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ホワイトスカイ  作者: 笹霜
ゆかり編
17/30

17.来迎



あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい。

(ヨハネ 8:7)



雪が降る。


ずんずん積もる。


痛いほどの静寂。


吐き出す息すらも喪った彼女に、雪が降り積む。まるで労わるように、優しく残酷にただ降った。誰もが何も言わなかった。


音無霧夜はただ妹分の身体を見下ろしていた。ただ愛刀を鞘に納めることもなく、ただその顔を見下ろしていた。


妹分の青白い顔は、―――決して安楽には見えない顔だった。どこか苦悶を浮かべているように見えた。余りにも可哀そうだと思うのに、何故か涙が止まっていた。それは酷薄なのだろうか。それとも、別の何かなのだろうか。


息だけが白い。緋那はただ空を仰いでいた。舞雪はただ立ち尽くしていた。どこを見ているのかも分からなかった。ただその結末に震えていた。


霧夜はそれを一瞥した。



―――分かっていたのだろうと、霧夜は思う。



―――土地神たる力を駆使して、俺とゆかりを、無理やり止めることは出来た。だがそうしなかったのは、そうしたところで、何にもならないことが分かっていたから。それは無力な足掻きだと分かっていたのだ。その場でどうにかなっても、それから後が続かない。


避けえなかった―――避けえなかったのだろうか。


それをただ思う。間違った選択肢を取ったのだろうかと思うが、―――どこで間違えてしまったのだろうか。誰もが、どこで、間違いを、犯したのか。



雪が降る。問いへの答えはない。



夜が更ける。彼女は震えもしない。



ただ、このままは、―――余りにも、やはり、可哀そうだと思った。ただ、このままでは、余りにも、無惨に過ぎると思った。


「…!」


霧夜が雪から足を抜いた。彫像のように立ち尽くして長かった。だがいつの間にかそれくらい積もっていたのだ。その動きを、緋那と舞雪の視線が追う。


霧夜は無造作にも見える動きだった。境内の雪原に足を踏み入れては、雪の中をまさぐる。青白く冷えた掌に、仄かに紫に輝く刃の欠片があった。


砕け散った、小紫の欠片である。


「…」


霧夜はただ雪の中をまさぐる。緋那が近づいてきた。何も言わなかった。緋那もただ黙って、雪の中に手を突っ込み始める。舞雪も加わって、三人で欠片を拾い集めた。


最後に、霧夜が、雪の中から、その柄と鍔を拾い上げた。柄も鍔も、何も言わなかった。そこには意志がなかった。


付喪神、小紫。


―――俺のあの一閃はあの刃と交わらなかった。ダメージはほとんどないはずだった。それにも関わらず砕け散った。―――ゆかりの生命力を吸い上げて一体となりすぎたせいだったのかも知れない。だが、いずれ、ゆかりがああなる中で、自らが安穏となることを選ぶ小紫ではないと霧夜は確信していた。


それは、望んだとはいえ、悲惨な結末だった。


「…」


ゆかりにその柄を握らせた。死にゆく者を護る、守り刀のように。その胸の上に刃の欠片が散る。


瞬間、その刃の欠片達が、淡い燐光を放ちながら、ゆかりの身体に埋もれるように消えた。だが、それは―――小紫の遺志と、最後のなけなしの力でしかないと、誰もが瞬時に理解していた。


こちらに向けられる言葉もない。それを吐き出す力も無い。意志も粉々に砕け散った―――砕け散って尚、惚れた主を護ろうとしていた。それだけであった。


「…」


霧夜はゆかりを抱き上げた。既に凍り付き始めていた身体だった。「霧夜…」と小さく呼ぶ声は神のものだったが、霧夜は神の方を向かなかった。



―――これで最後か。



闇の参道を、雪の参道を、降りながら霧夜は思う。



何度彼女とここを降りただろう。二回ほどか。だがその思い出も取り留めもない。ただ嬉しそうに跳ねながら、俺の後ろをついてきた足音が、今はもうない。


一度か二度のはずなのに、それが当たり前のように思っていた。


ほんの三日ほど、会話しただけの仲なのだ。


なのに、当たり前のように、俺の腕の中の存在は妹だった。―――そして(ゆかり)にとって、俺はきっと兄だったのだろう。


それは幻だったのかとすら思う。それほどに短いのに、当たり前で、だからこそ、不思議な関係だった。


一体、この三日は、何だったのだろうかと、それを思う。


ただ、最後に、この彼女を、このままにしておくわけには、いかなかった。


それが兄たる者の、彼女と―――それを護る一人の女との、約束だと思った。そんな約束をした訳ではないけれど―――それが約束だと思っていた。


終わりか。


参道を降りる。闇の雪路。霧夜は間違えない。うんざりするほど歩いた石畳を正確に踏んで、その視線が一の鳥居を見据えた。



そして、一つの、予感がする。



思えば、俺は―――どこへ、彼女を連れてゆく気だったのだろうか。



その答えを示すように、一の鳥居の向こう側に、また新たな参道があり。



一人の女性が、瞳を閉じて、合掌をして、待っていた。



その背後の、闇の森の向こうに、黄金の荘厳が見えた。



それは―――彼女を迎えに来た者だった。



霧夜は、一瞬で、それを、悟った。



「お待ちしておりました」



久遠寺永遠子は、いつもの格好―――いや違う。


四言絶句の描かれた遍路笠に、雪が積もっている。どれだけの間、ここに待ったのか。しかしそれすらも感じさせぬ顔と気配。浄衣の上からの紅のとんびコートが、嘆くような風を纏って浮き上がり翻った。


永遠子は目を開く。いつもの表情。アルカイック・スマイルだった。その紅の視線が、ゆかりを見ていた。



瞬間―――怒気が膨れ上がった。



「―――ブッ殺す!!!!!!」



朱鞠内緋那だった。今夜一番の殺気だった。紅の突風となって霧夜の背後から一直線に飛び出す。翼を広げて飛翔する。霊力の練り上げられたその拳に、紅の霊気をこれでもかと纏わせて、勢いのまま永遠子の顔面に拳を繰り出す。


瞬時の攻防―――いや、攻防ではなかった。


攻防にすらならなかった。


何故なら、緋那の拳が、するりと永遠子の顔面をすり抜けて―――宙を切ったからだった。そこにあるはずのものに、命中しなかった。


面食らったのは、緋那ばかりではなく他の二人も同様であった。


「!?!?」


緋那の勢いは止まらなかった。元から止まるような勢いでブン殴っていない。そのまま境内を勢いのまま彗星のように真一文字を翔んで、積み上げられた雪山に突っ込んで爆風を吹き上げた。


永遠子の顔が変化していた。


首から上が、白い炎になっていた。


それは―――何を象徴しているのか。雪よりも白い、温度もない、無垢の炎だ。


白い炎は揺らめいて、すぐに遍路笠をかぶる少女の姿になる。笠に積もったはずの雪は既にない。


「―――幻…?」


「幻ではありませんよ」


舞雪の言葉に、永遠子は微笑みのままであった。霧夜は目を見開く―――炎にしたってこれは違う。先ほどの朱鞠内緋那の拳は、特大濃密に霊気を纏った一発だ。物理の力のみならず、実体のない悪霊だってブン殴って吹き飛ばせる。対怪異、対霊異に対しても万全の、ブン殴られれば俺とてタダでは済まない一撃だった。


しかし、それを、この人物は、ただすり抜けさせた。


そこに何ものもないかのように。



「―――心も亦たこの身に非ず、身も亦た是の心に非ず。


そしてこの身は、影が如く、業縁より現る」



謡うように、彼女はそう言った。くるりと踵を返す。


紅のとんびコートが翻る。歩き出すその姿に、霧夜はただついていく。雪山から顔を抜き、やってきた緋那が、燃え立つような瞳であった。


「…あんた、何もかも知っていたの!?!?知っていて何もしなかったの!?!?!?」


永遠子は参道の途中で歩みを止めた。緋那が仁王立ちしてその行く手を遮る。


怒りに満ちた言葉があった。


「あんたが何者か知らないけれど…いや、知っているかも知れないけれど、それがあんたのやり方なの!?!?!?」


「―――では、どうすれば良かったのでしょう?」


「―――!」


問いに緋那は絶句する。霊気を伴って再び上げかけた拳が、振り上げきれもせず、ただその握り込んだ拳が血を流した。


緋那は震えていた。


「…分からないわよ、そんなの…!!分からないから、あんたが、もしも、助けてくれたらって、考えるんじゃない!!!」


「助けたところで、どうなるのでしょう」


「どうなる…?」


緋那は再び絶句する。永遠子は微笑んでいる。アルカイック・スマイルというには、やや柔らかな微笑みだった。


永遠子は緋那から視線を外して、霧夜を見た。―――無垢な瞳だと思った。


「…先ほど、考えましたね、音無さん。仮にこの場を助けられたとして―――どうなるのでしょう」


「―――」


「どこにも行き場のない彼女なのですよ」


永遠子は言った。


「生きていることが素晴らしい。人生は素晴らしいと、そう言う人がいますが、生きることは、つらいことです。それを、音無さんは、良くご存じですね?」


「―――」


「誰にも目をかけられず、誰にも愛されず、誰からも裏切られ続け、犬畜生以下だと罵られ続け、」


情念の炎が、霧夜の腕の中で燃え上がったようだった。


「―――あとそれを何年続ければ良いのでしょう?あと何年あばら家の中で暮らせば良いのでしょう?何年経てば希望が見えるのですか?人生きっといいことがあるはずだと、そう信じることが出来るのは、人生いいこと沢山あった者が、感謝と愛情に包まれた者のみが、そう言うことが許されるのです」


紫の炎が、霧夜の腕の中で燃え上がるかのようだった。


「生きていることは、つらいことです。このまま彼女は生きてどうなるのでしょう。よしんば生きられたとして、そこに待つのは、死ぬよりもつらい現実かも知れませんよ―――?」


「―――」


「生きていることが、幸せだなんて、それは、誰が決めたことなのでしょう?」


そして、永遠子はニッコリ微笑んだ。誰もが硬直する。


「道徳ですか?法律ですか?常識ですか?それとも世界でしょうか?―――何がそう決めたのでしょうか?誰がそう定めたのでしょう?」


「―――」


「誰もそんなことを決める権利はないのに、誰もそんなことは定められないのに、誰もがいつしか、生きていることを幸せだというような、生きていればこそ幸福があるというような、そんな囚われの中で生きています」


永遠子はそう言って微笑んだままである。


「生きることが苦しみだと、そう解き明かしたのが、在る如来です。生きること、老いること、病むこと、そして、死ぬこと―――」


「―――」


「さて、どうなるのでしょうか?」


永遠子は再び問いを向ける。問いだらけ。山のように積もった問い。誰もが答えられぬ地獄のような迷路。冬の夜の聖域で、舞雪は息を呑んで立ち尽くす。


舞雪の喉から、絞り出されるような、反論に似た問い。


「…故に、ゆかりは死んで良かったとおぬしは言うのか…!?!?」


「良いも悪いもありません」


しかし永遠子はニッコリ微笑んでいるのである。


「良いも悪いもありません。それに善も悪もなく、また私はそれらも問わない。良いか悪いか、そんなことを決めるのは、それは人間が人間であるが故です」


「…ならば、苦しみを決めるのは、」


「音無さんは良く気づかれました」


永遠子はニッコリ微笑んでいる。


「左様です。なればこそ苦も無く楽も無く、私は全てを、『決めません』」



―――全てを決めない者。全てを判断しない者。



霧夜は問う。


「―――では何故、久遠寺さんは此処にいるのでしょうか」


何をも決めぬ者が。何をも判断しない者が、どうして何故ここに、何のためにいるのか―――。


「それは、そう―――」


微笑みはそこで笑顔となる。


「―――それは、そういう因果であるからに他なりません。そのように因があり、果があるところに、私は居て、そして見えるだけです」


「因果があるところ…?」


「私は何をも決めません。ただそこに居て、そうなるべきものが、そうなる時に、そうなるように、そうするだけ。今回は、そうなっただけです。電気は目に見えませんが、雲が放電すれば雷となり見えるように。そして雷が意志を持たずに走るように」


そして永遠子は語り掛ける。


霧夜の腕の中に。


「ゆかりさんが、小紫さんが、そう問うからです」



「―――」



「だから、私は、此処に居る――――」



そう言って、永遠子は、差し伸べるかのように腕を伸ばした。それは仏の腕のようであった、いや、まさしくそうであった。


深紅のコートが、金色の荘厳の輝きを受けて、雪の風に翻る。


そして、霧夜の腕の中が動いた。



霧夜が腕を放した。それは、奇跡なんかではない。いやむしろきっと逆のもの。舞雪と緋那が絶句し息を呑む。



再び鬼と姿を変えた小太刀ゆかりが、小紫を提げて、久遠寺永遠子を睨んでいた。



―――浅ましい、姿であった。

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