪れた。
糸の切れた操り人形のようにだらりと四肢が垂れ、完全に崩れ落ちることさえできず、その場に膝をついたまま動けなくなった。
ただ──瞳だけが、異様なほどに見開かれていた。恐怖と混乱と、理解の追いつかぬ絶望が、ごちゃまぜになって、どろどろと眼窩に詰まっている。
涙と鼻水と涎の混ざった顔は、さながら嗤い者の仮面のよう。誰よりも愛を語ったその唇は、今やだらしなく開き、空気を噛むことしかできない。
「……ようやく、効いたみたいね?」
ユリアは声は落ち着いていた。
その口づけは毒の運び手であっても、彼女を害すものではない。
彼だけが、甘やかに毒されたのだ。
「これからあなたは……話すことも、逃げることも、叫ぶこともできなくなる。けれど、“生きている”ことだけは、否応なく続く。動かない体で、何もできないまま、意識だけが残り続けるの」
恋人に語りかけるような声音で言いながら、やさしく彼の髪を撫でた。
「リリアンと……あなたが愛した人と、同じになれるのよ?」
彼女は微笑んだ。
復讐の炎は、彼を焼き尽くしはしない。
ただ、終わることのない痛みと、癒えぬ悔恨だけを、その心に植えつける。
「ねえ、クロード。あの子があなたを愛した日々と同じだけ、私もあなたを、毒してあげるわ」
* * *
◇白百合の檻
それは、人里から遠く離れた、地図にも載らぬ小さな館だった。
街の誰も、その場所の存在を知らない。屋敷の前に道標はなく、季節の風すら、この閉ざされた空間には届かない。ただ、窓辺にはいつも白百合の花が、いつであっても揺れていた。
その香りは甘く、どこか物悲しく──だが、よく知る者には、薬品めいた鋭さも含んでいることに気づくだろう。
家の主は、美しい女だった。白い肌に、静かな微笑み。けれどその笑みが誰かに向けられることはなかった。なぜなら彼女の暮らしには、表向き──誰の影もなかったから。
奥の部屋には、ひとつの車椅子があった。そこに座る男は、すっかり痩せこけ、毛布に包まれながら、目を見開いたまま虚空をさまよっていた。
クロード──かつて栄華のただ中にいた男の成れの果て。
彼の目は開かれているのに、何も見ていない。ただ時折、ひくりと唇が震える。それは痛みによるものか、思い出の残滓か。
彼は、ただ座り続けていた。動くことも、話すことも、拒むこともできずに。
「ほら、お時間ですよ」
ユリアの声は、まるで恋人を呼ぶようにやさしい。けれどそれは、氷のように冷たくもあった。
彼女の手には、小さなスプーンがある。そこから漂う甘い香りには、忘れようもないあの夜の記憶が刻まれている。
彼女の指が彼の顎をそっと持ち上げ、唇の隙間にスプーンを差し入れる。
「さあ、今日も飲みましょうね。これは“薬”ですから」
クロードの喉が、わずかに痙攣する。飲み込むという行為に、もはや彼の意思は関与していない。ただ、身体が条件反射で従っているにすぎない。
男の瞳に、わずかに光が宿った。それが涙だったのか、それとも毒への反応だったのかは、誰にもわからない。けれど、そのわずかな輝きこそが──彼がまだ、意識の檻の中で呻いている証だった。
飲ませ終えると、ユリアはいつものように、傍らに置かれた一冊の日記を手にする。それは、親友リリアンが遺した、あの真実を綴ったものだった。
金色の縁取りがされた表紙を指でなぞり、ゆっくりと開く。そこには、誰にも見せなかった少女の感情が、滲んだインクの文字で綴られていた。
「さて、今日は……このページにしましょうか」
彼女の声は、祈りを捧げるがごとく静謐だった。
「『クロード様は熱にうなされる私を見て、「なんて繊細なのだ」と心を痛めてくださるように見えた』──」
一字一字、慈しむように読み上げる。まるで、聖典を朗読するように。しかしその言葉は、彼にとっては呪いだった。
クロードの喉が、かすかに詰まる。声にはならない。けれど、苦悶の震えが喉の奥で渦巻いている。
「苦しかったでしょうね、リリアン。だってこの男は、ただあなたを眺めて悦に浸っていただけですものね。熱に染まる肌を“芸術”と呼び、弱る声を“音楽”だと讃えて。──勝手に、鑑賞して」
言葉の響きが、部屋に溶けていく。冷ややかに、ただ報いを果たす者の笑みがそこにある。
そうして、一日の終わりには、次の頁に栞が挟まれる。
毎日、毎日、欠かさず。
頁が尽きる、そのときまで──。
窓の外では、また一輪、白百合が花開いた。
その白い花びらは、触れれば消えてしまいそうなほど儚げで──けれどじっと、底に毒を溜め込んでいる。
今日も変わらぬ香りのなか、かつての棺の花嫁は微笑んだ。
叶えられなかった願いを胸に、それでも──あの子の祈りだけは、永遠に手放さぬようにと。