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このような小話を老人がしていくうち、少女は少しずつ明るさを取り戻していった。中学三年時には芽夢ちゃんという親友のクラスメイトができ、前向きに学校に通うようになった。どうやら彼女は高い壁を乗り越えつつあった。
更に時が過ぎ、少女は市内の公立の女子高校に進学した。芽夢ちゃんも同じ高校に入った。一年時は別々のクラスになってしまったものの、二年時には再び同じクラスになった。
少女の高校進学後も老人との奇妙な交友は続いた。少女の成長の一助を自分が担えているのかも知れないと老人は考え、それが誇らしかった。小話で彼女を癒すことが老人自身の励みになり、少々おおげさに言えば生きがいになった。
時にはネガティブな話もした。
少女の高校二年時の晩秋のことだった。夕陽が市街の住宅の屋根の向こうに落ちつつある中、二人は近所の川の土手の上を散歩していた。彼らの左手に流れる大きな川の手前には広い河川敷があって、運動場が敷設されている。その手前の歩道を散歩やランニングをする人々が行き交い、運動場ではキャッチボールをする人たちやバドミントンで遊ぶ人たちがいた。
この日少女はどこかおかしかった。老人がいろいろ話題を振っても、気の無い返事を繰り返した。初めて会った時のような、能面のような無表情をしていた。
「学校で何かあった?」
河川敷の人々の様子を眺めながら、老人は少女に聞いた。「なんで?」ぶっきらぼうな返事が返ってきた。老人は更に聞いた。「元気が無いようだから」
「今週最悪なことがあって」
少女はようやく話の糸口を見せた。
「どういう?」
老人は右隣を歩く彼女を見て、聞いた。
「今――ていうかこないだまで、私芽夢ちゃんたちと四人の仲良しグループ作ってて」
「うん」
老人は少女の友人関係を彼女からよく聞いていたから、その友達グループのことは知っていた。
「その中のリーダー的な子に、金曜日に家に来ないかって誘われたの。私一人で来てって。断る理由無いから、放課後遊びに行った。そうしたら部屋で、誘われた」
「誘われた? 何に?」
「何って、エッチなこと」
老人はちょっと頭の中を整理して、
「その友達は女の子なんだよね?」
と聞いた。
「うん」
老人は重々しく、
「ふむ」
と相づちを打った。
「私別にそれほど嫌では無かったけど、その子のことは好きじゃないし、友達関係がややこしくなると思ったから途中で拒否した。そうしたらその子逆ギレして、『障害あんのに私と同じレベルにいられると思うなよ』って、言ってきたの」
「そりゃひどい」
「それで私帰って、しばらくして夜になってスマホ確認したら、その子も芽夢ちゃんももう一人の友達グループの子も、四人で作ったLINEグループを皆退出していた」
「……」
「多分リーダー格の子ともう一人の子はLINEの友だちもブロックしてきてると思う。メッセ送っても既読にならないから」
「芽夢ちゃんは?」
「芽夢ちゃんだけはメッセ返してくれた。おじさん、どうすればいいと思う? 私明日、学校行ける気しない。だっていつも四人でお昼食べてたんだよ? それがどうなるか分からないし、芽夢ちゃんだって、あの二人とご飯食べるか私と食べるか、板ばさみ状態でかわいそうだし」
「ふむ」
老人はしばらく考えこみ、歩みだけを続けた。やがて、
「そういう悪意のある人っていうのはどこにでもいるからね。相手にしない方がいい」
「無視するってこと?」
「そう。逃げちゃえばいい」
「向き合うんじゃなくて?」
「私にもそういう経験はたくさんあったから」
「おじさんにも?」
「もしかしたら君より多いかも知れない。精神障害者っていうのは、差別を受けたり偏見を持たれることが多いからね。そう言えば、何年か前にこんなことがあった。
私は退職してこっちに引っ越してきて以来、妻と同じ美容室にずっとかかっていた。ずっと一人の男性美容師さんに髪を切ってもらっていたんだ。美容室なんてガラでもないんだが、妻がその店が良いって紹介してくれてね。それで妻が亡くなってからしばらく経って、いつものようにその美容師さんに髪を切ってもらいに行った。そうしたらね」
老人はそこまで言うと黒縁眼鏡の奥の目をちょっとすぼめ、顔をしかめた。
「その美容師さんが私の病気について、根掘り葉掘り聞いてきたんだ。いや、前々から私はその人には精神病であることをオープンにしていた。しかしその人は気にする素振りを見せなかった。だからなぜあの時突然私の障害のことを聞く気になったのか、分からないが――とにかく、病名、どんな症状が出るのか、いつから病気になったのか、更には通院している病院名、障害認定のメリットと障害年金の額まで聞いてきた。
私は聞かれるままに答えていたが、だんだん彼に悪意があることが分かってきた。なんというか、病気であることに同情しているわけでなく差別的に思っている上、今風にいうと、そう、私の障害に『引いている』んだな。私は自分の病気について話しすぎたことと、その彼の悪意で気分が悪くなってきた。『なぜこんなに病気のことばかり聞いてくるんだろう?』そう思って何度も話題を変えようとしたが、結局彼が話を戻してしまう。軽い拷問を受けているようだった。
私が決定的に嫌になったのは、髪切りが終わって料金の支払いをする時になって、彼が言ったことだった。
『なんていう病院にかかっているんでしたっけ?』
そう彼が再び聞いてきたので、私はおつりをもらいながら、
『○○病院です』
と答えたら、
『ああ! あそこの! 知ってますよ、前を通ったことがあります。ああいうところって、なんていうか、普通の人もいますよね。キチガイだけじゃなしに』
と言ったんだ」
「ひどい」
「私はそれでうんざりしてしまった。こんなに客に嫌な思いをさせる話を続けて、きっとこの人は『この客はもう来店してこなくてもいいや』くらいのことを考えているんだろうとも感じた。ぐったりして、家に帰った」
「それからどうしたの?」
「どうもこうも、彼とはLINEでつながっていたのを即ブロックして、スマートフォンの連絡先を消し、その店への通話履歴も全て消去した。もう二度と店に行かないし、会う気もない」
少女は隣を歩く老人の、珍しく怒りをたたえた顔を見上げるようにして、
「なんていうか、その店にクレーム入れたり、じゃなかったらその人に連絡してたしなめたりとか、そうするべきだっておじさんなら言うかと思った」
と言った。老人は、
「そんなに私は強くない。そういう悪意を持った人間とは関わらなければいいと思っている。そうして世の中、自分に悪意を向けてくる人ばかりでもないことも分かっている。そういう人とだけ向き合っていけばいいんだ」
と続けた。少女はその言葉をじっと聞いていた。
「君も、芽夢ちゃんは連絡を返してくれたわけだろう? 芽夢ちゃんだけでも、友達はいいんじゃないかな? 友達なんて世界中に一人いれば、人生なんとかやっていけるものだよ」
「……でも、LINEブロックしてきた二人にまた嫌なこと言われたりしたら、どうすればいい? その、指のこととかで」
「一番は、何かを夢中でがんばることだよ」
「どういうこと?」
「障害があっても何か誇れることをしていれば、引け目なく悪意と渡り合っていける。私の場合、六十まで病気と闘いながら必死に働いてきたことに、自分なりに誇りを持っているからね。いくらその美容師さんが私を否定し蔑んでも、その誇りがあったから平気だった。自分は何も恥かしい人生を送っていない、ってね。
仕事や勉強じゃなくたっていい。趣味だっていい。まだ若いのだから、夢中になれることを見つけるといい。それに打ち込むことが、君を悪意から耐えられるようにしてくれる」
「……分かった」
陽はすっかり落ち、闇が東の空から膨らんできていた。二人は帰路に着くため、川の土手から街の道路に降りた。
次週老人が会いに行くと、少女は「芽夢ちゃんが絶交した二人とでなく私と昼ごはんを食べてくれた」とうれしそうに報告した。
少女はもう不登校にはならなかった。




