13.朝靄
酷い夢を見ていた―――そう、起きてから気づいた。
定期的に見る夢だった。
―――俺の、日常だったのかも知れない、幻が、奪われた夢。
そして人斬りとして生きることとなった、夢。
転がった、一人の女性の、首。その光を失った目が、虚ろに俺を見つめて。
そして一人の男の哄笑が響く、そんな、血に塗れた夢だった。
「…」
音無霧夜は、青白い朝の部屋の中で、半身を起こした。冷えた部屋なのに、汗まみれの上半身だった。
―――敵地という緊張のせいか、ここ暫く見ていない夢だったが、久方に見たのは、緊張がほぐれたせいか、それとも別の理由なのか。
―――この旅館が、あの忌まわしい男の―――故地であるせいなのか。
そんなことを、思った。
いずれにせよ、全身に纏わりついた不快感が、脳内までを重く浸食していた。顔を覆う指の狭間から、時計を見据えれば、いい時間である。
「…」
ただ巨大な嘆息をついた。この夢を見た日は、疲れが取れたなんて感触がない。ずっしり身体にまとわりつく疲労感が抜けない。だが、ここは敵地で、そして一日が始まる。
霧夜はここ数日の出来事を思い返していた。
この数日の濃密さを考えると、部屋に籠って休養、という訳にはいかないだろう。必ずやどこかで何かが起こっているような有様だ。置いてけぼりになっていてもおかしくない。それに、あの妹分の顔を、どうにも確認しておきたかったし、俺が部屋から出てこないなんてなったら、彼女が「どうしたの」なんて言う、心配そうな顔が見えるようである。それは、どうにも、心が許さなかった。
それは感傷なのだろうか。
罪ではないと思いつつも、霧夜には正解が見いだせない。思えばここに来た理由一つさえも、彼女の
「出来るのかな?」
という言葉一つでぐらついているのである。あの悪夢を見て尚、その言葉は背中に貼りついている。
白神柚希を殺す。それはこの悪夢と過去を祓うための儀式の一つ。それに他ならないのだが、だが。分かっているのだ。そんなことをしても、無駄だと。
分かっていてもなお、―――しかしそれでも。
頭を振った。起き上がった。眩暈さえも感じながら、霧夜は大きく肺呼吸をした。一歩目には身体が均衡を取り戻す。手ぬぐい一つ角帯に引っかけて、音無霧夜は部屋を出た。
旅館、白神荘の朝は早い。
もう残り客は3人しかいないというのに、朝も夕も露天風呂は設定がある。男湯ののれんをくぐりながら、霧夜は浴衣を散らかすように脱ぎ始めていた。冷えた汗で急激に体温が冷えていくのを感じて、それが未だに気持ち悪かった。
身体を洗うのもそこそこに、大きな岩風呂に身体を沈める。霧夜はそこで初めて人心地ついて、大きな安堵に似た溜息を吐き出した。
白い不機嫌な空を見上げる。曇天である。
旅館白神荘の三郷温泉は、湯温38度超と、ややぬるめの設定だが、それ故に長風呂向きである。霧夜もここの風呂は好きであった。
霧夜は無為な思考に身を沈めている。
女風呂はともかく、男風呂までも毎日手入れされている―――大層な手間であろう。俺しか客はいないのだ。手を抜いても良さそうなところ、最後まで手抜きされないのは、やはり意地なのだろう。朝なんて設定がなくても良いものを、それでも毎朝用意されている。岩風呂の蛇口から絶えず湯が注がれ、どぽどぽと耳に心地良い音を響かせて、湯気が寒空に上ってゆくのである。
ある意味至上の贅沢とも言えた。
俺の為だけの、露天風呂である。
他に邪魔者もなく、ただのんびりと湯に身を浸す。―――のんびり湯治出来たらどんなに良いだろうかという思いは、初日と変わるところではないが、それよりかは、緊張のほぐれているのは、自分でも認めざるを得ないところだった。
何せ、この旅館の中では、最早顔を見知らぬ者さえも、殆どいないのである。
だからか、湯の音と香りと温度とが、全て身体に染み入るようだった。悪夢に疲れ冷え切った身体に、ありがたい湯だった。
ふと、そんな中、声がする。
垣根の向こう側からであった。
「ゆかりー!!タオル忘れてるわよー!って、さっむ!!」
「…ありがと柚希…」
「あれ、ゆかりさんに加えて柚希さんも朝のお風呂ですか?お珍しい」
「おはよう、珍しいのはそっちもよ真冬。自由に入ってどうぞとは言ったけど、一声かけてくれてもいいのに」
「女将さんにはお声かけしましたよ柚希…」
柚希、真冬、ゆかりの三人娘の声である。露天風呂への引き戸が閉まったり開いたりする音。ざぶざぶと入って来る音。珍しく、垣根の向こう側、女風呂に人の気配である。
「…あったかい…」
「やっぱ朝風呂いいわねー、最近惰眠優先だったから入れてなかったけど入れてよかった。ところで真冬も物好きね、こんな朝っぱらから。冷えるでしょうに」
「…」
だがそこで真冬はらしくない沈黙だった。「真冬?」と尋ねる柚希。ゆかりの沈黙までも聞こえてくるようだった。
溜息がした。
「…ごめんなさい、ゆかりさん。ゆかりさんが朝入りに来ると知りまして。もしかしたら、お会いしてお話出来るんじゃないかと」
「なるほど」
「…裸の付き合い…」
柚希の納得に、とぼけたようなゆかりの言葉。ゆかりの言葉はとぼけているようだが真実を衝いていると霧夜は思う。
こういう場では、色々と無防備になる。本音も漏れやすいものである。
「色々、心配なんです。ごめんなさい」
「…ん、お気遣い、痛み入る…」
「何なのよその口調…」
真冬の口調はやや悲痛さを伴ったものだったが、ゆかりはやはりすっとぼけたような口調である。柚希の呆れ声だった。
扉が開く音がして、くすくす笑い声がした。
「ゆかり、きちんと入らないとダメですよ?」
「小紫様」
「あ、おはようございます、小紫さん…」
「ご機嫌ようお嬢さん方。やりづらくても、堪忍して頂戴ね」
柚希と真冬の感情が一気にこわばったのが分かった。分かりやすいほどの緊張と同時に、ゆかりが安心した波動すら伝わってくるようだった。小紫が出てきたのは間違いなく牽制のためだろうと、霧夜は看破している。
聞き耳を立てるまでもなく、女風呂の会話は聞こえてくる。霧夜はただ、湯の中で黙ったままで、余計な音一つも立てなかった。
やや沈黙の間があった。ぴちゃぴちゃ音がしているのは、何なのか。ゆかりが湯で遊んでいるのかも知れなかった。
「…ねえ、ゆかり、そう言えばさ」
「…ん…?」
「何で霧夜とあんなに仲いいの?」
「…何でって言われても…」
柚希の質問。困ったようなゆかりの返答だった。
「…お兄ちゃんは、色々私に優しくしてくれるから…いや、違うかな…」
「違う?」
「うん…」
ゆかりの言葉は嫌そうではない。ただ自分の中にある大切な言葉を拾い上げて、繋ぎ合わせているような、そんな雰囲気だった。
「私の気持ちを分かって、その上で優しくしてくれる」
「だから兄と呼んでいるのですよね」
「ん」
小紫の補足。満足げな肯定の返答。巫女と若女将の沈黙があった。ゆかりはどこか謡うようだった。
「お兄ちゃんは、優しくて…強くて…だから、私がこんなに親切にして貰っていいのかなって、思うし…ただの同情じゃないとは思ってるけど…そうだったら絶対嫌だとも思ってるし…」
「あの方も、ゆかりのことは、本気で目をかけておりますよ」
「…本当にそうなのかな…」
「ええ。私が妬けるほどに…」
微笑むような、そうでないような、そんな調子。また沈黙があった。だがそれは意味深な沈黙であったらしい。
「…何なのです?ゆかり?」
「…小紫様は、お兄ちゃんのこと好きなの?」
ざばっと飛沫の音がした。露骨な動揺に霧夜すらもぎょっとしたが辛うじて漣が立つのは抑えていた。女湯から登る湯気すらもゆらゆら踊っているようだった。
「なっ、なななな」
「な…?」
「…ななななな、何でそんなことをッ」
霧夜すらも驚くリアクションだった。柚希と真冬の唖然とした顔が見えるようでもあった。
「小紫様、お兄ちゃんと仲良い…」
「馬鹿はほどほどですゆかり!!私は第一にゆかりの…」
「しっ」
だが案外ゆかりは冷静らしかった。口をうっかり滑らせそうになった小紫を制する。再びの沈黙。
「…さ、先に出ていますゆかり!!きちんと暖まってくださいね!!!」
「…ん…心配御無用…」
「髪もきちんと乾かすのですよ!!!風邪を引きますからね!!!お嬢さん方お任せしましたよ!!!」
ばたんばたんと扉を閉める音。騒々しかった。唖然とした空気が残っていた。ゆかりの涼しげな顔が見えるようだった。霧夜は岩に背中を預けて黙ったままだったが、気配を殺していつ出ようかと思案もしていた。
女湯の垣根の向こうで、また声がする。
「…しかし、お兄ちゃんと呼ぶくらいだから、ゆかり、もしかしたら霧夜のこと好きなんじゃと思ってたけど、これは…」
「…どうなのかな…」
「…ゆかりもラブなの?」
「…なのやもしれぬ…」
誤魔化すようなふざけたような、いつものすっとぼけた言葉である。ゆかりらしいと言えばゆかりらしい返事だった。
「でも、小紫様、時々、お兄ちゃんのこと、とても羨ましそうに見てる…」
「羨ましそう…?」
真冬の言葉に、ゆかりは返事をすぐにしなかった。霧夜は意外だった。そんな風に見えていたのか―――真意が読めなかった。ゆかりの解釈も不明だったし、小紫の真意も分からなかった。
「小紫様が、でも、羨ましいのは、お兄ちゃんじゃなくて…」
「お兄ちゃんじゃなくて…?」
「…秘密…。でもお兄ちゃんになら分かるはず…。お兄ちゃんのあるモノに嫉妬してる…ね?そうじゃないかな…お兄ちゃん…?」
その言葉は―――明らかに垣根のこちら側に向けられたものだった。最初からお見通しであったらしい。
霧夜は湯から出ながら声を上げた。
「…分かるが分からないと言っておこう」
「霧夜居たんだ…」
「息を殺してたが湯あたりするかと思ったぞ」
柚希の声に霧夜の返事。ゆかりの満足そうな気配が聞こえて来た。霧夜は脱衣所に足を向けた。
浴衣を羽織りながら思う。
―――あるものに嫉妬している。
そう聞いて分かった。
小紫が嫉妬するとしたら、きっとそれは、俺の中に潜むモノだ。
―――妖刀、音無。
舞雪がかつて言ったように、音無は小紫と同じ作者―――つまり舞雪の師、葵の方の作った刀である。意思を持っているが、俺と会話したことすらもなく、明白な意志さえも分からないが―――しかし俺は十全に操り切れていると、舞雪は言う。幼い頃からの俺の相棒であって、腕みたいなものであった。
嫉妬するとしたら、それしかない。
刀は道具であり、兵器である。付喪神は、自らを十全に使って貰える人物に持たれることを望むものである。持ち主の器量がないと判断すれば命を取ることもあれば、傀儡にすることもあり、好意的であれば加護をしたり、自ら成長を促すこともある。
恐らく小紫は後者なのだ。
だが―――俺であれば、多分、妖刀小紫を、多分刀として十分に操れてしまうのだろう。少なくとも、あの虚弱と見られるゆかりよりかは―――小紫がいなければ異能の素養なんぞついぞ持たないと思われるゆかりに比べればはるかに、その力を引き出すことが出来るだろう。
だから、羨ましい。
持たれたいと思っているだろう―――そうゆかりは言っているのだ。
それは、納得できる。
だが、俺は―――音無霧夜は、小紫を持つ気はなかった。
小紫がそう望んだとしても、ゆかりを護って貰わなければならないと思っていた。あの子には、あの刀が、絶対に必要だ。そうでなければ、あの子は、多分、生きられないだろう。
俺が『音無』なくて生きられなかったように。
あの子にも、それが必要だ。
支えとなる、刀が。
のれんをくぐって廊下に出ると、一人の女性が震えながら立っていた。霧夜がぎょっとするほどであった。涙を目に浮かべ、震えている小紫であった。
「…お恥ずかしいところをお見せ致しました…」
「…何も聞かなかったことにしておこうか」
「…いえ…でも…」
すれ違おうとして、霧夜はその言葉に立ち止まる。震えながら、頬から耳まで真っ赤なその顔が、伏せられながらも、
「でも、貴方の腰に収まりたいと、浅ましくも思ってしまったのは、事実です…」
「…そうか」
「…ゆかりには、知られたくなかったのに…」
泣いていた。その泣き顔にどう接したらいいかも分からなくて、音無霧夜はただ黙って彼女の肩にその掌を沿わせた。
光を放ってその女性の姿が消える。霧夜の掌に収まっていたのは―――紫水晶のような輝きを放つ、一本の優美な日本刀であった。
霧夜の持つ『音無』とほぼ同じくらいか、少し短いくらいか。しかしゆかりの身には余るであろう刀身。その刃は細く優美で脆そうですらあったが、そこは見かけのみならず。『音無』のスペックに勝るとも劣らないだろう。
そしてその刃紋が、刀身自体が、紫の輝きを帯びて、目に見えるレベルの、強烈な妖気が湯気のように立ち上がっていた。
慟哭のような妖気であった。
ただ、不自然なことに、鞘がなかった。
―――何故鞘が無いのか。
霧夜はそれを不自然に思う。普通ならば、形であろうと鞘があるものだが―――抜き身の状態でどうやらゆかりの中に普段は納まっているようである。
このレベルの妖刀なれば、鞘や柄、ヘタをすれば鍔まで相応にセットであることが多いのだが―――音無も例に漏れない―――そうではないことが、気にかかった。
ただ、抜き身のままにしておく訳にもいかない。
霧夜はそれを自らの身体に隠す。するりと刃が自らの身体に潜りこみ、そして柄までもが納まった。
相応の異能者であれば自らの装備や妖器を身体に隠すなど造作もないが―――自らの体内の中で、泣く声がするのを、ただ聞いていた。
少し間をおいて朝食会場に行けば、そこでは舞雪が既に腰掛けていたが、霧夜を一瞥して少し驚いた顔だった。
「霧夜、何じゃその気配は」
「預かりものだ」
「…ものがものじゃ。本来霧夜が持っていても良いと思わぬでもないが…」
舞雪の複雑な顔である。一瞬で小紫の気配を看破したのであった。
「しかしそれだけの業物を二本も納めておいて、けろりとした顔じゃ、相当霧夜も器量がある」
「…褒め言葉なのか、それは」
「そう捉えておけ。複雑な気分なのじゃろうが」
舞雪も複雑な顔である。人斬りの道具、妖刀を収める器として立派という言葉は、何とも複雑な評価なのである。
「そういえばの」と舞雪はどこか碧の瞳を弾ませていた。
「良い話があるぞ、霧夜」
「何がだ?」
「氏子が使わぬ分のタダ券を手に入れての」
「タダ券?」
「これじゃ」
そこで舞雪がピラピラと振るのは、何枚ものチケット。霧夜はそれを見て唸った。
「スキー場か」
「ここから二里もない距離じゃ。それもかなりの枚数がある。どうせならと思うての」
「滑りに行くのか」
「何を他人事に言うておるか、霧夜も行くのじゃ」
口を尖らせての舞雪の言葉。霧夜は黙っている。―――連れていかれるのは決定事項らしい。この神様は、最早強引な手も使うと決めたらしい。
己の中で「(行く必要も義理もありませんよ?)」という声が聞こえた。小紫の拗ねたような声である。
だが霧夜は冷静だった。
「俺が機嫌を損ねるとは思ってないのか?」
「…無論、そのリスクは承知じゃ」
だが舞雪は言った。強い瞳だが、どこか切なげでもあり、悔しげでもあった。
「しかし、こんなことでもしなければ、最早なりふりも構っておれぬ。何もせなんでは、それこそ、ゆかりの時と同じじゃ。機を逸してしまう」
「…」
「霧夜とて、あの晩、ゆかりに拒絶されることも念頭にあったであろ?」
舞雪の言葉。霧夜は黙って用意された急須からほうじ茶を淹れて啜った。それは本当にその通りで―――リスクを取らなければ、得られないものも、またある。
だからこそ、あの晩、俺は行って。また朱鞠内緋那も追っかけてきたのだ。それを見たのか―――知ったのだろう。この神様も、ようやく腹をくくったという訳である。
「(また音無さんの好意に甘えて!!)」という小紫の憤慨の声が聞こえるが、それすらも可愛らしく聞こえる霧夜だった。
真の意図は違うのかも知れないが―――それでも、どこか俺を気遣ってくれてもいるのであろうのが、嬉しかった。
「俺もスキーの用意はない。レンタルはあるんだろうな?」
「無論あるでな。…さて、来たか」
舞雪の悪戯っぽい視線。入って来るのは恋バナも姦しい三人娘である。ゆかりはこの朝も朝食に強制連行らしい。
「おはよー舞雪ちゃん、朝お風呂入りに来たら良かったのに」
「もう朝の湯は浴びたが入れ違いであったようじゃの…面白い話でもあったのかや?」
「超面白い話があったよ」
ニヤニヤ笑う柚希である。「(何が面白いのか)」と小紫の拗ねる声を聞く霧夜である。ゆかりはいつもこうなのであろうかと霧夜は思う。
真冬もどこかスッキリした顔であった。
「でも良かったです、色々とゆかりさんともお話できて」
「…ちょっと疲れた…」
ゆかりのどこかどんよりした声。心配そうな気配を感じつつ、霧夜は隣に腰掛けようとした妹分を制した。
「預かりものをしている、ちょっとそこで渡そう」
「ん…」
ゆかりは頷く。真冬と柚希がクエスチョンマークを浮かべる脇で、霧夜とゆかりは衝立の影へ。ものの受け渡しは一瞬で済む。
ゆかりは小さな声で尋ねる。どこかに不安と疑問の浮かんだ声であることを霧夜は察した。
「…ねえ、お兄ちゃん…」
「何だ?」
「小紫様は、お兄ちゃんが持っていた方がいいと思う…?」
「否だ」
「そう…」
それは予想通りの言葉でもあったらしかった。だが聞いて安心したい言葉でもあったのだろう。ゆかりはいつものお澄まし顔だった。
霧夜は口に出さないが思うこともある。
昨日の昼の会話―――小紫とゆかりの間には、どうやらただならぬ関係性があるらしい。小紫は心底にゆかりを気に入って、姉のように気遣っているが、ゆかりはどこか一線を引いているようなのだ。
それを知るまでは何も言えたものではないと思っていた。
だが、今の段階で、ゆかりが小紫を手放す選択肢は、ありえないと断言できる霧夜もいた。
珍しく真冬も加わった朝食の席では、早速舞雪のチケットを見てはしゃぐ柚希がいた。
「真冬、久々じゃんこの無料チケット!まあ割引はきくとはいえ今はタダじゃないし…。早速行こっか!!」
「はしゃぐのもいいですけどいつ行くんですか…」
真冬の呆れ顔。「何の話?」とゆかりが首を突っ込めば、
「そこのスキー場の無料券!!ゆかり行けるでしょ!!?」
「…まあ、滑れるけど…」
「じゃあ行こう!!!」
そんな柚希の笑顔である。ゆかりはもう引きずられるがままであった。配膳にすっ飛んでいく柚希を見送りながら、霧夜は、
「…ゆかりは滑れるのか」
「…ここの子は皆滑れる。スキーの授業がある…」
そんな言葉。真冬も胸に手を当てて、
「そうなんです。誰も滑れますけど…。そういえば音無さんは?」
「俺も支障はない」
山スキーの経験がある。それもサバイバルの賜物であったが。手持ちの板こそないものの、十分に滑ることは出来た。
「小紫や緋那はどうなのかや?」
だがそこで舞雪の言葉である。真冬は首を傾げた。知らないらしい。ゆかりも
「小紫様は滑れないかも」
「じゃが今更置いてけぼりにするつもりもないぞ?」
だがどこか意地悪めいた舞雪の言葉である。ゆかりの中から妖気が反応したのが霧夜には分かった。小紫は喧嘩を買ったのである。ゆかりはマイペースだった。
真冬は、
「舞雪さんも滑れるんですよね?」
「…恐らくの」
「恐らく?」
だが目を逸らした舞雪である。霧夜は疑問であった―――ここで生きて長い土地神が、まさかスキーを会得していないなんてことがないだろう。何故目を逸らしたのか。
柚希がお膳を運んできながら、「そういえば」と霧夜を見た。
「小紫さんは?」
「先に帰ったぞ」
「ありゃ、残念」
「…そういう人…」
ゆかりの言葉はマイペースだが、実際霧夜の言葉は誤魔化しで、無論いるのである。柚希と真冬が知らないだけだ。
柚希は配膳を終えると、改めてチケットの枚数を数えながら、
「久遠寺さんも誘えそうだけど…」
「来るのかや?永遠子が?」
「声だけおかけしてみましょうか」
真冬の言葉である。霧夜は多分来ないだろうと見たてていた。舞雪もまた同じである。ゆかりは「そう言えば会ったことない」と洩らした。その通りであった。
霧夜は少し意外に思うが、思えばゆかりは挨拶周りもしていないし、会わないのも自然かと思われた。
ただ―――機会があれば会うだろう。
風が吹くように現れる人物だ。確実に、人ではないが…。
柚希が首をひねって、
「緋那ちゃん先生どう誘おう?」
「何とか算段がつくじゃろう。チケットの期日も近い。とりあえず日程を組まねばの?」
舞雪が思案を始める。何かしらを考えているらしい。皆が頂きますを唱和した後も、思案げである。朝食を頬張りながら、真冬がどこからか持ってきた卓上カレンダーを片手に真剣な顔であった。白い指先が忙しなくテーブルを叩いている。
「…一週間以内にはどうにかなるのではないかや?」
「急じゃないですか!?」
「どうにかなるであろ、善は急げじゃ」
ニヤリ、と笑む。ウインクする瞳が、神の光を宿していることが霧夜には分かった。―――その神の力で何かしらを調整しようというつもりらしい。
確かに、と霧夜は思う。
この舞雪が強引に何かをやろうと思うのなら、大抵のことは強引にどうにか出来るのである。それが神というものなのである。
たとえば、診療所を無理やり一日閉めたりだとか、その日に限っては患者0とか―――それが、出来る。
この白神荘のもろもろがやりくりがついたりとか、神社の人手とか、そういうのも、きっと―――叶うのである。
それが願いを叶えるもの。神の力。
普通ならば、届かぬ願い。だがそれを最後に、大盤振る舞いしようというのである。最後の冬だから―――最後の少女達の笑顔のために。
「任せておくがよい」
それは神の言葉だった。柚希も真冬もそれに疑問を挟まなかった。
神とは、そういうものであった。