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「ほら! だから少しは片付けないとって言っていたでしょう? ああもう、お客様が座るところがないじゃない」
老人の後ろからおばあさんがやってきて、そう言いながら部屋の中央の物をざっざっと端に寄せてスペースを作り出した。そして勉強机の椅子をそのスペースへ持って行き、ベッドに向けた。
「さ、こんなところで恐縮ですが、座ってください。私はお夕食の支度がございますので、これで。ごゆっくり」
おばあさんはそう言って老人を椅子に座らせると、ニッ、と笑って部屋を出て行ってしまった。
「……」
「……」
老人はベッドに座る少女と黙って向かい合った。
「……なんの用ですか?」
少女が恐ろしいまでの無表情でぽつんと言った。言葉を発して口を開けた際、上下の歯を歯列矯正しているのが見えた。頬のこけた白い顔に銀色の矯正器具の組み合わせが、どこかガイコツを連想させた。
「ええ」
老人はそう答え、またちょっと沈黙した。(この家の前で、これまでに一、二度見たことのある子だな)老人はそう思い出していた。齢をとって良いことの一つは、少々のことで動じなくなることだ。考えようによってはかなり気まずい状況だったが、老人は大して気にせず、自分がここへきた目的を達成しよう、と集中した。
「あなたがそのピアノで」
老人は後ろを振り向いて背後に位置していたピアノを指差し、正面に向き直って言葉を継いだ。
「いつもピアノを弾いていたのかな? このあいだまで」
「そうです」
「ああ……。その演奏への、感謝を言いたくておじゃましました」
「……」
少女は昆虫を見るような目をした。
「四年前、妻を亡くしました。手前味噌になるけれども、私たちは仲が良かった。とても良かったと言っていいと思う。家族は他にいない。いや息子が一人いるが、彼はアメリカに住んでいて、日本に戻る気は無いと言っている。だからたった一人の同居する家族である妻が死んだことは、私にとって非常に辛かった。
そんな時、この家の前を通りかかって、あなたの弾く『きらきら星』を聴いたんです。決して上手とは言えない演奏でしたが、自殺さえ思いつめていた私は、その一生懸命さになんだか救われた」
少女はあいづちひとつ打たなかった。しかしその大きな瞳にわずかに光が射したのを、老人は見逃さなかった。
「それから散歩がてらしょっちゅう君のピアノを聴きにくるようになりました。本当に辛い思いをしていた頃、それを聴くことだけが生きがいのような時期もありました。最近だって、週に二、三回はピアノを聴きに来て、元気をもらっていた。そのことを、一言ありがとうと伝えたかった」
「……」
少女は黙ったままだった。
「なぜ、ピアノを弾くのを辞めてしまったのかな? 私としてはせめてもう一度君の『きらきら星』を聴きたかった、……最近まで『きらきら星変奏曲』に挑戦していたでしょう? せめてあれの完成まで弾いていて欲しかった。もうピアノを再開することはないのかな?」
少女は老人に向けていた視線を落とした。落とした視線の先には下腹部に重ねて載せてある、細く白い両手があった。おもむろにその両手を胸の前まで上げると、左手小指を右手人差し指と親指でつまみ、引っ張った。
小指が第一関節と第二関節の間の部分から、すぽっと分離した。




