18.駅
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それが何処から来てどこへ行くか分からない。
(ヨハネ 3:8)
「―――どうして…」
果てしの無い問いが、怨念の燐火と共に、ゆかりの口から漏れた。死霊の息と、果てしのない怨念であった。
それを問うて―――そして答えが出なかった。そんな三人なのである。ただ絶句して、仏と鬼の対話を見守っていた。
ただ、霧夜には、妙な確信があった。
―――悪いことには、決してならない。
「どうしてだと思いますか?」
永遠子はそう答えた。鬼と成った彼女。追い詰められ、希望を失い、妖刀があったせいで、鬼と成りて、尚も何かを探し続ける。どうすれば良かったのか。どうして己は、こんな無念を残さねばならなかったのか。
―――それは、死霊―――悪鬼の類に他ならなかった。
冷たすぎる程に冷たい頬。燃える鬼の瞳から血の涙が滴る。その牙の生えた唇が、怨念の言葉を繋いでいく。
「…どうして…人になれないの…誰も…認めてくれないの…私は…人間…」
「人間になりたかったのですね」
「…そう、私は、人間に…人間…人間のはず…」
強烈な妖気。死んでなお彼女を動かす怨念。それは彼女の中に宿り残った妖気故か。それとも―――彼女の遺志故か。両方としても、不自然はない。
ただ霧夜は、妹分を見守っていた。
「…みんな、分かってくれない…」
「…」
「…みんな、私に、ひどいことをする…」
「…」
「…みんな、私を、うらぎる…」
「…」
「だれも、わたしを」
―――俺が居る、なんて言葉が、彼女に届くのだろうか―――
「…おにいちゃんだって、あってふつかの、わたしを…」
「…」
出しかけた言葉は、届かないことが、はっきり分かった。それが霧夜にも、無念だった。―――もうすぐで届きえたのだろうか。それだけが、悔いになって、心の奥底に苦い澱になる。それほどに、彼女の心の病の根は、深い。
「…あなたが、何をするというの…」
忌々しげな瞳だった。憎悪を溜め込んだ血涙の瞳が永遠子を睨む。永遠子は微笑んでいた。
「…憎いのですね」
「憎い…」
「なれば、私を殺しなさい」
大胆不敵な言葉だった。三人の瞳が見開かれる。ゆかりの瞳が明滅した。微かに理性らしい光が灯ったのが霧夜には理解出来た。―――まだあの中に、妹がいる。
「私をあらん限りに殺しなさい。喚いて泣いて、切り刻みなさい」
「―――何の狙いで」
明晰な声が木霊した。その声の主を誰もが知っている。緋那も舞雪も霧夜も。霧夜はそこで初めて声を上げた。
「…小紫…」
「何の狙いで殺しなさいなどと。貴女が何の狙いを以てそんなことをするのですか」
それは悪霊のそれではなかったが、悲しみに満ちた言葉だった。―――これまでと変わらない小紫は、ずっと変わらないつもりでいるらしかった。
「何の狙いで、ゆかりにそのようなことを言うのです。貴女にみすみす殺される義理などない」
誰かの親切は誰かの下心。それを知り過ぎる程に知っているからこそ―――小紫の言葉だった。
小紫を構えるゆかりの姿勢も硬直していた。
永遠子は相変わらずの、微笑みだった。
「―――それは、私が、そう在る者だからです」
「―――」
沈黙が降りた。雪が舞い降りてくる。本堂の荘厳の輝きが増したように思える。
「太陽は見返りを求めて動きません。海は見返りを求めて動きません。風は見返りを求めず、石や岩もただそこに在ります」
「―――」
「私もそう在るのです」
永遠子は手を差し伸べた。微笑みは変わらない。
「私は神ではありません。人でもありません。何をも求めてはいないのです。ただそうなるべくしてそう在るだけです。対価を求めて照る太陽がないように、私は一切を差別しません。ただそこに在って、今貴女に切り刻まれるだけです。太陽が照る理由がないように、私が切り刻まれることに、理由は、ないのです」
怒気が膨れ上がり、逆上したような気配がした。
ふざけないで、という、絶叫が聞こえた。
永遠子の身体が切り刻まれていた。
―――血しぶきが飛んだ。凄惨であった。
―――その首が飛んだかと思えば、紫炎の閃光が数多に十字に走り、肉体がバラバラになり吹き飛んだ―――かと思いきや、その血が、身体が白い炎となり霧消して消え、ゆかりの背後にその永遠子の身体があった。
右手に錫杖を持ち、そして相変わらず微笑んでいるのである。
再び閃光が走った。凄まじい閃光。霧夜の瞳にようやく捉えられるかと思うような斬撃。再びの血しぶき。ゆかりの手の中には、はっきりした手ごたえが残っているのに―――切り刻んだはずの身体は消えうせ、再び相変わらず、この女は微笑んでいる―――それが限りなくゆかりの癇に触れた。
この女だって、どうせ、私を裏切って―――裏切って―――それを証明してやる。
それを証明するかのように閃光が疾駆する。十重二十重の斬撃が無数に仏を切り刻む。そのたびに本堂に血しぶきが飛び、内臓が撒き散らされ、そして消えては、現れるを繰り返す。
―――目も眩むような殺人劇。
何人を殺せば気が済むのか。何人が死ねば気が済むのか。それはまるで意地の張り合い―――いや違う。永遠子は意地など張っていない。意地を張って、その泥のような闇の確信を祓うべく疾走しているのは、ゆかりの方だ。
霧夜は足元の血を見てただ思う。
―――理由のない奉仕。
理由なく身体を捧げ、理由なく切り刻まれ、理由なく八つ当たりされ、しかしそれを是として受け入れる―――。
―――誰にも出来なかったことだ。
人間である限りは、誰にもできず、誰にも届かず。神でさえ出来ず。よしんば出来たとしても、そこには必ず、理由があった。
しかし仏には、理由がない。
理由なくして、彼女に刻まれ、そしてそれを、是とするのである。
―――親が子供を愛するのに理由がないように。
仏がそうするのも、また、理由などない。
―――理由がないこと。
それが彼女が、一番求めていたもの。
そして辿り着けなかったもの。
―――何度切り刻んだのか。何度殺したのか。何度血を見たのか―――何時間が、経ったのか。雪が降り積み、血に染まり、白の炎がそれを消し、そしてそれを繰り返し。
本堂の前には、小太刀ゆかりが居た。
しかしそれは、鬼の姿ではなかった。青白い顔をしていたが、霧夜の良く知る、妹の顔をしていた。だがその顔は、俯いていて、限りなく物憂げであった。
傍に、人の姿を取った、小紫の姿があった。その顔も悲痛なものであった。
永遠子はそこにいた。
遍路笠に三つ編みを流し、とんびコートを翻す、永遠子の微笑みは―――最初から変わらなかった。
「―――分かってしまいましたね」
「どうして…」
「…八つ当たりをしても、何も変わらないということが」
優しく肯定するような言葉。囁くような、歌声のような言葉。こらえきれなかったのか、再び紅の霊気が爆発した。
朱鞠内緋那の、絶叫。
「そうよ!!!何なのよあんたいい加減にしなさいよ!!!あんた!!!答えを知っているんでしょう!!!答えてあげなさいよ!!!!!!!」
―――これほどまでに、彼女は答えを求めているのに。
霧夜は緋那から、ゆかりに、永遠子に視線を移す。答えがあるのだろうか。ゆかりが縋るように永遠子を見る。
ゆかりには、分かっているのだ―――山のように切り刻んだ彼女は、もう、ゆかりの価値判断の中にある『人間』や『神』ではない。ありえなかった。しかし、あるいは、人間でも、神でもなければ、―――求めるものに、辿り着かせてくれるかもしれない。
永遠子は答えた。
「分かりませんね」
絶句が降りた。雪だけが降っている。静寂。永遠子は微笑んだままだった。錫杖だけが、どこか愉快そうに、しゃらりと音を立てて鳴った。
「私もあなた達と同じです。どうしてそんなことになったのかなんて、分かりません。知らないことです」
「…じゃあ、どうして、貴女は…」
しかしそこで、小紫は尋ねる。震えながら、言葉を紡ぐ。
「貴女は、そんなに笑顔で、確信を持った振舞いが出来るのですか…?」
「それは、―――答えでなくても、答えに等しいものに辿り着けると、それを知っているからです♪」
無邪気な笑顔だった。本当に鈴の鳴るような声。
答えに等しいもの、と舞雪は口の中で転がす。
「それに辿り着けば、答えが意味を成さない場所―――その場所を知っているだけなのです」
「答えが、意味を、なさない…?」
「ただ、それには、答えを、探さねばなりません」
永遠子はそう言った。
「ゆかりさんはいつも、そうやってきたのです。自分はこれで良かったのか。自分が果たして悪かったのか。どうすれば幸せだったのか。どうすれば、幸せになれるのか。絶えずそう問いを続けてきたのです」
「…うん…」
「問いを続けることは、しんどいことです」
永遠子は祈るように瞳を閉じた。錫杖を再び鳴らす。今度は、決意を示すように。
「絶えず疑心の中を歩きながら。自分の人生に問いを向け続けること。並大抵のことではありません。苦行です。でも、それを、続けられるからこそ、それがあるからこそ、それに誰も答えなかったからこそ、それを死して尚諦めないからこそ、私はここに居るのです」
「―――」
「ここで問いを諦めたら、そこまでです」
永遠子は厳しい瞳になった。
「何事にも関しても所詮は自己責任だと突き放し、それしかなかったと諦め、自業自得だという嘲りをする。そうやってきた人を、地獄を、貴女は無数に見て来た。しかし見てきてなお、諦めることはなかった。最後の最後まで、問いを諦めなかった。どうしてと問い続けた」
「…」
ゆかりの瞳に涙があった。永遠子は続ける。誇り高く錫杖を舞わせる。
「だから私が居るのです。最初から私は此処に居るのです。だから私は、あの時、犬と猫を殺した記事に、問いましたね?」
そう、あの、ゆかりの明暗が分かたれた、数時間前の出来事の時に。
神は許さぬと言ったが、仏は言ったのだ。
『どうしてそうなってしまったのでしょうね―――?』
そう、問うたのであった。
そこに拒絶はない。善も悪も理も非もなくて、恨みも悲しみも怒りもそこにはない。ただあるのは、純然な問いだけ。
「そこで諦めたら、そこまでです。進みたいと願うのであれば、そこで問うことを諦めてはいけません。そして貴女は諦めなかった。怒りと悲しみを私にぶつけて、それが霧消してなお残る問いです。だから私は此処に居る。問いがあるところに私は居て、そして問いの先にゆくものを、その問いの道に導くだけ―――」
ばさりとその紅のコートが翻る。仏はその腕を差し出した。
「さて最後に問いましょう、ゆかりさん。貴女は問いの先を見るつもりがありますか?貴女がどうしてその人生を―――こんな無惨な結末になったのか、知りたくはありませんか?どうすれば幸せになれたか、知りたくはありませんか?」
―――その先を教えて貰えるのであれば、小太刀ゆかりに躊躇う理由は何一つなかった。
「行きましょうか。ほんとうの幸いを何かを、探しに」
舞雪が声を上げる間もなく、ゆかりはその腕を握った。二人の微笑みが重なった。
瞬間、そこを起点に、白い世界が広がった。咄嗟のことであった。突風。霧夜も舞雪も、緋那も目を覆う。白い輝きに世界が満ちて、舞雪が世界が書き換わった、置き換わったのを感じた―――これは、此処は―――。
三人が目を開けた時、そこは、雪原のプラットフォームであった。
昼でもなければ夜でもない。白い世界であった。霧夜は周囲を見渡す―――雪原のプラットフォームだが、そこは、見知った場所だった。
舞雪が愕然とした顔だった。
「…三郷温泉駅…?いや、ここは…?」
「違うわ、微妙に違う」
緋那の言葉。霧夜も同意する。今の時間の現実の三郷温泉駅は暗黒のはずだ。―――しかしここは真っ白な雪に覆われたプラットフォームだった。
薄い雪に、プラットフォームのコンクリートが覆われている。
朽ちかかった飴色の駅舎。掠れて読めない時刻表。「三郷温泉駅」と霞んだ看板。山際の寂しい峠の無人駅。白い空の下、粉雪の舞う白い世界の中で、深紅のコートが翻る。
「…さて、最後です。ご挨拶は今のうちですよ?」
微笑み。絶句。―――だが全く不自然ではない。三人には分かっている。ここは生死の狭間だ。どこか遠くから汽笛の鳴る音。
緋那がギリッと歯を噛んだ。握りこぶしから再び血が滴る。
ゆかりが笑った。無邪気で自然な微笑みだった。―――それは緋那が今まで見たどんな表情よりも、年頃で、闊達に見えて―――まるで柚希のような笑顔だった。
「あは、緋那先生悔しいんだ」
「悔しいに!!!決まってんでしょうよ!!!!!」
絶叫。その胸倉を掴んで揺さぶる。
「何で…!!!」
しかし、その後が続かない。その瞳が涙を浮かべ、緋那は歯を食いしばったままその場に崩れ落ちた。ゆかりはその白衣の背中をぽんぽんと叩きながら、
「…緋那先生、相変わらずだ…」
「…何で…」
「…でも、ありがとうございました…そうやって、悔しがってくれるなら、ちょっと嬉しいかも…」
「…何で…」
「貴女のその正義感とお節介。忌々しいまでに嫌いでしたが、美徳だと思いましたよ。ええ」
最後に皮肉めいた笑みを浮かべて言ったのは小紫である。切れ長の瞳を緋那に向けて、しかし僅かに、寂しそうな気配だった。
ゆかりが次にステップを踏んで向かったのは、舞雪のところであった。
今までになく、無邪気な表情であった。見開いた瞳に、かつてない輝きがある。
「舞雪姫様♪」
「…っ、ゆかり…」
心臓が跳ねあがる舞雪である。何を言えばいいのかも分からなかった―――当然であった。何を言える資格があるというのか。それだけでも舞雪は沈黙したくなる、それくらい、合わせる顔が、まるでない。そう、思っていた。
ゆかりはにっこり笑った。無垢な顔であった。
その掌が閃いて、そのまま、舞雪にビンタを食らわせた。
「―――」
舞雪は茫然としていた。―――人に頬打ちを食らったことなぞ―――何百年もなかった、舞雪姫であった。
ゆかりは笑顔だった。素敵な笑顔であった。
「大ッ嫌い♪」
―――最後の最後まで、そうやって、人の心を思って、道化を演じるのか。霧夜はそれだけを思った。天を仰いだ。白い空。粉雪。
ステップを踏む音を無視したかった。その足音は確実に迫っていた。―――最後まで目の前に立って欲しくなかった。この時が永遠に続いて欲しかった。
足音が止まる。霧夜は視線を下ろした。
視線を下ろすなり、首に腕が回ってきた。暖かい身体は驚くほど軽かった。唇が合わさったのは、ほんの一瞬。優しすぎる程の微笑みが視界に横切って、耳元で囁きが木霊した。
「…だいすきだよ、おにいちゃん…」
―――他に何があるのだろうか。傾きかかる重心を支えるのに全身全霊を使ってそれだけだった。それ以上何も出来なかった。ありったけの感謝と好意。妹分の暖かさが、するりと腕の中を抜け出して、それが自分の背後に、背中合わせに立った。
「あはは、おにいちゃん、泣いてる…」
「…」
―――どうして涙を抑えられないのだろうか。これから俺はこいつを見送らなければならないのに。
ぼやけた視界の中で、一人の紫色の着物姿が微笑んでいた。やっぱり、どこか、切ない顔だった。
「情けない顔をしていますね、音無霧夜。最後にそんな顔だなんて、残念です」
「ダメだよ小紫様、そんな嫌味なこと言っちゃ。これが最後なんだから」
「…」
途端に小紫の顔が歪む。悔しそうな、歯を食いしばるそれだった。
「ですが…」
「ねえ、おにいちゃん、小紫様はね、」
「…もう!!!」
紫の風が吹いた。最後にまた、細い腕が首に回った。触れる唇。妖艶で、切なげで、恋しそうで、涙に濡れた、瞳。
「…三千世界のいつかどこかで、貴方の伴侶になってみたい…その時こそ…」
その時こそ、貴方を愛し抜いてみせます。
その気配も背中に回る。背中合わせにホームに立って。近づいてくる汽笛を聞いている。甲高い、SLの汽笛であった。
「ありがとうございました、音無さん…いや、霧夜さん。私と、ゆかりを、救ってくれて」
「俺は、何も、出来ていない…何も…」
「おにいちゃんは、最後に、私を助けてくれた…最後まで、カッコいいおにいちゃんだったよ…だから…ね」
ゆかりは言った。
「おにいちゃん、ずっと先で待ってるよ。きっと、おにいちゃんなら、私の答えも、探してくれるんだよね」
「…ああ」
俺も探し求める答えを、この妹分は探しに出かける。俺よりも、ずっと、先を、先に。
「おにいちゃん、私は、ずっとおにいちゃんの側にいるよ。おにいちゃんの記憶に、ずっと残って、おにいちゃんを、励ますよ」
「…お前…」
「大丈夫だよ。おにいちゃんは、一人じゃないよ。私も、小紫様も、ずっといるよ」
―――なんてことを。この妹分は。俺の心を。そこまでに。
ずっと孤独だったと思っていた夜に、妹分は、笑顔で入ってきたのだった。
「だから、捨て鉢になったりとか、ヤケになっちゃ、駄目だよ?」
「…ああ」
「大丈夫だよ。おにいちゃんは、私と違って、強い人だから。でも、」
でも。
「泣いてるおにいちゃんを、私は知ってるから、つらい時は、泣いてもいいんだよ?」
既に視界は涙で用を為さない―――だがそれでも。
「―――ひとつだけ…」
「一つだけ?」
「一つだけ、聞かせてくれ…」
嗚咽混じりの声。どうしてこうなってしまったのか、どうしてこの妹分の笑顔に気づけなかったのか、それを今更に問いながら。
「お前を、俺は、救えたのか…?」
その言葉に。
妹分は俺の間の前に跳ねてきながら、
とびっきりの、綺麗な涙を流しながら、
「だって、おにいちゃんは、私のたった一人きりのおにいちゃん!!!」
汽笛が鋭く響いた。蒸気を吹きだすブラスト音。黒鉄の蒸気機関車が、白煙を噴き上げて峠を登ってきたのだった。
暖色の明かりが漏れる、二両の茶色の旧型客車を連ね、一両のタンク型蒸気機関車がホームに入線してくる。蒸気と共に舞い上がる雪。
連結器同士が絡み合う鈍い金属音。ゆっくり減速していく短い編成。減速も終わらぬうちに、二両目最後尾の車掌室から、ダブルボタンの外套を纏った、ツインテールの小柄な少女が飛び降りて来た。
「おやおやまあまあ、今日は可愛らしいお客様じゃん永遠子様。しかもお雪の駅からときたもんだ」
「!?」
反応したのは舞雪だった。茫然自失の態からよろよろと、本当に幽鬼のようにそちらを見た。疲労というより、魂が抜けてしまいそうな瞳だったが、それでも驚きは隠せていない。
「…ふ、藤…おぬし…」
「ははあ、さてはやらかした様子ね、雪」
舞雪のことを『雪』と呼ぶツインテールの少女は、ニヤリと笑ってゆかりと小紫を見た。
「まあ事情はおいおいこの可愛い子ちゃん達に、聞かせて貰うとしましょうか。停車時間は短いものでね、また後で逢おうぜお雪ちゃん」
「待て藤!!!おぬしと会うのを何百年と心待ちにしておいたわらわを!!!」
舞雪がすがるような視線だった。
「しかもわらわの…ゆかりまで連れていくというか!!」
「なっさけない顔してるわねえ。今更何なのよ雪。情に厚いのか未練タラタラなのか。そこの子達の方が余程覚悟キマってるっちゅうに」
そう言って制帽をかぶり直しながら、外套の少女は永遠子に顔を向ける。
「…永遠子様、どうやら手を焼きましたかねぇ、うちの従姉妹に」
「手を焼くも何もありませんよ?」
「まあそうだよね、永遠子様ってそうだよね。私と違って、仏様だし」
「うふふ」
そこで永遠子は微笑むばかりだった。ばさりととんびコートが雪風に翻る。停車した編成。どこか遠くで声がする。
「あー!!!ゆかりーーー!!待ちなさいよーーー!!」
「え…?」
ゆかりが少し驚いた顔。駅から外へ通じる道。そちらから白神柚希と白妙真冬が駆けてくるのであった。
ぜえぜえ息を切らしながらホームに駆けこんでくる少女二人。
「ちょっとー!!もう行くなんて聞いてないわよ!!来る時も突然だったのに行く時も突然とか!!」
「…?」
困惑したように立ち止まるゆかりは、永遠子に目をやる。永遠子は微笑んでいた。そういう計らいであるらしかった。
「そうです、そんな素敵な列車に乗って行ってしまうなんて!!」
「黙りなさいよ真冬!?」
「…相変わらずだね…」
ゆかりの微笑み。だがそこで何かが踏ん切れたらしい。客車の開いた扉、そのすぐ傍の握り棒を握りながら、優しい瞳で二人を見ていた。
それは、友を見る瞳だった。
「…お見送り…?」
「…行っちゃうんだ。まだ、フロントの時のごめんなさいも、まともに言えてないのに」
柚希の顔。柚希が何をどこまで正確に知っているのか―――それはゆかりは分からない。ただ、そこにあるのは、友を案じる視線だった。
この子は私が、何をやったかも知らないけれど、それでも友としてくれるのなら―――それでいいと思う、ゆかりがいた。
この子ならば、許してあげていいと思った。そして、許してくれるのではないかと思った。
この子は私のしたことを、私の仕業とも知らずに、許さないと言ったけれど、許してくれそうな気がしたし、多分それは、そうだろうと、根拠なく思える、ゆかりがいた。
「行く」
「…きちんとお見送りしたかったよ…ゆかり…。あの時はごめんね」
その瞳に涙があるのを認めて、謝罪も受け入れて、ゆかりは微笑んだ。それだけで良かった。真冬も心配そうに見つめてくる。
「きちんとお見送り出来なかったことだけが悔やまれますけど…それでも辛うじてですけど、間に合って良かったです。どうか…お気をつけて…」
その口調はどこか悲痛があった。柚希と違って、真冬は薄々気づいてそうだとゆかりは思ったけれど、口には出さない。ただ頷いて、客車の扉を開けた。ニス塗の車内を歩いて、ボックスシートに腰掛ければ、窓から見えるのは手を振る故地の友と―――恋しい兄だった。
ボックスシートの向かい側に、小紫が腰掛けてくる。その隣には、紅のとんびコートの仏様。
物珍しげに車内を見渡すゆかりに、微笑みかけてくるのは、先ほどの制帽をかぶった、ダブルボタンの少女だった。
「二度と帰らないお客のためには、こんな演出も必要なのよ」
「…あなたは…?」
「車掌をつかまつります藤乃―――生前あそこのお雪の従姉妹だったわ、よろしくね」
そう言って、彼女は、悪戯っぽくウインクをした。
汽笛が鳴る。客車が動き出す。窓から身を乗り出す。でも―――良かったとゆかりは思う。その気持ちが、伝わっていればいいなと思う。
あの兄の、心が、少しでも、軽くなっていて―――
少しでも、幸せになってくれるのなら。
私の、何よりの、置き土産になったのではないかと思う。
―――
「おにいちゃん、また逢おうね」
その呟きは、雪に乗って、兄の耳に届き、―――そして霧夜の視界は、再び、白に塗りつぶされた。
汽笛の音は、はるかに遠く―――
そして路は、白い空の涯てへ続いている。