1 「私も障害者だからだということだね」
「死のうと思っていた。」
尊敬し続けてきた人が、このあまりに有名な一文からその小説をはじめた意味を、永い間考え続けて、結局自分もこの一文に取り込まれていくのだなと、歩きながら思った。
妻の四十九日の法要が終わり、親戚一同がお斎を済まして納骨に立会い皆帰った後で、いたたまれなくなった老人はがらんとした家を出た。
コロナ禍が始まる前、二〇一九年の春の夕暮れだった。老人は夕陽に焼けた郊外の住宅街を一人歩いていた。歩きながら、妻のことを次々思い出していた。
出会った頃の頬に浮かんでいた弾けるような笑顔、老人が病んだ時全く明るさを失わずに夫の面倒を看、冗談を言いながらトイレまで毎回付き添ってくれたこと、「なんとか地元の川沿いの桜を今年も一緒に見るまでは」という老人の願いも虚しく、結局病院の駐車場に植わっていた数本の桜を車椅子に乗って見ただけで終わってしまった時の、痩せ細った彼女の微笑。思い出はとめどなく心内に溢れた。
(私ももうすぐ、そちらへ向かうから)
家の物置には練炭と七輪が買ってしまわれてあった。
「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。……」
老人はまたその小説を思い出し、冒頭の一節を頭の中でくり返し唱えはじめた。無意識に、人気の無い通りを左に曲がった。
ド ド ソ ソ ラ ラ ソ……
その時だった。老人の歩く路地の左頭上から、たどたどしいピアノの音が落ちてきた。老人は足を止め、左を振り見た。
ファ ファ ミ ミ レ レ ド……
路地脇にへばりつくようにして建っている、古びたトタン造りの一軒家の二階の部屋から、そのピアノの音は聴こえてくる。
(きらきら星)
老人は瞬時に曲名を思い出し、耳をすませた。曲には単音の主旋律に簡単な分散和音の伴奏が入っていた。ピアノの奏者はそれをゆっくり、時々つっかえながらも懸命に弾きこなしていく。
(そういえば、ここはどこだ?)
老人はふと我に返った。辺りを見回すと、どうやら老人がいつも散歩をしている通りから一本折れた東西に走る細路地で、これまであまり自分が通った覚えのない場所だった。路地の北側には誰のものとも知れない砂利敷きの空き地が広がり、南側にはぱっとしない一軒家が並んでいる。夕焼けがその路地の景色をオレンジ色に染めていた。妻や、小説のことで頭がいっぱいになって、いつの間にか普段歩かない路地に入り込んでしまっていたらしい。――そこで偶然、このピアノの音に出会ったわけだ。
あっという間に「きらきら星」は終わった。すると少し間があって、すぐ、もう一度同じ曲が繰り返されはじめた。
……ソ ソ ファ ファ ミ ミ レ……
結局、その時「きらきら星」は四回続けて演奏され、老人はなんとなしにそれを全て立ち止まって聴いてしまったのである。
(生きようか)
たどたどしいその演奏を聴きながら、老人はそう思い至った。なぜだったのかは自分でもよく分からない。ただ、未熟ながら必死に演奏するそのピアノ奏者のひたむきさにどこか胸を打たれ、本当にふっと、生きてもいいような気がしたのである。
(明日、またここを歩いた時、もしこの「きらきら星」を再び聴くことができたら)
老人は生きることにそう条件をつけた。
太宰治「葉」は次のように続き、冒頭の一節が結ばれる。
「(中略)これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」
老人はピアノの音の途絶えた一軒家の二階の部屋の窓を一度見上げると、自宅へ向かって歩き出した。




