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ホワイトスカイ  作者: 笹霜
ゆかり編
18/30

18.駅


風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それが何処から来てどこへ行くか分からない。

(ヨハネ 3:8)


「―――どうして…」



果てしの無い問いが、怨念の燐火と共に、ゆかりの口から漏れた。死霊の息と、果てしのない怨念であった。


それを問うて―――そして答えが出なかった。そんな三人なのである。ただ絶句して、仏と鬼の対話を見守っていた。


ただ、霧夜には、妙な確信があった。


―――悪いことには、決してならない。



「どうしてだと思いますか?」



永遠子はそう答えた。鬼と成った彼女。追い詰められ、希望を失い、妖刀があったせいで、鬼と成りて、尚も何かを探し続ける。どうすれば良かったのか。どうして己は、こんな無念を残さねばならなかったのか。


―――それは、死霊―――悪鬼の類に他ならなかった。


冷たすぎる程に冷たい頬。燃える鬼の瞳から血の涙が滴る。その牙の生えた唇が、怨念の言葉を繋いでいく。


「…どうして…人になれないの…誰も…認めてくれないの…私は…人間…」


「人間になりたかったのですね」


「…そう、私は、人間に…人間…人間のはず…」


強烈な妖気。死んでなお彼女を動かす怨念。それは彼女の中に宿り残った妖気故か。それとも―――彼女の遺志故か。両方としても、不自然はない。


ただ霧夜は、妹分を見守っていた。


「…みんな、分かってくれない…」


「…」


「…みんな、私に、ひどいことをする…」


「…」


「…みんな、私を、うらぎる…」


「…」


「だれも、わたしを」


―――俺が居る、なんて言葉が、彼女に届くのだろうか―――


「…おにいちゃんだって、あってふつかの、わたしを…」


「…」


出しかけた言葉は、届かないことが、はっきり分かった。それが霧夜にも、無念だった。―――もうすぐで届きえたのだろうか。それだけが、悔いになって、心の奥底に苦い澱になる。それほどに、彼女の心の病の根は、深い。


「…あなたが、何をするというの…」


忌々しげな瞳だった。憎悪を溜め込んだ血涙の瞳が永遠子を睨む。永遠子は微笑んでいた。


「…憎いのですね」


「憎い…」


「なれば、私を殺しなさい」


大胆不敵な言葉だった。三人の瞳が見開かれる。ゆかりの瞳が明滅した。微かに理性らしい光が灯ったのが霧夜には理解出来た。―――まだあの中に、妹がいる。


「私をあらん限りに殺しなさい。喚いて泣いて、切り刻みなさい」


「―――何の狙いで」


明晰な声が木霊した。その声の主を誰もが知っている。緋那も舞雪も霧夜も。霧夜はそこで初めて声を上げた。


「…小紫…」


「何の狙いで殺しなさいなどと。貴女が何の狙いを以てそんなことをするのですか」


それは悪霊のそれではなかったが、悲しみに満ちた言葉だった。―――これまでと変わらない小紫は、ずっと変わらないつもりでいるらしかった。


「何の狙いで、ゆかりにそのようなことを言うのです。貴女にみすみす殺される義理などない」


誰かの親切は誰かの下心。それを知り過ぎる程に知っているからこそ―――小紫の言葉だった。


小紫を構えるゆかりの姿勢も硬直していた。


永遠子は相変わらずの、微笑みだった。


「―――それは、私が、そう在る者だからです」


「―――」


沈黙が降りた。雪が舞い降りてくる。本堂の荘厳の輝きが増したように思える。


「太陽は見返りを求めて動きません。海は見返りを求めて動きません。風は見返りを求めず、石や岩もただそこに在ります」


「―――」


「私もそう在るのです」


永遠子は手を差し伸べた。微笑みは変わらない。


「私は神ではありません。人でもありません。何をも求めてはいないのです。ただそうなるべくしてそう在るだけです。対価を求めて照る太陽がないように、私は一切を差別しません。ただそこに在って、今貴女に切り刻まれるだけです。太陽が照る理由がないように、私が切り刻まれることに、理由は、ないのです」



怒気が膨れ上がり、逆上したような気配がした。



ふざけないで、という、絶叫が聞こえた。



永遠子の身体が切り刻まれていた。



―――血しぶきが飛んだ。凄惨であった。



―――その首が飛んだかと思えば、紫炎の閃光が数多に十字に走り、肉体がバラバラになり吹き飛んだ―――かと思いきや、その血が、身体が白い炎となり霧消して消え、ゆかりの背後にその永遠子の身体があった。



右手に錫杖を持ち、そして相変わらず微笑んでいるのである。



再び閃光が走った。凄まじい閃光。霧夜の瞳にようやく捉えられるかと思うような斬撃。再びの血しぶき。ゆかりの手の中には、はっきりした手ごたえが残っているのに―――切り刻んだはずの身体は消えうせ、再び相変わらず、この女は微笑んでいる―――それが限りなくゆかりの癇に触れた。



この女だって、どうせ、私を裏切って―――裏切って―――それを証明してやる。



それを証明するかのように閃光が疾駆する。十重二十重の斬撃が無数に仏を切り刻む。そのたびに本堂に血しぶきが飛び、内臓が撒き散らされ、そして消えては、現れるを繰り返す。



―――目も眩むような殺人劇。



何人を殺せば気が済むのか。何人が死ねば気が済むのか。それはまるで意地の張り合い―――いや違う。永遠子は意地など張っていない。意地を張って、その泥のような闇の確信を祓うべく疾走しているのは、ゆかりの方だ。


霧夜は足元の血を見てただ思う。


―――理由のない奉仕。


理由なく身体を捧げ、理由なく切り刻まれ、理由なく八つ当たりされ、しかしそれを是として受け入れる―――。



―――誰にも出来なかったことだ。



人間である限りは、誰にもできず、誰にも届かず。神でさえ出来ず。よしんば出来たとしても、そこには必ず、理由があった。


しかし仏には、理由がない。


理由なくして、彼女に刻まれ、そしてそれを、是とするのである。


―――親が子供を愛するのに理由がないように。


仏がそうするのも、また、理由などない。



―――理由がないこと。



それが彼女が、一番求めていたもの。



そして辿り着けなかったもの。



―――何度切り刻んだのか。何度殺したのか。何度血を見たのか―――何時間が、経ったのか。雪が降り積み、血に染まり、白の炎がそれを消し、そしてそれを繰り返し。


本堂の前には、小太刀ゆかりが居た。


しかしそれは、鬼の姿ではなかった。青白い顔をしていたが、霧夜の良く知る、妹の顔をしていた。だがその顔は、俯いていて、限りなく物憂げであった。


傍に、人の姿を取った、小紫の姿があった。その顔も悲痛なものであった。


永遠子はそこにいた。


遍路笠に三つ編みを流し、とんびコートを翻す、永遠子の微笑みは―――最初から変わらなかった。


「―――分かってしまいましたね」


「どうして…」


「…八つ当たりをしても、何も変わらないということが」


優しく肯定するような言葉。囁くような、歌声のような言葉。こらえきれなかったのか、再び紅の霊気が爆発した。


朱鞠内緋那の、絶叫。


「そうよ!!!何なのよあんたいい加減にしなさいよ!!!あんた!!!答えを知っているんでしょう!!!答えてあげなさいよ!!!!!!!」


―――これほどまでに、彼女は答えを求めているのに。


霧夜は緋那から、ゆかりに、永遠子に視線を移す。答えがあるのだろうか。ゆかりが縋るように永遠子を見る。


ゆかりには、分かっているのだ―――山のように切り刻んだ彼女は、もう、ゆかりの価値判断の中にある『人間』や『神』ではない。ありえなかった。しかし、あるいは、人間でも、神でもなければ、―――求めるものに、辿り着かせてくれるかもしれない。


永遠子は答えた。


「分かりませんね」


絶句が降りた。雪だけが降っている。静寂。永遠子は微笑んだままだった。錫杖だけが、どこか愉快そうに、しゃらりと音を立てて鳴った。


「私もあなた達と同じです。どうしてそんなことになったのかなんて、分かりません。知らないことです」


「…じゃあ、どうして、貴女は…」


しかしそこで、小紫は尋ねる。震えながら、言葉を紡ぐ。


「貴女は、そんなに笑顔で、確信を持った振舞いが出来るのですか…?」


「それは、―――答えでなくても、答えに等しいものに辿り着けると、それを知っているからです♪」


無邪気な笑顔だった。本当に鈴の鳴るような声。


答えに等しいもの、と舞雪は口の中で転がす。


「それに辿り着けば、答えが意味を成さない場所―――その場所を知っているだけなのです」


「答えが、意味を、なさない…?」


「ただ、それには、答えを、探さねばなりません」


永遠子はそう言った。


「ゆかりさんはいつも、そうやってきたのです。自分はこれで良かったのか。自分が果たして悪かったのか。どうすれば幸せだったのか。どうすれば、幸せになれるのか。絶えずそう問いを続けてきたのです」


「…うん…」


「問いを続けることは、しんどいことです」


永遠子は祈るように瞳を閉じた。錫杖を再び鳴らす。今度は、決意を示すように。


「絶えず疑心の中を歩きながら。自分の人生に問いを向け続けること。並大抵のことではありません。苦行です。でも、それを、続けられるからこそ、それがあるからこそ、それに誰も答えなかったからこそ、それを死して尚諦めないからこそ、私はここに居るのです」


「―――」


「ここで問いを諦めたら、そこまでです」


永遠子は厳しい瞳になった。


「何事にも関しても所詮は自己責任だと突き放し、それしかなかったと諦め、自業自得だという嘲りをする。そうやってきた人を、地獄を、貴女は無数に見て来た。しかし見てきてなお、諦めることはなかった。最後の最後まで、問いを諦めなかった。どうしてと問い続けた」


「…」


ゆかりの瞳に涙があった。永遠子は続ける。誇り高く錫杖を舞わせる。


「だから私が居るのです。最初から私は此処に居るのです。だから私は、あの時、犬と猫を殺した記事に、問いましたね?」



そう、あの、ゆかりの明暗が分かたれた、数時間前の出来事の時に。



神は許さぬと言ったが、仏は言ったのだ。



『どうしてそうなってしまったのでしょうね―――?』



そう、問うたのであった。



そこに拒絶はない。善も悪も理も非もなくて、恨みも悲しみも怒りもそこにはない。ただあるのは、純然な問いだけ。



「そこで諦めたら、そこまでです。進みたいと願うのであれば、そこで問うことを諦めてはいけません。そして貴女は諦めなかった。怒りと悲しみを私にぶつけて、それが霧消してなお残る問いです。だから私は此処に居る。問いがあるところに私は居て、そして問いの先にゆくものを、その問いの道に導くだけ―――」



ばさりとその紅のコートが翻る。仏はその腕を差し出した。



「さて最後に問いましょう、ゆかりさん。貴女は問いの先を見るつもりがありますか?貴女がどうしてその人生を―――こんな無惨な結末になったのか、知りたくはありませんか?どうすれば幸せになれたか、知りたくはありませんか?」



―――その先を教えて貰えるのであれば、小太刀ゆかりに躊躇う理由は何一つなかった。



「行きましょうか。ほんとうの幸いを何かを、探しに」



舞雪が声を上げる間もなく、ゆかりはその腕を握った。二人の微笑みが重なった。


瞬間、そこを起点に、白い世界が広がった。咄嗟のことであった。突風。霧夜も舞雪も、緋那も目を覆う。白い輝きに世界が満ちて、舞雪が世界が書き換わった、置き換わったのを感じた―――これは、此処は―――。



三人が目を開けた時、そこは、雪原のプラットフォームであった。



昼でもなければ夜でもない。白い世界であった。霧夜は周囲を見渡す―――雪原のプラットフォームだが、そこは、見知った場所だった。


舞雪が愕然とした顔だった。


「…三郷温泉駅…?いや、ここは…?」


「違うわ、微妙に違う」


緋那の言葉。霧夜も同意する。今の時間の現実の三郷温泉駅は暗黒のはずだ。―――しかしここは真っ白な雪に覆われたプラットフォームだった。


薄い雪に、プラットフォームのコンクリートが覆われている。


朽ちかかった飴色の駅舎。掠れて読めない時刻表。「三郷温泉駅」と霞んだ看板。山際の寂しい峠の無人駅。白い空の下、粉雪の舞う白い世界の中で、深紅のコートが翻る。



「…さて、最後です。ご挨拶は今のうちですよ?」



微笑み。絶句。―――だが全く不自然ではない。三人には分かっている。ここは生死の狭間だ。どこか遠くから汽笛の鳴る音。


緋那がギリッと歯を噛んだ。握りこぶしから再び血が滴る。


ゆかりが笑った。無邪気で自然な微笑みだった。―――それは緋那が今まで見たどんな表情よりも、年頃で、闊達に見えて―――まるで柚希のような笑顔だった。


「あは、緋那先生悔しいんだ」


「悔しいに!!!決まってんでしょうよ!!!!!」


絶叫。その胸倉を掴んで揺さぶる。


「何で…!!!」


しかし、その後が続かない。その瞳が涙を浮かべ、緋那は歯を食いしばったままその場に崩れ落ちた。ゆかりはその白衣の背中をぽんぽんと叩きながら、


「…緋那先生、相変わらずだ…」


「…何で…」


「…でも、ありがとうございました…そうやって、悔しがってくれるなら、ちょっと嬉しいかも…」


「…何で…」


「貴女のその正義感とお節介。忌々しいまでに嫌いでしたが、美徳だと思いましたよ。ええ」


最後に皮肉めいた笑みを浮かべて言ったのは小紫である。切れ長の瞳を緋那に向けて、しかし僅かに、寂しそうな気配だった。


ゆかりが次にステップを踏んで向かったのは、舞雪のところであった。


今までになく、無邪気な表情であった。見開いた瞳に、かつてない輝きがある。


「舞雪姫様♪」


「…っ、ゆかり…」


心臓が跳ねあがる舞雪である。何を言えばいいのかも分からなかった―――当然であった。何を言える資格があるというのか。それだけでも舞雪は沈黙したくなる、それくらい、合わせる顔が、まるでない。そう、思っていた。


ゆかりはにっこり笑った。無垢な顔であった。


その掌が閃いて、そのまま、舞雪にビンタを食らわせた。



「―――」



舞雪は茫然としていた。―――人に頬打ちを食らったことなぞ―――何百年もなかった、舞雪姫であった。


ゆかりは笑顔だった。素敵な笑顔であった。



「大ッ嫌い♪」



―――最後の最後まで、そうやって、人の心を思って、道化を演じるのか。霧夜はそれだけを思った。天を仰いだ。白い空。粉雪。


ステップを踏む音を無視したかった。その足音は確実に迫っていた。―――最後まで目の前に立って欲しくなかった。この時が永遠に続いて欲しかった。



足音が止まる。霧夜は視線を下ろした。



視線を下ろすなり、首に腕が回ってきた。暖かい身体は驚くほど軽かった。唇が合わさったのは、ほんの一瞬。優しすぎる程の微笑みが視界に横切って、耳元で囁きが木霊した。



「…だいすきだよ、おにいちゃん…」



―――他に何があるのだろうか。傾きかかる重心を支えるのに全身全霊を使ってそれだけだった。それ以上何も出来なかった。ありったけの感謝と好意。妹分の暖かさが、するりと腕の中を抜け出して、それが自分の背後に、背中合わせに立った。



「あはは、おにいちゃん、泣いてる…」


「…」



―――どうして涙を抑えられないのだろうか。これから俺はこいつを見送らなければならないのに。



ぼやけた視界の中で、一人の紫色の着物姿が微笑んでいた。やっぱり、どこか、切ない顔だった。



「情けない顔をしていますね、音無霧夜。最後にそんな顔だなんて、残念です」


「ダメだよ小紫様、そんな嫌味なこと言っちゃ。これが最後なんだから」


「…」


途端に小紫の顔が歪む。悔しそうな、歯を食いしばるそれだった。


「ですが…」


「ねえ、おにいちゃん、小紫様はね、」


「…もう!!!」



紫の風が吹いた。最後にまた、細い腕が首に回った。触れる唇。妖艶で、切なげで、恋しそうで、涙に濡れた、瞳。



「…三千世界のいつかどこかで、貴方の伴侶になってみたい…その時こそ…」



その時こそ、貴方を愛し抜いてみせます。


その気配も背中に回る。背中合わせにホームに立って。近づいてくる汽笛を聞いている。甲高い、SLの汽笛であった。



「ありがとうございました、音無さん…いや、霧夜さん。私と、ゆかりを、救ってくれて」


「俺は、何も、出来ていない…何も…」


「おにいちゃんは、最後に、私を助けてくれた…最後まで、カッコいいおにいちゃんだったよ…だから…ね」



ゆかりは言った。



「おにいちゃん、ずっと先で待ってるよ。きっと、おにいちゃんなら、私の答えも、探してくれるんだよね」


「…ああ」



俺も探し求める答えを、この妹分は探しに出かける。俺よりも、ずっと、先を、先に。



「おにいちゃん、私は、ずっとおにいちゃんの側にいるよ。おにいちゃんの記憶に、ずっと残って、おにいちゃんを、励ますよ」


「…お前…」


「大丈夫だよ。おにいちゃんは、一人じゃないよ。私も、小紫様も、ずっといるよ」



―――なんてことを。この妹分は。俺の心を。そこまでに。



ずっと孤独だったと思っていた夜に、妹分は、笑顔で入ってきたのだった。



「だから、捨て鉢になったりとか、ヤケになっちゃ、駄目だよ?」


「…ああ」


「大丈夫だよ。おにいちゃんは、私と違って、強い人だから。でも、」


でも。


「泣いてるおにいちゃんを、私は知ってるから、つらい時は、泣いてもいいんだよ?」


既に視界は涙で用を為さない―――だがそれでも。


「―――ひとつだけ…」


「一つだけ?」


「一つだけ、聞かせてくれ…」


嗚咽混じりの声。どうしてこうなってしまったのか、どうしてこの妹分の笑顔に気づけなかったのか、それを今更に問いながら。


「お前を、俺は、救えたのか…?」


その言葉に。


妹分は俺の間の前に跳ねてきながら、


とびっきりの、綺麗な涙を流しながら、



「だって、おにいちゃんは、私のたった一人きりのおにいちゃん!!!」



汽笛が鋭く響いた。蒸気を吹きだすブラスト音。黒鉄の蒸気機関車が、白煙を噴き上げて峠を登ってきたのだった。


暖色の明かりが漏れる、二両の茶色の旧型客車を連ね、一両のタンク型蒸気機関車がホームに入線してくる。蒸気と共に舞い上がる雪。


連結器同士が絡み合う鈍い金属音。ゆっくり減速していく短い編成。減速も終わらぬうちに、二両目最後尾の車掌室から、ダブルボタンの外套を纏った、ツインテールの小柄な少女が飛び降りて来た。



「おやおやまあまあ、今日は可愛らしいお客様じゃん永遠子様。しかもお雪の駅からときたもんだ」



「!?」



反応したのは舞雪だった。茫然自失の態からよろよろと、本当に幽鬼のようにそちらを見た。疲労というより、魂が抜けてしまいそうな瞳だったが、それでも驚きは隠せていない。


「…ふ、藤…おぬし…」


「ははあ、さてはやらかした様子ね、雪」


舞雪のことを『雪』と呼ぶツインテールの少女は、ニヤリと笑ってゆかりと小紫を見た。


「まあ事情はおいおいこの可愛い子ちゃん達に、聞かせて貰うとしましょうか。停車時間は短いものでね、また後で逢おうぜお雪ちゃん」


「待て藤!!!おぬしと会うのを何百年と心待ちにしておいたわらわを!!!」


舞雪がすがるような視線だった。


「しかもわらわの…ゆかりまで連れていくというか!!」


「なっさけない顔してるわねえ。今更何なのよ雪。情に厚いのか未練タラタラなのか。そこの子達の方が余程覚悟キマってるっちゅうに」


そう言って制帽をかぶり直しながら、外套の少女は永遠子に顔を向ける。


「…永遠子様、どうやら手を焼きましたかねぇ、うちの従姉妹に」


「手を焼くも何もありませんよ?」


「まあそうだよね、永遠子様ってそうだよね。私と違って、仏様だし」


「うふふ」


そこで永遠子は微笑むばかりだった。ばさりととんびコートが雪風に翻る。停車した編成。どこか遠くで声がする。


「あー!!!ゆかりーーー!!待ちなさいよーーー!!」


「え…?」


ゆかりが少し驚いた顔。駅から外へ通じる道。そちらから白神柚希と白妙真冬が駆けてくるのであった。

ぜえぜえ息を切らしながらホームに駆けこんでくる少女二人。


「ちょっとー!!もう行くなんて聞いてないわよ!!来る時も突然だったのに行く時も突然とか!!」


「…?」


困惑したように立ち止まるゆかりは、永遠子に目をやる。永遠子は微笑んでいた。そういう計らいであるらしかった。


「そうです、そんな素敵な列車に乗って行ってしまうなんて!!」


「黙りなさいよ真冬!?」


「…相変わらずだね…」


ゆかりの微笑み。だがそこで何かが踏ん切れたらしい。客車の開いた扉、そのすぐ傍の握り棒を握りながら、優しい瞳で二人を見ていた。


それは、友を見る瞳だった。


「…お見送り…?」


「…行っちゃうんだ。まだ、フロントの時のごめんなさいも、まともに言えてないのに」


柚希の顔。柚希が何をどこまで正確に知っているのか―――それはゆかりは分からない。ただ、そこにあるのは、友を案じる視線だった。


この子は私が、何をやったかも知らないけれど、それでも友としてくれるのなら―――それでいいと思う、ゆかりがいた。


この子ならば、許してあげていいと思った。そして、許してくれるのではないかと思った。


この子は私のしたことを、私の仕業とも知らずに、許さないと言ったけれど、許してくれそうな気がしたし、多分それは、そうだろうと、根拠なく思える、ゆかりがいた。


「行く」


「…きちんとお見送りしたかったよ…ゆかり…。あの時はごめんね」


その瞳に涙があるのを認めて、謝罪も受け入れて、ゆかりは微笑んだ。それだけで良かった。真冬も心配そうに見つめてくる。


「きちんとお見送り出来なかったことだけが悔やまれますけど…それでも辛うじてですけど、間に合って良かったです。どうか…お気をつけて…」


その口調はどこか悲痛があった。柚希と違って、真冬は薄々気づいてそうだとゆかりは思ったけれど、口には出さない。ただ頷いて、客車の扉を開けた。ニス塗の車内を歩いて、ボックスシートに腰掛ければ、窓から見えるのは手を振る故地の友と―――恋しい兄だった。


ボックスシートの向かい側に、小紫が腰掛けてくる。その隣には、紅のとんびコートの仏様。


物珍しげに車内を見渡すゆかりに、微笑みかけてくるのは、先ほどの制帽をかぶった、ダブルボタンの少女だった。


「二度と帰らないお客のためには、こんな演出も必要なのよ」


「…あなたは…?」


「車掌をつかまつります藤乃(ふじの)―――生前あそこのお雪の従姉妹だったわ、よろしくね」


そう言って、彼女は、悪戯っぽくウインクをした。


汽笛が鳴る。客車が動き出す。窓から身を乗り出す。でも―――良かったとゆかりは思う。その気持ちが、伝わっていればいいなと思う。


あの兄の、心が、少しでも、軽くなっていて―――


少しでも、幸せになってくれるのなら。


私の、何よりの、置き土産になったのではないかと思う。



―――



「おにいちゃん、また逢おうね」



その呟きは、雪に乗って、兄の耳に届き、―――そして霧夜の視界は、再び、白に塗りつぶされた。




汽笛の音は、はるかに遠く―――




そして路は、白い空の()てへ続いている。

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