3 「月曜日に学校に行く勇気を」
それから半年が経過した。秋が終わり寒い冬も過ぎて春が来て、少女は高校三年生になった。少女にとってそれは短くない期間だが、老人にとっては瞬きする間のような、あっというまの時間だった。しかし年老いて常に同じような日々を送っているように見える老人にも、変化というものはある。
その日曜日の夕方も、老人はいつものように少女の家に向かった。もうすぐ八十歳を迎える彼のその足どりは、だいぶゆっくりしたものになっていた。
「おじさん!」
家の前に行くと、少女が窓から身を乗り出して快活に声をかけてきた。
少女の部屋に上がる。中学生のころからあまり変わらない、白を基調としたこざっぱりした部屋。以前部屋の左手に置いてあったぬいぐるみが無くなったことと、本棚のマンガのタイトルが変わったことが、見てとれる変化だった。掃除がいきとどいていて、若い女性の部屋らしい、良い匂いがした。
老人は部屋の中央に置かれた椅子に腰掛けた。これもいつも通りのことだ。少女はベッドに腰掛けて、少しうれしそうに老人が話し出すのを待っていた。
「今日はお別れを言いにきました」
老人はのっけからそう言った。少女のうれしそうな表情が顔から消え、強ばった。
「前々から息子に言われていたんだが、来週から老人ホームに入ることになった。住んでいる家と土地は売却する手続きを進めている。息子は孤独死でもされたら困るなんて言うし、私自身病気があるなか一人で家事をこなして毎日を過ごすのが、最近きつくなってきていた。施設はここから少し離れた場所にあるから、もうここに来ることはできないと思う」
「……」
少女は不機嫌そうに黙り込んだ。薄い皮膚の張った白い額にすっと一本青い血管が浮いていた。
「心残りなのは君のことだ」
老人は優しい視線を少女に送った。少女は大きな瞳でそれを見返した。
「できれば高校を卒業して次の進路に進むまで見届けたかった。それは残念だが――多分君は大丈夫なのだろうとも思う。君は強い。いや、強くなった。きっとこの先の人生も乗り越えていけるだろう」
少女はふるふる首を振った。そして目を伏せた。
「ところで、ずっと聞きたかったことがひとつあるんだが」
「なに?」
「うん」
老人は少し間を置いた。それから言葉を継いだ。
「君のその小指。ずっと前に、なぜ怪我をしてしまったのか事情を聞こうとしたら、君は『お父さんが』と言って黙ってしまったね? 実際は、何が原因だったのかな? もしかして虐待とかなら――」
「違う違う!」
少女はそう否定し、ちょっとおかしそうに微笑んだ。
「違うよ。事故だったの」
「事故?」
「うん。そこに窓が」
と言って部屋の左手の窓を指差した。いつも少女が顔を出して老人に部屋に上がるよう、声を掛ける時に使う窓だ。
「あるでしょ? 中一の冬の夜、私お父さんと喧嘩して、この部屋に閉じこもってその窓から星を見ていたの」
老人も窓を見た。見るからに古い窓で、薄紫のカーテンがかけてある。
「そうしていたらお父さんが『まだ話終わってないぞ!』って部屋に乗り込んできた。私、それを無視して窓枠に手を置いて星を眺めたままでいたら、お父さんが『暖房つけたまま窓を全開にしてるんじゃない! 電気の無駄遣いだ』って怒って、力いっぱい窓を閉めたの。
私はサッと窓から身を引いたんだけど、左手の小指だけ窓枠内に残っちゃって、お父さんが閉めた窓に強く挟まれちゃった。即切断までは行かなかったんだけど、挟まったのが小指の細い部分だったからそこから先が壊死して。結局切断することになった。ほら、古い窓でしょう? こういう窓だと安全性が低いものがあって、窓枠に指を挟むと危ないんだって」
少女はそこまで話すと、義指のついている左手小指をさすった。
「そうだったんだね。今はお父さんとは仲良くしているんだね?」
「うん。まあ、普通かな。中学の時は指のことも引きずってたし、反抗期だったから微妙だったけど。今は普通。おじさん、それをずっと心配してたの?」
少女は笑った。いやあそりゃ心配するだろう、と言って老人も笑った。心配事が全て片付いて、心から安心した気分だった。
「あの」
微笑みながら少女が呟いた。
「うん?」
「最後になにか、お話してくれない?」
「最後に?」
「うん」
「いいよ。じゃあ、『生きていくと意外な出会いがある』っていう話だ」
「面白そう」
「どうかな」
老人は明るく答えて、語り出しをどうしたものか決めるために少し目をつむった。




