episode93 情報エントロピー
さて、オベリスクのある広場からホテルへと帰って来た俺達は食事の時間となった為、レストランへと足を運び、ディナーを堪能した。
しかしながら、先のキスのこともあり――
「お、おいしいですね!」
「そうだな!」
「こ、この魚料理も絶品よ!」
「そうか! 頂こうかな!」
アイリスもクラリスも妙によそよそしく、俺に至っては無理やりテンションを上げて、botのような受け答えしかできなかった。
――と言うわけで、妙にギクシャクした食事を終えて、部屋に帰ってきた俺は部屋に備えられている個室露天風呂に浸かり、空を見上げていた。
「……」
なんか今日は終始押されっぱなしだったな。
恋というのはこんなにエネルギーを使うのかと実感した。
まぁ、既に告白されていて、結構相手からのボディタッチも多いとか、特殊なケースだとは思うけど。
てかそんだけされて何にも思わなかった自分の鈍さよ。
世に出回っているラブコメ主人公の皆さん、鈍さを馬鹿にしてすいません。
「はぁ……切り替えよ」
このままじゃ心臓が保たん。
平常心を保っていかないと。
そう思い、俺は顔に湯をバシャリとかけた。
◆
レオンが個室露天風呂に入っている時間と同時刻。
ゼーゲブレヒト姉妹も大浴場の方で露天風呂を堪能していた。
二人の顔はぽぉっと呆けていて、温泉の影響なのか、はたまた別の要因なのか、頬を赤らめていた。
「……姉様、今日のはちょっと攻めすぎた感があったわね」
「言わないでクラリス……」
顔を覆って返答するアイリスを見て、その手の隙間から見える顔の赤さに、クラリスは自身もそれくらい赤くなっているんだろうなと思っていた。
おそらく、誰かが二人の顔を見たら、のぼせているのではないかと疑うレベルには真っ赤になっているだろうと二人は自覚していた。
「お昼に大浴場に来るのだってすごく勇気がいったのに、その後にあんな……うぅ……」
「言わないで! 思い出しちゃうから!!」
また更に顔を赤くするクラリスは、オベリスクのある広場での出来事を思い返していた。
まさか自分があんなことをしてしまうとは思っても見なかったクラリスは感じていた。
その時、ふと思い出したことがあった。
それはキスをしてしまった直後のことである。
「レオンさんまで緊張してたし……事故とはいえ、やり過ぎたかなぁ……」
「ねぇ、姉様? ちょっと思ったんだけど」
「えっ? 何? クラリス?」
「レ、レオンにキスしちゃった後さ……」
「う、うん……」
二人とも、その時のことを思い出してしまい口が吃る。
しかし、クラリスは思い出したことをアイリスに伝える為、口を開く。
「レオンって私達がスキンシップとってもあまりリアクションしないじゃない? なんというか……自然体って感じで」
「そうね……それがなんだか癪だったけど、今日みたいな反応をされるとそれはそれで――」
アイリスはそこまで言って、何故自身がこんなに動揺しているのか。
その理由を理解した。
その理由は――
「やっぱり!! そうよね!? レオン、照れてたわよね!?」
そう、レオンが照れていたからだ。
先程クラリスが言ったように、ある時からレオンに対してボディタッチの数を増やし、挙句には胸まで押しつけてスキンシップをとっていた。
しかしその全てにレオンはノーリアクションをとっていた。
いや、困った様子を見せてはいたものの、その程度だったのだ。
しかし、今日は違った。
混浴した時も、頬をくっつけた時も、事故ではあるがキスした後も、全て……照れていたのだ。
添い寝をした時ですらも、何もリアクションをしなかったレオンが、である。
その事実に気づいた二人は、先程までの羞恥から脱出し、今度は歓喜の表情を浮かべる。
「こ、これは……もしかしてもしかしなくても……前進したってことよね!?」
「そうよ!! やっとレオンの意識をこっちに持ってくることができたってことよ!!」
「や、やった!」
「やったー!!」
二人は宇宙ステーションで実験に成功した時とまるで同じように喜びを全身で表現していた。
達成感を味わったところでふと、もう一つのことをアイリスは思い出した。
「そういえば……オベリスクに何か数式が書いてあったわね」
「あっ、そういえば……」
キス事件のおかげで失念していた事柄を思い出す。
「確か……S=-tr(ρ log ρ)だったわね」
「見たことないけど……なんの数式?」
「私もわからない……」
先程までのテンションとは裏腹に、空を見上げながら数式を思い浮かべる。
しかし――
「「なんだったんだろう?」」
――考えても、答えは出てこなかった。
◆
翌日、一晩寝たらスッキリした。
昨日は好きな人と一緒で、しかも旅行ってことで二重にテンションが上がっていたのだろう。
おかげでいろいろと狼狽える事態になったけど、今は落ち着いてきた。
「あっ、そういえばレオンさん」
「ん? なんだ?」
朝食の席で談笑している時にアイリスが何かを思い出したようで、俺に問いかけてきた。
「昨日……オ、オベリスクのところで何か言いかけてたじゃないですか。なんなんですか? あの数式は」
オベリスクの広場でのことを思い出してしまったのだろう。
アイリスは少し吃りながら質問してきた。
……俺も思い出すから顔を赤らめて言うのやめて?
クラリスもなんとも思っていないように食事してるけど耳赤くなってるのバレバレだからな!!
まぁ、とにかく俺も平静を装って質問に答えよう。
「あれな……エントロピーの数式なんだよ」
「えっ?」
「エントロピー?」
エントロピーとは熱力学と統計力学で使われる用語だ。
「エントロピーって確か……乱雑さを示す用語だったと思いますけど……それが?」
「秩序から無秩序へ向かう……とか難しいこと言ってるあれね」
アイリスとクラリスが言っているのは統計力学的なエントロピーのことだ。
学問によって、その意味が異なってくるのだが、今回はそのどちらの意味でもない。
「あそこに書かれていたのはな……情報エントロピーの数式なんだよ」
「情報……」
「エントロピー……」
S=-tr(ρ log ρ)
フォンノイマンエントロピーと言われる情報エントロピーの数式だ。
そもそも情報エントロピーっていうのは何かというと、ある事象が発生した場合、それがどれだけ起こりにくいかを示す尺度のことだ。
「情報って言っても、「他国で宇宙船を建造中だ」とかいうような情報じゃなくて、この場合の情報っていうのは確率の低さを見ているんだよ。例えば風が吹いたとして、それがただの風だったら、それに含まれる情報はたいしたことはない」
「まぁ、ただの風だしね」
「でも、風が吹いて、且つそれが音楽を奏でる場合、それが起きる確率は非常に低い。その分、その事象は多くの情報が含まれているっていう考え方だ」
「う、う〜ん?」
「よ、よくわかりません……」
だよな。俺も言っててよくわからんくなった。
なんといえばわかりやすいか……
「そうだな……ルーレットを思い浮かべて欲しい。それには40個のマスがあるとしよう。俺がそのルーレットを回して、その出た目を二人に当ててもらうゲームをするとして、これからいう二つの情報のうち、どっちが欲しいか言って欲しい」
「うん」
「わかりました」
「A、1から20までのどれかが出た。B、1から10までのどれかが出た。さぁ、どっちの情報が欲しい?」
「そりゃ、断然Bでしょ」
「そうですね。1から10までのどれかの方が当てやすいですし」
「でも、それって確率が高い方を選んでない?」
「えぇ、そう思います」
直感的に見てもBの情報の方が有益に見えるだろう。
じゃあ、これを情報量としてみればどうなるのか?
さっき、二人には確率が低い方が情報量は多いと伝えた。
それに反しているように思うが、それを二人に説明していく。
「確かにな。でも、これは当てるゲームとして見ているから確率の高い方を取ったように思うけど、出る目がどれかって話になると?」
「えっと……Aは20/40だから1/2。Bは10/40だから1/4……あぁ!?」
「確率が低い方が情報量が多いってそういうことですか!?」
そう、視点を変えて見ると出た目を当てるのではなく出る目を当てるってなった場合、Aの場合は数字に起こせば50%
Bの場合は25%になる為、情報量はBの方が多いってことになる。
「じゃあ、ここにCの情報、出た目は偶数だって言われたならどうなる?」
「2、4、6、8、10の五つに絞られるじゃない」
「そうですね。……あれ? これって情報量が増えたってことでいいんですか? 確率が上がったような気がしますけど?」
「そうだな。これも確率が上がったように見えるけど、また視点を変えてごらん?」
うんうんと考え始める二人。
するとアイリスが何かを閃いたように口を開いた。
「あっ!? BとCが同時に起こる確率とBだけが起きる確率ってことですか!?」
「その通り」
さっきと同じで40のマス目から偶数の目が出る確率は20/40で1/2
これにBの確率1/4をかけると1/8になる。
パーセントで言えば12.5%だ。
だから情報量が増えたと表現できる。
「まぁ、他にも色々とあるんだけど、こういうのを情報理論っていう訳だ」
「な、なるほど……情報理論」
アイリスは新しい知識を頭に入れようとしてくれているが、クラリスはもう話が終わったって事で食事を再開してパンをちぎって口に入れていた。
「……それで? その情報理論の数式がオベリスクに刻まれていたからなんなのよ?」
パンを飲み込み、クラリスが話を元に戻してきた。
そうだな、その話だった。
「俺が立てた魔法理論である魔力精神感応性万能物質説では、魔力を通じてエクセルへと繋がり、エクセルによって魔法に変換されるって話をしたよな?」
「そうだけど……頑なにアルファード理論って言わないわね。あんた」
小っ恥ずかしくて言えるか、そんなん。
コホンと咳払いをして話を進める。
「あれを書いてて思ってたんだよ。エクセルの記憶ってなんなんだってな」
「何って……なんだろ?」
クラリスが首を傾げていると、アイリスも俺と同じ疑問を持っていたようだった。
「実は、私も気になっていました。エクセルの記憶に魔力を通じてアクセスしているとしたら、記憶媒体はどこにあるんだろうって」
「そもそも大昔はカラート様しか使えなかったんだろ? じゃあ、なんで今は皆使えているんだよって話だ」
「……ねぇ、情報理論はどこ行ったの?」
「ここから関係してくるよ」
疑問を上げたところで本題に入る。
「もし、人の意思や記憶なんかも一つの量として扱うことができるのなら……記憶や意思などの情報を量子化させて何処かに保存することだってできるかもしれない」
「それは……そうね」
「でも……どうやってそれを成すのですか?」
「あるじゃないか。それが出来うる存在が」
「……魔力ですか?」
そう、魔力だ。
魔力が本当に意思や思いを伝えることができる物質であるなら、それを保管することだってできるかもしれない。
「でも人の意思や記憶を留めるなんて、いくら魔力でもそこまで万能じゃないだろう。でも……俺が月に行く前に言った魔力に関する仮説、覚えているか?」
――魔力は完全体じゃないかもしれない。
俺は以前そう言った。
そして、こうも言った。
白魔力と黒魔力を仲介する未知の魔力があるんじゃないかと。
「未知の魔力と混ざって完全体になる魔力は三次元空間での維持が難しいんじゃなく、完全体になった魔力を使ってプランクブレーンに意思を保存しているんだとしたら、この空間にある魔力は使用されなかった残りカスってことだな」
「意思を……固定……」
「一体……誰がそんなことを?」
「いるじゃないか。この世界の人々に知恵を与え、生活の全てを捧げて神にまでなった人物が……」
俺の言葉を聞いて、二人は驚愕で言葉を失っていた。
そう。この世界の魔法はエクセルが物質変換しているのではなく――
「カラート様……彼は自身の魂の情報エントロピーを魔力に書き込み、エクセルと融合し、この星に住む人類の魔法サーバーになったんだ」
人間が肉体を捨てて精神体へと進化した……
実際にカラート様が高次元存在となったのかどうかはわからないが、それに近い存在になった可能性は高い。
俺は、晩年に建てたというあのオベリスクが気になって仕方がなかった。
次は18時に投稿します。




