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ホワイトスカイ  作者: 笹霜
ゆかり編
9/30

9.暗夜


顔は語る。顔の現前は、内容を超えた呼びかけである


(エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』第三部)


「ゆかり…。家出なのかや…?」


ソファーに身を沈めて、舞雪はぼやくようにそう言った。霧夜は何も言わなかった。


白神荘のフロントである。


空気の詰まっているだけのフロントだった。昼間は照明もないが、それだけに屋内ともなれば薄暗い。陽光を反射する雪。その光をガラス一杯で受け止めるだけの空間である。舞雪は緑の瞳を伏せて、物憂げな口調だった。


「なして、小紫なぞと」


「付喪神か、あれは」


「刀の付喪神じゃ」


舞雪はそう言った。フロントに人の気配はない。真冬と柚希がいないとなれば、舞雪の口も饒舌である。


「霧夜、わらわがかつて師事をしていた方―――すなわちわらわの師匠が刀を作っていたと口にしたことがあったの」


「それは聞いた」


「その方、―――我が師、(あおい)の方が作った刀じゃ。そういう意味では『音無』と同じじゃ」


そう舞雪は言った。霧夜は目を丸くした。


葵の方。その名は、ある程度裏世界に通じた異能者や妖怪であれば、誰もが知っている。そんな大妖怪の名であった。


何の妖怪なのかは知らない。分からない。仙女であろうとも言われているが、実際その証拠もない。あったところで弱みにはならないだろう。


齢幾つを誇るかも分からない正体不明の妖女である。


『日ノ本最強』と通称されるその異名が、彼女の実力を良く表している。


―――たとえそれが大きな力を持つ神であろうとも、彼女にかかれば、一蹴することは容易いという。


どこに住んでいるかも、分からないが―――舞雪はかつて、師事していたと語った。


「色々あっての。無論人間である頃は縁もなかったが、神と成りてより、師事を仰いでいたことがあった。年に一回師匠の庵に通っての」


「…その時に」


「うむ。小紫と会っている」


舞雪はそう口にした。


「あの刀は当時からひねくれ者での。わらわと仲が悪かった」


「当時の『音無』も見たことがあるのか?」


「あるぞ?」


舞雪はそう言った。


「分かってはおろうが、『音無』も付喪神じゃ。ただその名の故に静謐を是とし、決して顕現もせず口も開かぬが、秘めたる意志はある。霧夜はよく分かっておろう。当時から変わらずそうじゃ」


「…舞雪の刀もか」


「『寂静』もそうじゃ」


舞雪は頷いた。


「お師匠様は時折刀や武器、道具の類を作ることが趣味のようなものでの。作っては放り出す悪癖を持っておった。今もそうかも知れぬが…」


「悪癖なのか」


「悪癖じゃ」


舞雪は渋い顔である。


「我がお師匠様は、日ノ本最強と名を取る妖女じゃ。かのような妖女が作っては放り出す品物なぞ、本人にとっては単に気に入らぬ失敗作じゃが、人里に出てみれば人の手に余り、災いをもたらす危険物であることが折々での。小紫も例には漏れぬよ」


「…」


果たしてそうであろうか、と霧夜は思う。それは舞雪が仲が悪いだけでそう評しているだけで―――霧夜自身はあの小紫自体に、危険性を余り感じていないのが正直なところであった。


殺気を向けられていないからかも知れないが。


「いずれ、そんな剣呑なのが、小紫じゃ。何を企んでおるのか、果たしてゆかりが何を意図してここにやってきたかは、聞きださねば、わらわどうにも落ち着かぬ」


「…」


「わらわは…」


舞雪の瞳の色が、哀情を帯びた碧から、どこか熱を帯びた烈しい紅の光を宿す。意志の強い光―――神性としての輝きだった。


「最初に告げた気もするが。何故わらわがこうやって姿を現し、少女の姿を結び、柚希や真冬と交誼を結んでいるかは、霧夜、分かっておるな?」


「…思い出作りですか」


「安い言い方になるとそうなる、が」


舞雪の声は鋭い氷柱のような美しさがあった。鈴の鳴るような声。


「わらわは、わらわの愛する郷の、最後の少女達に、良い思い出を残してやりたいのじゃ。わらわではない。彼女らに」


「そのために」


「左様。この姿であれば、分かりやすく、様々なことを柚希や真冬に言えよう、諭せよう、伝えられもしよう」


実体を持たぬ神の姿では叶わぬことじゃ、と舞雪は告げる。霧夜はただ黙って考えていた。


舞雪のやっているように、一般人に化けて出歩く神がないかと言われたら、それはあるのだが、舞雪の場合は、特に動機が純真であった。


そして強烈である。


自らが切り拓き、守り、愛した郷の、最後の乙女達に対する、思い。


彼女らに善い思い出を残し、あわよくば語り継いで欲しいという願い。


それを押し付けることはせず、最後の冬に、彼女らの友として振舞うことで、無二のかけがえのない思い出を残そうとするその姿勢。


それが、恐らく、この、舞雪姫―――雪御前であるのだろう。


その瞳がふっと緩み、優しい微笑みに変わった。口元の微笑。向かい合う男の脳裏で、一人の女性の姿がかぶって思い出されて、霧夜は思わずドキリとした。


包容力のあるその微笑みは、知っている人のものと良く似ていて、今は思い出すことも辛い、ある思い出を想起させた。


「おぬしも例外ではないぞ?霧夜」


「…何故…?」


小さい声だった。答えを知っているのに聞いてしまった。舞雪の微笑みは相変わらず優しい。


「それは、おぬしが、最後の客だからじゃの。いやもう違うの」


「…」


「おぬしが、善い男だからじゃ。それは十二分に分かっておる」


舞雪はそう言った。霧夜は黙っていた。買いかぶりだとも思っていた。だが舞雪はありもしない風に白銀の髪をゆらめかせて、女神の微笑みのままだった。


「真冬の頼みを聞いたり、柚希に色々言うたりも、全部把握しておるぞ。ただの剣呑な客とは思えんの。今回も、ゆかりに気を遣うておったではないか」


「…」


「故に、おぬしを信頼しておる」


舞雪は目を閉じて、祈るように、謡うようにそう言った。霧夜は答えなかった。


「だからこそ、おぬしの幸せを祈っておる」


「…俺が剣呑なことを考えていたとしてもか」


「わらわが、させぬよ。必ずや、おぬしにも、此処が良い思い出の地となる。それは神たるわらわの決定事項じゃ。もう揺らがぬ。揺らがせぬ」


そして、そうであるからして。


「最後に、ゆかりが帰ってきてくれたこと。喜ばしいことじゃ」


「…だろうと思っていた」


「だが只ならぬ気配じゃ」


だが舞雪は女神モードの解除であった。その表情が憂えげで、微かに怒りの滲んだものになっている。


「策を打たねばならぬ」


「策があるのか」


「思いつかぬから苛立っておる」


だろうな、と思いながら、霧夜はそわそわする神様を目の前に、ただソファーに身を沈めている。霧夜にも良い策は思いつかない。


ただ、あの小紫の憂いを帯びた笑顔と、ゆかりの透明な表情が、霧夜にもどうにも忘れ難くて、気になるのも事実だった。


気にする必要のないことを、気にしてしまっている―――お人よしなのだろう。


だが、あの少女と、その連れ合いを見た時、己の心の中の炎が落ち着くのを感じていた。何故かと霧夜は考えていた。



目を閉じて、自分の居る、そして自分の身を浸している、この三郷の風景を、頭の中に思い描く。



美しい風景だ。



今は閉じたシャッター通りに、昔日の面影と幻がある。鮮やかな栄華の記憶だ。雪かきの行き届いた神社の参道と境内。晴れ晴れとした表情で掃除をする巫女。


旅館の中では、充実した汗を流しながら、笑顔で友と客を迎える少女。


そしてそれらと交わり、微笑みを漏らす神たる少女。その少女を友と呼び、酒を交す女医の姿。


―――たとえ瞬の間としても、それは楽しそうで、幸せそうで、実際彼女らはそう感じていないのかも知れないが、とても鮮やかな幸福(しあわせ)の形をしていて、それが限りなく―――俺は―――



妬ましかった。



―――ブチ壊したくて、たまらない衝動に、身を任せたくなるほどに。



時々その衝動が身体の中から洩れてくる。薄々悟られてはいるだろう。彼女たちがそうするたびに、俺は羨ましかった。妬ましたかった。殺したかった。


だが―――あの憂いを秘めた表情と、能面の下にある表情は、この鮮やかな温泉郷のフルカラーの中で、俺と同じ、グレーのモノトーン。


嗚呼、だからだ、と思った。


あの彼女達が、俺にはモノトーンに見えたのだ。


だから、気になっているのだ。


強烈な違和感と同時に、親近感を感じたから。


「駄目だな」


「霧夜?」


音無霧夜はそれだけ呟いた。舞雪が何事かと目を向けたが、霧夜はただそれきり何も言わなかった。沈黙していた。一人考え続けていた。


―――どうにかすることは、出来るんじゃないかと思う。


だがそれをして、俺に得はないだろう。ただ俺は考え続ける。イラつきにも似た感情が頭の中で煮えている。


考えに身を任せている。


霧夜は瞳を閉じた。


だが、そんなうちに、いつしか軽く眠ってしまっていたらしい。目を覚ました時は、夕暮れ時で、白神荘一階に人の気配はあったが、皆奥だ。夕餉が近いらしい。向かい合っていた神の姿はなくて、フロントは窓ガラスから差し込む鮮やかな夕暮れの中だった。冬らしからぬ色だった。


そして、神の代わりに、一人の女性が、俺の目の前に立っていた。



黒い長い三つ編み。白い浄衣の上から、マロンレッドの女性用とんびコート。右手に金色の長い錫杖―――。



久遠寺永遠子の、姿だった。



永遠子は微笑んでいる。不思議と人を安心させる微笑だった。その微笑は神のものとは違った。幸福しあわせの形をしていなかった。ただ無色の柔らかい波動を放っていた。


この人には、意思があるのか。


霧夜は思わず、そう思ってしまった。


それほどに、無色透明な、微笑みと、声音で、―――ただ優しいだけの波動だった。海辺で波の音をただ聴いているような、それに似た、穏やかな波動だった。


だがそれは、霧夜の妬んでやまない、幸福(しあわせ)の形ではなかった。もっと別物の、優しいモノで、霧夜の知らぬところにある、語彙の中にはない、ナニカだった。


「お悩みのようですね」


「俺の考えていることが分かるので?」


「あの神様と少女達では、あの子に話しかけることは出来ません」


その言葉は、抵抗なく、すとんと霧夜の胸の中に落ちてきた。霧夜は眉を潜めて永遠子を見たが、永遠子は微笑んでいるだけだった。


「どこまでご存じなのですか?」


「私は、神ではありませんけれども、分かることはあります」


「…」


半分分かっていることであった。神でもなく、妖怪でもなく、人間でもなく、寺に居る者―――。それは一つに他ならない。


霧夜は口に出した。


「ここの仏様なのですか」


「当たりであり、外れでもあります」


「当たりでもあり外れ?」


「本質ではありません」


永遠子はそう言った。問答を続ける気はないらしかった。その表情は優しい、不思議な微笑みだった。


「この状況を、拓けるのは、音無霧夜、貴方だけです」


「仏様は何をする気もないのですか」


「私は何もしません」


仏様はそう言った。表情はやはり変わらない。何もしないというのは薄情にも思えたが、霧夜には違和感があった。そうでもない気がしたのだった。


「ただやるべきことをやれば、先に進むことが出来ますし、貴方はきっと、そうするでしょう」


「先に進む」


「やれば良いのです。ただ、やれるのは貴方だけです」


「…俺だけ」


「それだけを、告げに来ました。自信を持って、前に進めばよろしいのです」


永遠子はそこで微笑みだけを残した。その姿が光の欠片になって、ふっと消えた。霧夜は茫然としていた。



―――仏か。



霧夜の初めて出会う存在であった。どうして今出逢ったのか、彼女が何を意図しているかも全く分からない。少なくとも霧夜の思考と予測の範疇を超えた存在だったが―――あれは俺に何をさせようとしていたのか、しかし霧夜には測りかねた。何のメリットが彼女にあって、俺にそう言ったのかも分からない。

少なくとも、あれは、神と呼ばれるモノとは違う。舞雪とは明白に異なる、別の原理を以て動いているのが何となく分かる。


そしてただ、「やれ」と言われたことだけを理解していた。


不思議なことに、それに抵抗感も反発感もない。それは永遠子と会った印象と全く同じで変わっていない。


が、無論、それだけですぐに動く霧夜でもない。


夕食の会場に入ってみれば、席を囲む舞雪の顔は相変わらずの曇り空で、箸もほとんど進んでいない。今宵も登場の朱鞠内緋那の瞳も険しい。


緋那も事情を一通り聞いたらしい。その切れ長の瞳を来客に向けた。


「お、来たねお客人」


「朱鞠内か。さては話題は昼間の話か」


「そうじゃ」


舞雪の言葉。緋那は難しい顔。


「一人かと思えば両親もおらず、いきなり妖怪のサポートねえ…。ゆかりちゃんは霧夜みたいに異能の素質がある子な訳でもないでしょ舞雪?」


「無論。緋那も知っての通りじゃ、両親の家ともどもそのような家系ではない」


「それがいきなり御大層な付喪神に取っ憑かれていきなり帰ってきた…。まあ常識的に考えりゃご両親にまず連絡するのがスジなんでしょうけど」


緋那の瞳には好奇心がある。


「でもその分じゃ連絡してマトモなことになる可能性もあんまりなさそうね。最早人間の範疇を超えて私達の領分な訳で、とりあえず話を聞けりゃいいんでしょうけど」


「とりあえず緋那、彼女の両親はこの郷には居らぬ。帰ってきておらぬ」


「そこは把握できてるのね」


「わらわは神じゃ、その程度は造作もない」


舞雪はこの土地の中では絶対的な権限者だ―――それくらいは確かにワケないだろうと霧夜は思う。


「ゆかりの両親はこの土地の生まれ育ちじゃ。三年前に引っ越してしもうたが」


「とはいえ私の赴任から数か月は居た記憶があるわ。話したし、診てもいる…」


流石は僻地医療の医者、朱鞠内緋那であった。数年前に見た患者も覚えている。ゆかりとも知己であると彼女は言った。


「けど往診に行ったことはないわ。住所までは分からない。ここのどこかなんでしょうけど」


「街はずれじゃ。神社を過ぎて少し先の道沿い、郵便局の隣なのじゃが、今は家も荒れておる」


「御両親帰ってきてないのね…そういえばちょっと思い出したわ」


緋那はそこで少し渋い顔をした。


「ペット沢山飼ってたお家よね。夜中突然動物診られませんかと言われたことあったわ。うちは人間専門だからと断ったけど」


実はちょっと診られたりもするんだけどね、と緋那のウインク。だが後々の禍根を予期して断ったのだろう。それは正解であったのか―――。


舞雪の頷き。


「転出の理由も、本格的に迷い猫、迷い犬の保護事業を始めるとかで、ここは田舎すぎて手狭になったからじゃの。そういう犬猫も多くはなし。ゆかりの進学も重なって、好機であったという話じゃな」


「そういう理由だったの」


「わらわの把握している限りでは、の」


舞雪の言葉。策に迷っている態度であった。霧夜は思う。


確かに真っ当に考えれば家出の可能性ありと判断して両親に連絡―――というのが常識的な判断だが、あの調子でそのまま帰すのは舞雪が納得しないし、多分柚希や真冬にも後味の悪いものを残すだろう。この郷の最後にその選択肢をこの神が取るかと言われたら、答えはノーであろう。


霧夜の会場入りを察して柚希が配膳にやってくる。顔はやはり浮かない。珍しく、後ろに真冬の姿があった。


「あ、緋那ちゃん先生来てたんだ」


「やっほ。今日もお邪魔してるけど今日は素面よ。聞いたわよゆかりちゃんの話」


「その話真冬ともさっきしてたの!」


霧夜の前に配膳をするが、料理の説明もなく始まる熱弁である。だが霧夜も顔に不満が出る訳でもない。ただ黒い瞳を若女将に向ける。


「ゆかり、明らかに大丈夫な感じじゃない!!ちょっと変だよ!!この三郷の事情も知らなかったし!!」


「先ほど女将さんとも、ゆかりさんの御両親に連絡を入れたらいいかちょっと話したんですけど」


「ただ、ゆかりが一人だけならまだしも、あの女の人…小紫さん?と一緒な以上、まだ騒ぐには早いんじゃないかってお母さん言ってて。それにご両親も帰ってくるかもしれないからって」


「一応大人の方がいる以上私達からは…」


明らかに心配そうな二人の表情。三人は顔を見合わせる。二人の心配を誰よりも承知しつつ、三人は大人である。


緋那が茶碗を口にしながら二人に腰掛けるように促した。


「待ちなって。心配は分かるが確かにちょっと待ちなさい。とりあえず舞雪いいわね?」


「何がじゃ?」


「大人かつ年長者たる私に下駄を預けて貰うってことよ」


緋那は自信満々に胸に手を当てた。ドヤ顔である。霧夜は「アテはあるのか」と聞いたが、緋那は溜息だった。


「それはこれからでしょ。まあとにかく二人の心配も分かるけど落ち着きなさい、とりあえずここは私に任せて―――」


―――お前に何が出来るのか。音無霧夜はそう思っていた。鮮やかな宴会場の中で、俺一人だけがモノトーンに見えた。俺一人だけ、生きている時の流れが違うように思えた。


霧夜は二人を言いくるめる緋那の言葉を聞き流していた。何も聞いていなかったようで、会話の流れは全部聞いている。


だが顔は彼女らの方を向かない。黙々と食事に向かい合い、前菜からローストビーフ、最後の茶碗蒸しまで綺麗に平らげたが、その間にも緋那や舞雪の箸は殆ど進んでいなかった。


舞雪が心配そうに時折こちらをちらちらと見て、緋那もこちらを伺っているのを感じていたが、霧夜は無反応だった。


脳内にリフレインするのは、とりあえず動くしかあるまい、というそれだけの言葉。


ただそれは今ではない。


冬の夜は、快晴にして厳寒。


一回部屋に戻ることさえもせずに露天風呂を味わうと、部屋に戻り、霧夜は持ってきたトランクや荷物を開け放った。動きは淡々としていて無駄はない。


霧夜は異能者である。


持っているトランクも、それなりのもので、超常の品物である。見た目より多くのものをしまうことが出来る。


霧夜はトランクの中から着替えや画材を部屋の中に放り出した。荷物が山になって積み上げられる。まだある程度の品がトランクの中に残ったが、霧夜は構わずトランクを閉めた。


ロングコートにマフラーを翻し、漆黒の青年は一人、トランクを片手に白神荘を出た。



星空のたもとであった。



凍てつく冬であった。街灯はあるにはあるが、僅かである。街灯なんかよりも、凍り付いた白い月が、この世界を照らしている、そちらの方がはるかに目の役には立った。


トランクを手に青年は夜道を歩く。マフラーから零れた息が白い靄となって、月へ昇ろうとして消える。


月光の照らす建物の影は真なる闇のようだった。その闇の中を縫いながら、霧夜は温泉街の外へ足を向ける。神社の鳥居と寺のたもとに来た。


鳥居はいつも通りの姿であった。


月白寺の参道には、一つの姿が立っていた。


紅のとんびコートを翻し、手に錫杖を持った、一人の女性が微笑んでいた。


予定調和のようであった。霧夜には何故かながら、半ば分かっていたことである。何故分かっているのかも分からないが、これは「そういうもの」なのだ。


永遠子は全てを理解(わか)った顔だった。


「行ってらっしゃい、音無さん」


「…行ってきます」


返事は微笑みだった。霧夜は黒いコートを翻す。トランクを持ったまま、先へ。行ったことはないが、地図で地理は把握していた。


三郷簡易郵便局―――その隣であると分かっている。


簡易郵便局はすぐに見つかった。山を曲がる道の縁に沿うように作られていた、赤い瓦屋根の平屋の建物―――年季の入った作りであったが、ATMが稼働し、簡易便所が開け放たれているところを見ると、最後までここは健在であるらしい。


そしてその隣に、二階建ての建物があった。


やはり年季の入った、痛んだ建物である。白壁に蔦が這いまわり、雪下ろしもされているように思えない。ガスボンベのついていたであろう配管も何にもつながれていない。外装こそ木造と知れる作りではないが、照明も一切なく、空き家であると推察するには十分であった。


霧夜もただであれば空き家であると推察するであろう。


だが感覚を凝らせば、中に人がいることは分かる。


そして、照明がついていない。ガスもない。―――この家で何が出来るのか。


昼間から、そんなこともあろうかと、霧夜は少し考えていたのだが―――当たりだったようである。


霧夜はその玄関を睨んだ。それだけで十分であった。人影が闇の中で動いた。白々とした世界の中で、空き家の玄関が開いた。紫の髪を翻した、着物姿の妖女が一人、少し意外そうな表情でそこに立っていた。


困惑と、僅かな拒絶の色があった。


「…音無さん…?」


「役に立ちそうなものを持ってきた」


「役に立ちそうなもの?」


「食料も照明もあるのか?」


「…」


小紫は絶句した。髪を夜の風に翻して沈黙した。目を伏せた。間合いを図るような沈黙だが、嫌いではなかった。


その背後の闇から音がした。能面のような無表情の少女が、毛布に丸まりながらやってきていた。息が白い。外気と変わらぬ屋内の温度と知れた。


「お前はいいだろうが、小太刀さんが風邪を引くぞ」


「…何の義理があって」


「そうだな」


霧夜は少し間を置いた。トランクを開いた。入っているのは、食糧―――カップ麺やら乾パンやらといった非常食、銀色のサバイバルシート、寝袋、シュラフ、ランタン、簡易ガスコンロに小型ストーブ…サバイバル用品である。


「俺はただの客ではなく、剣呑なことを考えている」


「剣呑なこと」


「余り邪魔されたくないものだ」


霧夜はそう言った。


「ただ、小太刀さんにも、小紫さんにも、害を為そうとは考えていない」


「でしょうね。我々の存在は、イレギュラーだったんでしょうから」


「だが小紫さんの力量ならば、俺の邪魔立てをすることは十分出来る」


止められる気もしないが―――と霧夜は言った。


「その邪魔をしないで欲しい。そのための差し入れとでも言っておこう」


「…」


間があった。沈黙だったが、小紫が熟慮しているのが分かった。ゆかりが背後から興味深げにその沈黙を眺めている。だが、どこからか聞こえてきた、盛大な腹の虫の音が、その沈黙を破るのに雄弁であった。


ゆかりが目を伏せた。恥ずかしそうだった。


「ごめんなさい…小紫様…」


「構いませんよ。でも…どうやら、なりふり構ってはいられないようですね」


「使え」


「…でも、使い方、分からない…」


ということで、霧夜は小太刀宅に上がり込み、夕飯を振舞うことに相成ったのである。


ランタンを灯して上がり込む先の空間は、痛んだ古い家屋の臭い―――黴臭さと饐えたような臭いの混じったそれだ。換気もしたのだろうが行き届いてはいないだろう。


粗方の家財も引き上げられて、僅かなテーブルと座布団、そして布団が二組程度残っているだけの、殺風景な、今にも床が抜けそうな家だった。


実際住んでいるのがオバケである以上、最早立派なお化け屋敷である。


鋭く冷え込んだ空き家の冬に、ランタン一つを鴨居に吊るしてから、サバイバルの始まりである。


霧夜は手慣れた調子で飯盒に米をぶちまけて水を吸わせ、コンロにかけていく。手慣れた仕草をゆかりは興味深げに見ていた。


「…音無さん…慣れてる…」


「慣れたくもなかったがな」


「いつもこんなものを持ち歩いているのですか」


小紫の言葉は少し意外そうであった。霧夜は言った。


「俺は剣呑なことをすると言ったろう。そうなると、まあ、雪山を逃げることにもなろうかとな」


「経験がおありなんですか」


「無いと思うか?」


霧夜の返答は確信を帯びた冷静なそれで、小紫の背筋が震える程であった。ゆかりは感嘆の視線で霧夜を見つめていた。


霧夜はストーブも点火すれば、白に似た暖かな光と暖気。ゆかりがぶるりと震えて手をかざす。やはり滅法冷えていたのだろう。


ペットボトルの水。軍の横流しの糧食らしい缶詰を並べる霧夜に、小紫は視線を投げた。


「どうして私達が、このような状況であると?」


「水も電気も通っていないなんてことは、舞雪なら把握は出来るだろうが、聞いていた訳じゃない」


霧夜はそう言った。ガスバーナーの小さな音。幾つもの火が小太刀家の客間を照らしている。ゆかりはしげしげと霧夜を見ていた。


「ただ、そんな気がした」


「それだけですか」


「つまりは、単なる勘だ」


霧夜は言った。視線は悲しげでもなく、苦しげでもなく、淡々としていた。それが救いになっていたのだと、ゆかりも小紫も知らない。荒ぶる感情が似合わぬ空間だった。


霧夜はストーブの上に水を置いた。湯の準備である。


「舞雪は家出娘なのではないかと推察していたし、俺も大体同意ではあったのは事実だが」


「…家出…そうだね…」


「少し違いますが、そういうことにしておきます」


ゆかりの言葉に、小紫はやや含みを持たせたニュアンス。だが霧夜は深追いしなかった。悲しみの感情があることを理解していた。


米が炊けたところでそれをシェラカップに取り分け、ストーブの上で温めていた湯をカップスープに注いだ。


それをゆかりの目の前に置く。冷え切った冬の空き家に立ち上がる湯気の煙。


しかしそれを目の前にして、ゆかりは喜びの以前に戸惑いの表情だった。


泣きそうな表情であるようにも見えた。


視線が霧夜を伺った。


「…いいの…」


「食べてくれ、ここまでやったんだ」


どこかそれは照れ隠しのような言葉であった。それでもゆかりには躊躇いがあるようだった。優しいような、むず痒いような沈黙だった。


「音無さんは…どうしてここまでしてくれるの…」


「言ったろう、邪魔立てしてくれなければそれでいい」


「そればかりにも思えませんが…」


戸惑ったような、小紫の言葉。霧夜は見つめられて答える。


「憐憫がないと言えば嘘にはなるだろうが、それも正確じゃないだろうとは思う。俺自身、良く分かっていないところはある」


それは正直な気持ちであった。


―――お前たちが、あの景色の中で、モノトーンに見えたから、何となく手を差し伸べたくなっただけだと、そんな言葉が言って通じるとも思えなかった。


それを理解して貰おうとも、思っていなかった。


霧夜は「食ってくれ」と言った。ゆかりはそこで「…いただきます…」と手を合わせた。


霧夜はこの客間を眺めて思う。


それにしても、本当にここまでモノがないとは。


ゆかりは何を思ってここに来たのか―――生きていけるアテがあったのか。それだけは聞いても損にならないだろうと霧夜に思った。


スープをおかずにちまっこく食べている少女を傍目に、霧夜は小紫に目を向けた。


「小紫さんは、ここに来るのは初めてか」


「はい。ここに来るまで、舞雪の領域とは知りませんでした。舞雪から私のことは聞いていますか?」


「俺の刀と、同じ作者であると―――」


「そうです」


そこで、妖刀、小紫の成った妖女は微笑んだ。どこか誇り高い瞳と表情だった。


「私は葵の方に創られた、刀です。今故あってゆかりの加護をしておりますが、協力関係でもありますね」


「協力?」


「ええ、色々と、ゆかりには協力して貰っているのです」


その言葉に、ゆかりは「美味しい…」と答えたのみだった。だがそれはどこか切なそうな、泣きそうな表情で、霧夜が見ていて目を逸らしたくなるものだった。


昨日まで飢えていた、とも思えなかったが、その言葉に、何が詰まっていたのか。


ただの美味しさではないだろうと霧夜は思う。


「美味しい…」


「…昨日まで、何も食べてない訳じゃないだろう」


どこか苦しげで吐き出すような言葉だと霧夜は自分で思った。小紫も頷いた。体育座り。艶めかしい足が裾から零れて見えて、それがランタンの光に良く映えた。


「食べていない訳ではありません、が」


「…」


「美味しい…」


ゆかりはいよいよ泣いていた。泣きながらご飯を食べていた。霧夜は目を逸らした。辛く暖かな自分の中の記憶が想起された。


―――ああやって、泣いたことが、俺にもある。


だからだった。


あの日、あの人に振舞って貰った食事が、余りにも大好きで、だから俺はあの人を追いかけたいと思ったのに、何をどうして、それさえもできなくなってしまったのか。


俺はそうしたかっただけなのに―――。どうして、その思い出にさえ、帰れなくなってしまったのか。思い出すだけで、黒い思いに身を焦がさねばならないのか。


悲しい怨み節。


ああやって、人に「あなたのために作ったのだから、召し上がれ」と言って貰える、それだけで良かった。


―――当たり前にあるもの、


―――でも俺にはもう届かないもの。


―――そして俺が羨んで久しいもの。


―――なのに、まさか俺が、この場で、この子に、それを振舞ってしまうなんて。


確かにこの子のことを思って炊いただけの白飯なのに。―――この子、ゆかりにはきっとそれだけで良かったのだ。それが伝わってしまったのだ。


言葉にしなくても良かった。この子にはそれがなかった。それが本当によくわかった。小紫もそれを憂いているのだと理解できた。


だからこそ、―――この役割は俺であったのだと思う。


仏様の言葉はきっと正解だったのだろうと思う。


舞雪の言葉は届かない。


それはそうだろう―――あの神様は、フルカラーの世界の住人だから。幸福(しあわせ)の中の住人だから。


俺らみたいな、闇の谷底に住んでいる人間に、声は届かないのだ。


「…生きていくアテはあったのか」


霧夜の抵抗するような声。無理やり感傷から感情を引きはがして小紫に尋ねる。


「誤算があったのは事実です。若干の資金こそあれ、ゆかりから、『行くアテがあるから』と言われ、ここにやってきたのみですが、ここまで商店もなくて、食糧までも揃わないとは思ってもなくて。電気ガスが止まっていることも、この子は失念していたようです」


「行くアテがない」


「正確には、家から追い出されたのです」


小紫の冷徹な言葉。霧夜は何も答えない。ゆかりは泣いていた。泣きながらスープも飲み干して、それが嗚咽に変わった。


その空間。


暖色の光だけがある空間。


霧夜は白い息を吐きながら、


「…俺は、正直、余りここの子達が、小太刀さんを理解してくれると思っていない」


「でしょうね。ここに居るのは、普通の子です。でも、ゆかりは、普通ではありません。特に、この二年は」


小紫はそう言った。


「あの子達は、舞雪は、私とは違う別種の感覚の人物です―――。しかし、音無霧夜、貴方は違うようですね。昼間の私の感覚は、決して間違っていなかった」


「そうらしいな」


「協力しましょう。音無霧夜、何を望んでいるのですか」


霧夜の瞳に光が消えた。


冷徹な声だった。



「白神柚希を殺すこと」



絶望のような声色だった。ゆかりが嗚咽さえ止めた。その瞳が驚きのものだった。―――それはそうだろう。


―――この男は、幼馴染を殺すと宣言したのである。


剣呑な言葉であった。化生である小紫の額に汗が滲んだ。こんな冷えた夜なのに。


「…大層なことを考えていますね。舞雪の監視の前でそれをやりきるつもりですか」


「やるしかない。それをやるためにここに来たのだが、早々に舞雪に目をつけられてな」


霧夜の瞳は剣呑だ。冷徹な殺人鬼のそれであった。身体から黒い煙が立ち上るようであった。


「果たせぬままだ。こんなに長逗留するとは思えなんだが。だが小太刀さんがそれをただ是とするとも思えないからな、小紫さんとしては苦しいところだろうが」


「確かに」


頷く小紫。ゆかりは「柚希を…」と呟いたきりだった。


どうして、何故、とは問わない。


この男は、人を理由なく殺す男ではない。そのことは、このやりとりで、小紫もゆかりも十分理解している。―――深い深い情念あってのことだ。


「そのためにこれらを差し入れしたのだと思ってくれ。小太刀さんにはすまないことをする、その詫びにもならないが」


「…」


だがゆかりの表情は神妙だった。


ゆかりがどう思うかは霧夜は分からない。だが今更霧夜は退く気はなかった。ここに来たのはそれが為だけなのである。


そのために、人気がなくなる、最後の客となったのだ。


それが為だけ。


だがどうしてこんなことになったのか。霧夜は分からない。お人よしなのか。


小紫はふっと笑んだ。露悪的な笑みだった。


「ではどうせなら、もう少し高くツケましょうか。ここでは何も手に入りません。買い出しなどを頼んでも?」


「構わないが、大方のものは、俺のアカウントで通販すれば良いだろう。何が必要なのか言ってくれれば、俺の方からここに届けて貰うよう通販する」


「なるほど」


小紫は笑った。


「それも一策ですね。とりあえずちょっとは長居出来る目処もつきましたか、ゆかり?」


「…うん…」


だがゆかりはそう答えたきりだった。その瞳が物憂げに霧夜を見ていた。その瞳の意味するところは霧夜は分からなかった。


ただ、ここまで、早くに、俺の目的を吐く人物が現れようとは、俺自身にも思えなくて。ただ、不思議な気分であった。


冬の夜に、ランタンが煌めいている。

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