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棺の花嫁は、死んでなどいない

作者: 矢ヶ崎

 

 

 ──初夏。

 

 婚姻と誓約を司る女神アルベリアが微笑むこの季節は、白百合月とも呼ばれる。

 

 純白の花に宿るように、女神は清らかな想いを携えた者へと祝福を与えた。

 それは、真に誓いを捧げた者だけに許される恩寵である。

 

 けれど──もしその誓いが、毒されたものだったなら。

 祝いは届かず、報いのみが降り注ぐだろう──。

 

 

 * * *

 

 

◇白い花の降る日

 

 

 白百合が、雨のように降っていた。

 

 それは死を悼む者たちの手で切り取られた、祈りの形──祭壇の供花。

 震える指先が、ひとつひとつの別れを託して空へ放つたび、純白の雨が静かに降りしきる。

 花は羽のように軽く、音もなく、やがて棺へと舞い降りた。眠りにつく人に寄り添うように、そっと、やさしく。

 

 棺の中のその人は、確かに“花嫁”だった。

 おだやかに閉じたまぶた。安らぎすら湛えた微笑。死の苦痛も、別れの哀しみも、いっさいを拒んだように、美しい姿をしていた。

 

 純白のドレスの裾が、棺の中に幾重にも美しく折りたたまれている。繊細なレースの隙間から覗く肌は、光を吸い込むように青白い。その中で、唇に塗られた深紅の口紅だけが、不気味なほど鮮やかだった。

 

 花嫁衣装を纏った彼女は、まさにこの日のために、そしてこの瞬間のために生まれたかのように──息を呑むほど、まばゆかった。


「そんな、ユリア……どうして、こんなに早く……」

 

 絞り出すような声だった。苦痛に歪んだ彼の顔は、明らかに憔悴しきっている。

 白い百合の花々が敷き詰められた棺の傍らで、彼女の夫──名をクロードという男は、ただじっと、その花嫁を見つめていた。

 彼は膝を折るでもなく、手を伸ばすでもなく、ただひとところに視線を凍らせて立ち尽くしていた。

 深く落ちくぼんだ彼の眼窩には、涙の痕が幾筋も残されている。


 参列者たちは、沈黙のなかで目を伏せた。

 誰ひとり、声をかけることができなかった。

 

「……ああ、なんてことだ……」

 

 それでも遠慮深く言葉を交わす弔問客たちの声が、白百合の香に混じって空間を染めていく。

 

「こんなにも美しい花嫁が、よりにもよって白百合月に……女神アルベリアの加護があるはずだったのに、まさか」

「本当は今日、結婚式だったのにね……。入籍はすでに済ませていたから……皆で盛大に祝うはずだったのに」

「それが、たった三日前にまた熱を出して、一晩で容態が急変して──翌朝にはもう……」

「病弱だったわけでもないのに、突然すぎて……。女神の嫉妬だとか、いや、報いだとか、そんな噂もあるみたい……」

 

 彼女はもともと健康的で、皆がその未来を祝福していた美しい女だった。

 誰もが疑いなく信じていた。彼女の未来は、幸福に満ちたものになるはずだと──。

 

 それなのに、このところ体調を崩しがちであったという。

 医師は「ごく稀にある急性の症状です」と説明し、人々は「神に選ばれ、天に召された」と口を揃えた。

 

 そして彼女は今、この神聖な礼拝堂で、花嫁衣装のまま棺に入れられている。

 誓いの言葉を交わすはずだったこの日、彼女は誓いを立てることもできなくなってしまった。

 

 誰もが、その喪失を惜しんでいた。

 若く、美しく、これから人生を歩み出そうとしていた棺の花嫁。

 

 最愛の人を失ったクロードは、痛ましいほどやつれ果てていた。

 その深い悲嘆は、偽りようもなく、彼の心臓を抉っているかのようだった。

 

 白い花がまた、一輪、棺の上に落ちた。

 

 

 そのとき。

 音もなく。

 

 棺の蓋が、わずかに。

 

 揺れた。

 

 ──ような、気がした。

 

 

 * * *

 

 

◇その愛は、毒に似て

 

 

 紅茶の香りが部屋を満たしていた。

 カーテンの隙間から射し込む朝の光が、テーブルクロスに咲いた花の刺繍を優しく照らす。その輪郭が、テーブルの表面に淡い影を落としていた。

 

「ユリア。砂糖は……一匙だけでよかったかい?」

 

 彼──クロード・ランベールが、いつものように問いかけた。

 その声の響きはとてもやわらかいものだった。


「ええ。あまり甘いのは、朝には少し重たくて」

 

 彼女が応じた声もまた、おだやかな響きを持っていた。

 その言葉を聞いたクロードの唇が綻ぶ。

 

「そうだったね」

 

 彼のまなざしは慈しむように妻の顔を見つめていた。

 結婚してまだ間もない二人。籍は先に入れたものの、結婚式はまだ先に控えていた。

 けれどクロードにとってはもう充分だった。彼女とこうして朝を迎えて食卓を囲み、何気ないやりとりを交わすこと。それだけで、世界は完全だった。

 

 ──ユリア。

 

 その名を呼ぶたび、彼は幸福を噛み締めていた。

 彼女の指先はテーブルクロスの花と同じように繊細で、透けるように白い。

 少しばかり痩せた頬に涼やかな笑みを浮かべて、彼女は紅茶を口に運ぶ。その儚げな姿があまりに美しく、その雰囲気にクロードは満足げに目を細めていた。

 

 

「少し……熱があるのかもしれません」

 

 ユリアがぽつりと呟いたのは、朝食を終える頃だった。カップを置く手がふと止まり、かすかに眉を寄せていた。

 クロードの表情が、一瞬にして曇る。

 

「え?」

「昨夜から、喉がちょっと……。でも、大丈夫ですわ。きっと休めばすぐに」

 

 彼女は笑おうとしたが、その笑みにも、どこか儚さが滲んでいた。

 

「それは……心配だ。無理はしなくていい」

 

 椅子を引く音と共に、クロードはすぐに席を立ち、彼女のもとへと回り込む。

 そして、そっとユリアの手を取った。

 

 細く冷えた指先。クロードはその甲に、祈るように唇を落とす。

 

「やつれてしまったら、結婚式のドレスが似合わなくなってしまうかしら」

 

 いたずらっぽくもどこか寂しげに、ユリアは彼を見上げた。

 

「大丈夫。君は、とても綺麗だ」

 

 迷いのないクロードの返答に、ユリアは笑みを浮かべる。そしてゆっくりと目を伏せ、そっと頷いた。

 

 

 ユリアの体調は、ゆっくりと日を追うごとに──けれど確実に、崩れていった。

 

 ひどく熱があるわけでも、激しい咳が出るわけでもない。

 ただ、起き上がるのが少し億劫になった。朝食も、夕食も、喉を通らない日が増えた。指先に力が入らず、紅茶のカップを落としてしまうこともあった。

 

「薬を飲んで、しばらく眠るといい」

 

 クロードはいつも、やさしい声でそう言った。

 彼の用意する薬は、不思議と苦くなかった。口に含んでも不快な味はせず、むしろ淡い甘みがあった。

 

「ごめんなさい……また寝込んでしまって」

 

 申し訳なさそうにユリアがそう言うと、クロードはそっと首を振った。

 

「謝ることじゃないよ」

 

 その声音は、やはりやさしい。けれど、その奥に、ふと垣間見えるものがある。

 

 ──嬉しさ。

 そう、彼はほんの少しだけ、嬉しそうにすら見えた。

 弱った妻の介抱をすることができるのは、夫の特権であったからだ。

 

 クロードは、決して彼女のそばを離れなかった。

 冷たいタオルを額に当て、スープを丁寧にすくい、ユリアの唇へと運んだ。

 

 それは、あまりに慎ましく、やさしく──壊れ物を大事に扱う献身の仕草に見えた。

 

 

 

 

 やがて、ユリアが目を覚まさない朝が来た。

 

 窓から差し込む初夏の光が、白いシーツを静かに照らしていた。薄いレースのカーテンが揺れ、風がわずかに部屋の空気を撫でる。鳥のさえずりが遠くに聞こえ、日常は変わらぬままに続いていた。

 

 けれどその中心にあるはずの彼女は、もう何ひとつ動かなかった。

 

 クロードは何度も、その名を呼んだ。だが、返事はなかった。

 

 頬に触れれば、まだかすかな温もりがある。けれど──彼女は、深い眠りについていた。永遠に目覚めることのない、安らかすぎる静寂のなかに。

 

「……ユリア」

 

 涙に濡れた震える声が、室内にこだまする。

 

 彼の胸を満たしていたのは、紛れもない喪失だった。何かを疑う余地などない。彼女がいないということ──それだけが、ただ冷たく現実となってそこに横たわっていた。

 

「どうしてだ、ユリア……こんな、早すぎる……」

 

 彼女の肌は、透き通るように白く、頬にはまだ赤みが残っていた。喉の細さ、指先の儚さ──そして、唇に浮かんだおだやかな笑み。

 ユリアは美しいまま、時を止めていた。

 

 呼び出された医師が、低く、感情を交えぬ声で診断を告げる。

 

「明確な原因は判然としません。が……急性の心疾患、あるいは神経系の異常が考えられます。高熱が引き金となった可能性もあります」

 

 クロードは何も言わなかった。ただ俯いて、彼女のそばから離れようとしなかった。

 膝をつき、その手を取っていた。その沈黙は、深い悲嘆に打ちひしがれた男の姿そのものだった。

 

 新妻のあまりに早すぎる死に、誰もがクロードを憐れんだ。

 

 

 数日後、ユリアの葬儀が執り行われた。

 

 参列者は皆、若くして命を散らした花嫁、そして最愛の人を失ったクロードの悲劇に、言葉を失っていた。

 

 だが──そんな中、声なき囁きもまた、確かに忍び込んでいた。

 

「それにしても……また、とはね」

「クロード様がお選びになる女性は、どうも儚げな方が多いと聞いていましたが……こうも続けて亡くなられるとは。確か前の奥様も、同じように……」

「お可哀そうに。縁がないのか、それとも……」

 

 誰もそれを正面から口にはしない。けれど、そうした影のような噂は、決して完全に消えることなく、冷たい風のように祭壇の周囲を這っていた。

 

 だが、そんな声など届かぬかのように──クロードの悲嘆は、ただひたすらに深く、重かった。

 彼女の棺を見つめて膝を折り、「どうして……」と何度も繰り返す。

 その声は掠れ、肩は震え、頬を伝う涙は止むことを知らなかった。もはや言葉ではなく、祈りに近いその呻きが、静寂の礼拝堂に滲むように響いていた。

 

 

 そして、夜が訪れる。

 

 参列者たちが帰路につき、花々の香りも薄れていくなか。

 誰もいない礼拝堂に、ただ一人──クロード・ランベールの姿だけが残っていた。

 

 月明かりの下、彼は棺の前に跪き、深く長い祈りを捧げていた──。

 

 

 * * *

 

 

◇遺された真実

 

 

〇月×日──

 

 クロード様と出会った日のことを、今でもはっきりと覚えている。庭の白百合が満開で、風に乗って甘い香りが漂う中で、彼は現れた。まるで物語から抜け出たように優雅で、それでいて力強い瞳を持った方。

 あのとき、私の世界は、彼の輝きで満たされた。こんな病弱な私など、誰も見向きもしないと思っていたのに。

 クロード様は私の手を取って、「君のような可憐な人は、私が守らなければ」と、そう言ってくださった。

 

 

〇月△日──

 

 プロポーズされた。信じられない。夢じゃないかと、何度も頬をつねった。この、病に伏しがちな私を、永遠の妻にと望んでくださるなんて。

 「君の弱さも、私にとっては愛おしい」──そう言って、私の額に口づけてくれた。

 胸がいっぱいになって、すぐにあの子に報告した。自分のことみたいに喜んでくれて、とても嬉しかった。

 

 

〇月□日──

 

 結婚してからというもの、毎日とっても幸せだ。クロード様は、些細なことにも気を配ってくださる。私のために用意してくださる紅茶はいつもあたたかく、病に伏せれば献身的に看病してくださる。

 「大丈夫かい? 顔色が悪いね」と心配そうに眉を下げて、私の手を握ってくださる。

 そのたびに、私はこの方のために生きたいと願った。この命が尽きるそのときまで、彼にすべてを捧げようと誓った。

 

 

〇月×日──

 

 このところ、体調がすぐれない。朝起きるのが億劫で、指先に力が入らない。けれど、クロード様はますます優しくなった。夜通し、私の傍らにいてくれる。

 けれど時折、思う。私が寝込むことを、あの人は、喜んでいるのではないか。

 そんなはず、ない。きっと、気のせいだ。

 

 

〇月△日──

 

 クロード様が毎日欠かさず飲ませてくれる薬。甘い香りがする、不思議な薬。

 「これは君のための特別な薬だよ」と彼は言うけれど。

 ふと夜中に目が覚めて、薬瓶のラベルを見た。そこには見たことのない文字と、不穏な植物の絵が描かれていた。私は、少し、こわくなった。

 

 

〇月□日──

 

 こわい。おそろしい。

 今朝、熱にうなされるふりをして、そっと目を開けた。クロード様は、私の顔を見つめていた。その瞳は、うっとりとしていた。

 そして、彼は静かに呟いた。「君は……本当に、美しい」って。

 私の心臓は、凍り付いた。やっぱり、この人は、弱った私を愛しているだけなの?

  

 

〇月×日──

 

 思い返せば、そうだった。

 クロード様のこれまでの恋人たち。ローズ様も、デイジー様も、──そして、きっとその前にも、名前の残らなかった人たちがいるのかもしれない。

 皆、病に伏せ、若くして亡くなった。あの頃は、ただの不運だと、運命のいたずらだと、誰もがそう言っていたけれど。

 私は……私は、わかってしまった。彼にとってのいちばん新しい獲物、それが私なのだ。

 指先が震えて、文字がうまく書けなくなってきた。

 

 

〇月△日──

 

 あの子が、私の部屋を訪ねてくれた。

 その声は、やさしかった。心配そうに私の顔を覗き込むあの子に、私は何も言えなかった。

 ごめんなさい。助けてと言えなかった。あなたを巻き込みたくなかった。弱い私を許して。

 

 

〇月□日──

 

 たぶん、これが最後の日記になるかもしれない。

 

 私、白百合の月に結婚するのが夢だった。

 きれいなドレスを着て、すてきな花嫁になるのが、ずっと憧れだった。

 叶ったと思った。でも、私、間違えちゃったみたい。ごめんね。

 

 ねえ、ユリア。

 あなたは、幸せになってね。

 

 ──あなたの親友、リリアン

 

 

 * * *

 

 

◇棺の中で眠る女

 

 

 まぶたの裏は、闇の色をしていた。

 夜の色よりも深く、泉の底よりも濃く濃く、濁りない無音の黒──決して、安らぎを伴うものではなかった。

 

 ユリアは息を殺し、微動だにせず横たわっていた。冷たい木の底板。わずかに感じる百合の甘い香り。

 外の音はほとんど聞こえない。ただ、世界がひどく遠いのだと実感させる静寂があった。

 

(……生きてる)

 

 胸の奥で、言葉にならない声が反響する。心臓は確かに動いている。微細な緊張が肺を縛り、呼吸が浅くなる。

 だが、誰にも悟られてはならなかった。自分が“まだ生きている”ことを、この棺の外に知られてはならない。

 

 ユリアの唇には、紅が差していた。それは施された化粧の一部──ということになっていた。けれどその実、唇の内側には毒が塗布されていた。

 医師と、彼女のもとで長年仕えていた老女と、そして親友の兄。信じられる人間の手を借りて、ユリアは自らの“死”を仕組んだ。

 

(ごめんなさい、お父様、お母様……)

 

 本当に死んだと思わせなければ、あの男は決して気を緩めない。

 微笑の奥に、ささやきの中に、彼は毒を仕込む人間だ。けれど同時に、自分の理想を崩された瞬間、あっけなく瓦解するほど脆いだろうと算段をつけていた。

 

 だからこそ、“死”という舞台が必要だった。

 

 ユリアは闇の中で、リリアン──親友の日記をはじめて開いた日のことを思い返していた。

 中に綴られた文字は、あまりにも生々しかった。まるで書いた本人の温度をそのまま封じ込めたように──あたたかく、そして、哀しかった。

 

 頁をめくるたびに、胸の奥がじくじくと痛んだ。そこに綴られていたのは、リリアンが遺した真実だった。

 

 リリアンは、かつてクロード・ランベールに恋をした。

 日記には、彼のやさしさが綴られていた。言葉遣いはおだやかで、目を見て話してくれて、決して声を荒げなかったこと。風邪を引けば薬を持ってきてくれ、咳が止まらない夜はそっと背中を撫でてくれたこと。

 

 だが──季節が進むにつれ、日記の記述もまた変わっていった。

 「少し疲れやすい」「最近、食欲がない」「指先がよく冷える」──行間から、リリアンの身体が細っていく音が、かすかに聞こえてくるようだった。

 

 けれど彼女は「大丈夫」と微笑んでいた。ユリアの知っている、あの笑顔で。

 

 そして──リリアンは、死んだ。

 

 親友は愛された。けれど、愛されたまま壊された。

 あの男は愛のかたちをして、人を殺す。愛した人の消えてゆくその過程にこそ、美を見出す。

 クロードの嘆きは本物だっただろう。愛する女性が儚く散るのを、彼は心から悲しんだはずだ。だが、その悲しみは、彼自身の倒錯した愛の成就ゆえの甘美な悲劇なのだ。

 

 ならば──自分も“死”を以て愛された女のふりをしよう。

 “病弱で、儚く、美しく逝った”女として、棺の中から彼に微笑み返してやろう。

 

 彼女はそう、決めていた。

 

 

 かすかに棺が揺れた。外側から、誰かが触れたのだ。

 ユリアは、呼吸すら止めたまま、じっと沈黙を保った。

 

 ──そして、声がした。

 

「……ユリア……」

 

 それは、かつて幾度も耳元で囁かれた響き。

 いま、それは胸の底で腐りゆく。心が震えた──怒りで、嫌悪で、そして哀しみで。

 

 クロード──この男はきっと、本当に泣いている。だが、それが滑稽でならなかった。

 自らの手で枯らした花の前で、愛を語る男のなんと愚かなことか。

 

(私の親友を病という檻に閉じ込め、それを愛と呼んだあなたを──私は、決して、許さない)

 

 唇に塗られた毒によるわずかな痺れが、彼女の意識を澄ませていく。

 この沈黙の底で、復讐の炎が音もなく静かに燃え上がっていた。

 

(目覚めの時間よ、クロード)

 

 ──彼女は、そっと目を開けた。

 

 

 * * *

 

 

◇報いの口づけ

 

 

 誰もいない礼拝堂に、ひとつだけ灯る燭台の火。

 月のわずかな光が注ぎ込み、この空間を照らしていた。

 

 クロード・ランベールは、膝をついていた。

 白百合で飾られた棺の前、頭を垂れ、静かに祈っている。──いや、祈っているように見せかけていた。

 

 本当は、ただ打ちひしがれていた。

 愛した女が、こんなにも早く逝ってしまうなど。

 もっと長く、愛でていられるはずだった。

 もっと長く、病弱な彼女のか細い声を聞き、弱ってゆく様子を見つめていられるはずだった。

 

 それなのに──。

 

「こんなに、早いなんて……」

 

 そのときだった。

 

 礼拝堂に、軋む音が響いた。

 長く、低く、誰かの嘆きが木材に染みついたような、いやらしく耳を這う音。

 

 クロードは反射的に顔を上げた。

 

 ──棺の蓋が、わずかに持ち上がっていた。

 

 そこから現れたのは、白い指先だった。

 やせ細りながらも滑らかで、まるで死化粧の一部のように静謐な美しさを湛えた、見慣れた手。

 

 次の瞬間。

 その手が、彼の首元を掴んだ。

 

 瞬きの暇すらなかった。

 喉に触れる冷たい指に、クロードはようやく、己の呼吸が奪われていることに気がついた。

 

 棺から這い出てきたそれは、まさしくユリアだった。

 

 純白の花嫁衣装に身を包んだ女の顔はほんのりと青白い。ただひとつ、唇に差された紅だけが、血のように黒かった。

 その瞳にはかつての儚げな光はなく、底の見えない湖のように冷たい輝きを宿している。

 愛された記憶も、語りかけたやさしさも、すべてがまやかしだったと告げるような、絶対零度のまなざしがそこにあった。

 

 口を開こうとした。叫ぼうとした。

 だが、喉が凍りついたかのように音を失っていた。

 なんとか絞り出された声は、かすれきっていた。

 

「……あ……ユリア……?」


 ユリアは何も答えず、ただ黙って彼の襟元を掴み、引き寄せる。

 そして──そのまま、唇を重ねた。


 ひとつの、冷たい口づけ。

 それは愛の記憶などではなく、死と復讐の証として、彼の呼吸を封じ込めた。


 クロードの肩がびくりと震えた。理解が追いつかない。理性が拒絶する。

 だがその中でも、恐怖だけは真っ先に芽吹いていた。

 臓腑を直接掴まれたようなどうしようもない底知れなさが、彼の内部で蠢いている。

 

「ええ。あなたのユリアです」

 

 静かだった。だがその声は、礼拝堂の石壁を這うように響き渡り、彼の耳膜を直接叩く。

 鼓膜の奥、脳に届く。否、魂に届く。

 

 ユリアは、ゆっくりと彼を押し返した。

 突き飛ばすというにはあまりにも軽やかに──だが、クロードは簡単に崩れ落ちた。

 膝から砕け、床に手をつき、呆然と白い彼女を見上げる。

 

「なぜ……君は……死んだはずだ……! 私が……私が……!」

 

 喉の奥からにじむその声は、すでに悲嘆ではなかった。

 それは、罪を暴かれる者の呻き。崩壊を前にした、怯えの悲鳴だった。

 

「ええ。あなたの目には、そう映ったのでしょうね」

 

 ユリアは、ひとひらの白百合のように膝を折った。

 優雅に、荘厳に、彼の前へ。

 その手がそっと、クロードの頬に触れる。けれどそれは、慰めではない。

 病人を看病する恋人のような仕草でありながら──刃の冷たさを孕んでいた。

 

「あなたは私を“看病”していたのではなく、“観賞”していたのでしょう?」

 

 クロードは、息を詰まらせた。

 

「ちがう……ちがう……!」

 

 繰り返す声は、もはや自分自身への呪文のようだった。

 目を伏せ、背を丸め、唇を噛み、崩れ落ちていく。

 その言葉はどろどろと濁り、聖域の床を穢していった。

 

「愛していた……! 本当に、君を……! 愛していたんだ……! 女神アルべリアに、誓って……!」

 

 神の名さえも持ち出し、己の愛を正当化しようとする。

 だがそれは、祈りでも贖罪でもない。

 ただ、自分が受ける罰への恐怖──その一心から湧き出た、情けない命乞いだった。

 

「私を……恨んでいるなら……許してくれ……謝る、謝るから! 君を……殺したことをっ……!」

 

 額を床に擦りつけるようにして、必死に縋る。

 ユリアの白い裾に手を伸ばし、泥のような声で叫ぶ。

 その姿は誇り高き貴族であるとは思えぬほど、無様だった。

 

「あはっ……何をおっしゃって?」

 

 ユリアが笑った。その声音に、狂気も憐れみもない。

 あるのはただ、壊されたものの名を告げるための、静かな報復の響き。

 

「あなたが殺したのは、私ではありません。私の──大切な友人。リリアンです」

 

 その名が告げられた瞬間。

 クロードの瞳が、まるで稲妻を受けたかのように見開かれた。

 喉が焼け、肺が軋み、心臓が乱打をはじめる。

 

「……リリアン、だと……君は……いったい……」

 

 耳にした自分の声さえ信じられず、彼は震えていた。

 

「彼女の夢、知っていますか?」

 

 ユリアの声が、そっと降る。

 耳元で囁くように、甘やかに。けれど、その響きは鋭い氷刃となって、皮膚ではなく、心臓を裂いた。

 

「白百合の月に、素敵な花嫁になること。──あなたが、その夢を踏みにじったのです」

 

 その言葉は、告発ではない。審判でもない。

 ただ、もう二度と消えない真実を述べているだけだった。

 

「……っあ、……あああ……!」

 

 クロードは──理解した。

 目の前のこの女は、自分が壊したかつての花嫁──リリアンの祈りを背負い、復讐のために現れたのだと。

 

 男は目を見開いたまま、唇を戦慄かせ、やがてその場で嗚咽を洩らした。

 

 涙が止まらない。頬を伝い、顎を濡らし、礼拝堂の石床にぽたぽたと落ちてゆく。

 鼻をすする音も、もう隠せなかった。 

 

「たすけ、……たすけて……ユリア……命だけは……!」

 

 掠れた声。震える舌。息が続かず、語尾が濁る。

 懇願とも叫びともつかぬ呻きが、礼拝堂の高い天蓋にまで届いた。

 

 彼は這いつくばりながら両腕を伸ばし、ユリアに縋ろうとした。

 だが震えるその手は、ただ虚空を掻くだけだった。

 

「なんでもする……君のために、生きるから……!」

 

 懇願は、もはや言葉ではなかった。

 呻きであり、喉の奥から洩れる悲鳴であり、魂の底から湧き出たただの恐怖だった。

 

 ユリアは、そんな彼を見下していた。

 白百合のようなドレスは、涙も泥も受け入れず、ただ静謐に月明かりを浴びていた。

 

「まあ。ご安心くださいな。誰も命を奪うなど、申していなくてよ」

 

 彼女は、まるで花が綻ぶように、微笑んだ。

 その笑みは、クロードの瞳には──地獄の業火にしか見えなかった。

 

「だって。あの子が苦しんだ分だけ、あなたにも、苦しんでもらわないといけませんもの」

 

 その声音は、冷たく、澄み渡っていた。

 まるで、神殿に響く神託のように。

 

「女神アルベリアの祝福は、純粋な愛にのみ与えられる。歪んだ愛には、報いしか降り注がない。──これこそが、あなたの愛に与えられる“祝福”なのよ」

 

 そう言って、ユリアは、ゆっくりと彼に歩み寄った。

 膝をつき、顔を近づけ、そして──もう一度、唇を重ねた。

 

 ただ触れるだけの、静かで冷たい口づけ。

 

 けれど、その接触がもたらしたものは、恋でも愛でもなく──確かな“毒”だった。

 

 そしてクロードの体に、異変が訪れた。

 

 糸の切れた操り人形のようにだらりと四肢が垂れ、完全に崩れ落ちることさえできず、その場に膝をついたまま動けなくなった。

 ただ──瞳だけが、異様なほどに見開かれていた。恐怖と混乱と、理解の追いつかぬ絶望が、ごちゃまぜになって、どろどろと眼窩に詰まっている。

 涙と鼻水と涎の混ざった顔は、さながら嗤い者の仮面のよう。誰よりも愛を語ったその唇は、今やだらしなく開き、空気を噛むことしかできない。

 

「……ようやく、効いたみたいね?」

 

 ユリアは声は落ち着いていた。

 

 その口づけは毒の運び手であっても、彼女を害すものではない。

 彼だけが、甘やかに毒されたのだ。

 

「これからあなたは……話すことも、逃げることも、叫ぶこともできなくなる。けれど、“生きている”ことだけは、否応なく続く。動かない体で、何もできないまま、意識だけが残り続けるの」

 

 恋人に語りかけるような声音で言いながら、やさしく彼の髪を撫でた。

 

「リリアンと……あなたが愛した人と、同じになれるのよ?」

 

 彼女は微笑んだ。

 

 復讐の炎は、彼を焼き尽くしはしない。

 ただ、終わることのない痛みと、癒えぬ悔恨だけを、その心に植えつける。

 

「ねえ、クロード。あの子があなたを愛した日々と同じだけ、私もあなたを、毒してあげるわ」

 

 

 * * *

 

 

◇白百合の檻

 

 

 それは、人里から遠く離れた、地図にも載らぬ小さな館だった。

 

 街の誰も、その場所の存在を知らない。屋敷の前に道標はなく、季節の風すら、この閉ざされた空間には届かない。ただ、窓辺にはいつも白百合の花が、いつであっても揺れていた。

 その香りは甘く、どこか物悲しく──だが、よく知る者には、薬品めいた鋭さも含んでいることに気づくだろう。


 家の主は、美しい女だった。白い肌に、静かな微笑み。けれどその笑みが誰かに向けられることはなかった。なぜなら彼女の暮らしには、表向き──誰の影もなかったから。

 

 奥の部屋には、ひとつの車椅子があった。そこに座る男は、すっかり痩せこけ、毛布に包まれながら、目を見開いたまま虚空をさまよっていた。


 クロード──かつて栄華のただ中にいた男の成れの果て。

 

 彼の目は開かれているのに、何も見ていない。ただ時折、ひくりと唇が震える。それは痛みによるものか、思い出の残滓か。

 彼は、ただ座り続けていた。動くことも、話すことも、拒むこともできずに。

 

「ほら、お時間ですよ」

 

 ユリアの声は、まるで恋人を呼ぶようにやさしい。けれどそれは、氷のように冷たくもあった。

 彼女の手には、小さなスプーンがある。そこから漂う甘い香りには、忘れようもないあの夜の記憶が刻まれている。

 

 彼女の指が彼の顎をそっと持ち上げ、唇の隙間にスプーンを差し入れる。

 

「さあ、今日も飲みましょうね。これは“薬”ですから」

 

 クロードの喉が、わずかに痙攣する。飲み込むという行為に、もはや彼の意思は関与していない。ただ、身体が条件反射で従っているにすぎない。

 男の瞳に、わずかに光が宿った。それが涙だったのか、それとも毒への反応だったのかは、誰にもわからない。けれど、そのわずかな輝きこそが──彼がまだ、意識の檻の中で呻いている証だった。

 

 

 飲ませ終えると、ユリアはいつものように、傍らに置かれた一冊の日記を手にする。それは、親友リリアンが遺した、あの真実を綴ったものだった。

 金色の縁取りがされた表紙を指でなぞり、ゆっくりと開く。そこには、誰にも見せなかった少女の感情が、滲んだインクの文字で綴られていた。

 

「さて、今日は……このページにしましょうか」

 

 彼女の声は、祈りを捧げるがごとく静謐だった。

 

「『クロード様は熱にうなされる私を見て、「なんて繊細なのだ」と心を痛めてくださるように見えた』──」

 

 一字一字、慈しむように読み上げる。まるで、聖典を朗読するように。しかしその言葉は、彼にとっては呪いだった。

 

 クロードの喉が、かすかに詰まる。声にはならない。けれど、苦悶の震えが喉の奥で渦巻いている。

 

「苦しかったでしょうね、リリアン。だってこの男は、ただあなたを眺めて悦に浸っていただけですものね。熱に染まる肌を“芸術”と呼び、弱る声を“音楽”だと讃えて。──勝手に、鑑賞して」

 

 言葉の響きが、部屋に溶けていく。冷ややかに、ただ報いを果たす者の笑みがそこにある。

 

 

 そうして、一日の終わりには、次の頁に栞が挟まれる。

 毎日、毎日、欠かさず。

 頁が尽きる、そのときまで──。

 

 窓の外では、また一輪、白百合が花開いた。

 その白い花びらは、触れれば消えてしまいそうなほど儚げで──けれどじっと、底に毒を溜め込んでいる。

 

 

 今日も変わらぬ香りのなか、かつての棺の花嫁は微笑んだ。

 叶えられなかった願いを胸に、それでも──あの子の祈りだけは、永遠に手放さぬようにと。

 

 

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― 新着の感想 ―
とても美しい復讐劇でした。ミュンヒハウゼン症候群かと思ったらもっとおぞましい性癖の男だったのですね。 ただ、ユリアが棺から手を伸ばしてクロードの襟元を掴む時に、それだけの力があったのだろうかと、少し不…
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