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1-5

 少女は外れた義指をベッドの端に置くと、途中までしかない左手小指を掲げて、老人に見せた。


「こう、だから……もうピアノを弾くのは無理だと思います」


 少女はそう呟いて、手のひらを表、裏と返して欠損した小指を確認するように眺めた。それから義指を右手で拾い、再びはめた。両手はまた下腹部の上に重ねて置かれた。


「そう、そうですか」


 滅多なことでは動じなくなっている老人も、さすがに言葉に詰まった。


 しばらく沈黙が部屋を包んだ。


「もう絶対無理なのかな、ピアノは? 九本の指で弾くっていうことはできないのかな」


 老人はおずおず聞いてみた。


「本格的な曲で完全に弾けるものは、あまりないという話です。私、それだったらもうピアノは弾きたくない。二度と」


少女が答えた。


「そうか、そうだよね」


 瞬間、少女はキッと怒りがこもったような瞳をして、


「ピアノどころじゃないんです」


と言った。


「ピアノなんかどうでもいい。こんな障害を持って、私、もう学校にも行けない」


 そう続けると、ただでさえぼさぼさしていた髪に右手をやってぐしゃぐしゃっとかきむしり、「……うああ」とうめいた。


 老人は少女が髪をかきむしるのを止めて落ち着くのを待って、優しく聞いた。


「なんで学校に行けないの?」


 少女は老人を睨みつけるようにして、


「当たり前でしょう? こんな指で、学校行くと皆ちらちら見てくるし。私本当はピアノの先生か幼稚園の先生になりたかったけど、こんな指じゃもうそれも無理だし、だったら将来無いし学校に行く意味なんてない」


ぺらぺらぺらっとまくしたてた。


「そうかな? そんなことはないよ」


 老人がゆったりと答えた。


「確かにピアノの先生は難しいかも知れないが、君には他に就ける職がいくらでもある。まだまだ大きな可能性が残されている」


「どうしてそんなことが言えるの?」


「それは、私も障害者だからだということだね」


 少女はじっと老人を見つめた。少し間を空けてから、


「嘘? どこが悪いの?」


「二十年以上前から、双極性障害という病気を負っている」


「ソウキョクセイ?」


「双極性障害。いわゆる躁鬱病。私の場合、精神障害三級に認定されている。以前は二級だった。それでも六十まで仕事を全うできた」


「なんの仕事?」


「いちおう大学の教授だった」


「どこの大学」


「――大学(と、老人は都内の有名私立大学の大学名を挙げた)」


 少女は瞼をしぱしぱ瞬かせて、黙った。驚いた表情を顔に浮かべていた。


 老人は続けた。


「今ではだいぶ病状も落ち着いてきたけれども、病気を発症した時は大変だった。眠れない。食べられない。一人でトイレにすら行けない。比喩的にでなく、本当に死ぬんじゃないかと思った」


「ヒユって?」


少女が質問した。


「ああ、難しかったかな? 例えるってことだよ」


「なんで病気になっちゃったの?」


「うん。私は日本文学の研究者で、太宰治を研究していた。若い頃は太宰治の研究者として第一人者になろうと本気で思っていた。新潟の大学にライバルと呼べる研究者がいてね、ずっと彼と論文の出来を競っていた。家庭も、後進の育成もそっちのけで、毎日二十四時間ずっと研究のことばかり考えていた。――気づいたら病気になっていて、しかもかなり重症だった。すぐ大学を休職させられた。


 妻が非常に献身的に自宅療養を手伝ってくれたのがその時だった。私のために欠かさず三食を作り、風呂に入れ、髭を剃り、必要であれば添い寝して、毎回トイレに付き添ってくれた。それが、彼女の生来の性格がそうさせたのだと思うが、とても明るくそれをこなすんだな。高校生だった息子と私と妻で毎晩一緒に食事をとるわけだが、もちろん私は全く元気が無くて黙っている、息子は反抗期を私の休職でさらにこじらせて不機嫌に黙っている、そんな二人をまるで気にせず、ああ今日のぬか漬けは良く漬かってるねえ、なんて言いながら幸せそうにぽりぽりキュウリを噛んでいたりするんだ。


 それまで私は妻を養ってきたつもりだった。それが完全に彼女に支えられて、人生観がまるで変わってしまった。太宰治の研究がなんだろう? それが誰かを一人でも救っただろうか? 少なくとも妻は病気の私を救いつつあった。私も一人でもいいから、誰かの助けになることをしていきたい。そう思った。


 妻のサポートもあって、二年間の休職で私はある程度回復し、復職した」


「フクショク?」


また少女が話の腰を折った。


「ああ、ごめん。復職、仕事に復帰すること。話を続けるね。復職してから私は働き方を変えた。研究一本ではなく、授業に力を入れるようになった。特に文学の講義ばかりでなく、生徒たちの心の救いになるような、心温まる小話を授業に必ず入れるよう工夫してみた。人間若い頃は皆不安と苦悩に苛まれているものだ。そういった若い学生たちにほんの少しでも生きる希望を与えられるような、そんな話を毎回した。そのために授業前には小話の準備もしっかりした。


 そのうち私の授業は多少人気が出て受講生が増えた。お話が面白かったです、感動しました、なんて学生から感想を述べられることも増えていった。自分でも人の役に立てるんだな、そう思うと授業をするのが仕事のやりがいになった。他にも担当するゼミの学生にはきちんと向き合って、彼らの研究や進路の相談には真摯に対応するようにした。そうしてみるとそれもやりがいのある仕事だった。


 病気をしながら働くのは楽なことじゃない。辛いことも数え切れないくらいあった。病状との兼ね合いで、どうしても週三回の勤務しかできなかった。しかし復職してから六十で早期退職するまでの間の方が、研究に没頭していた病前より、ある部分では充実していた。つまり、分かるかな?」


 老人はそこで話を切って、温かい目を少女に向けた。


「障害があるからって、絶対にもう働けないわけじゃない。幸せになれないわけじゃない。障害を負って、すぐ切り替えるのは確かに難しいかも知れない。しかし世の中、色んなケース、パターンの人生がある。君がこれから先絶対幸せになれないなんて、決まったわけじゃないんだよ」


「……」


 少女は黙っていた。その表情からは、彼女が話に納得してくれたのかどうか、老人には分からなかった。客観的に言えば、大学生とばかりコミュニケートしてきた老人の話には「苛まれて」とか「真摯に」とか「病前」とか、子供が理解するにはやや難しすぎる言葉がいくつも入っていた。だから話の全てを少女が理解できたとはとても思えなかったが、少女は老人の発する難解な言葉の意味をいちいち聞くことを途中から止めてしまっていた。


(伝わらなかったかな?)


 老人はそう思い、しかし今自分が言えることは全て言ったのだから、と思い直した。


「長話してしまって悪かったね。いや、すっかり長居してしまった。それでは私は失礼するよ。おばあさんによろしく伝えておいてください」


 そう言って椅子から立ち上がった。

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