執務四:役者-2
「僕は紳士じゃない」
ワイアット卿は唐突な事を言った。その格好で言う言葉ではないと思ったが、キーツ伯爵にそういった事を茶化すつもりはないらしく、黙って聞いていた。
「僕とレイチェルとはずっと一緒だった。幼い頃からずっと、一緒に女の子の遊びをしたり、この屋敷中を駆け回ったり、巫山戯合って笑い合った。まるで……そう、まるで姉弟の様に」
思い返す様に目を閉じ、一息吐いた。
「今もそうだ。ワイアット家の家督を継いでもなお、こんな格好をさせられている。そして僕は、レイチェルと遊んで、レイチェルに構われて、嬉しいとさえ思っていた。喜びさえ感じていたんだ。それにしたって、今も昔と変わっていない」
彼らしくない告白に、私は息を呑んだ。
「たった一つ、今と昔で違う点がある。僕が知らなかった事だ。何故一緒にいられるか、何故僕らは許婚なのか、許婚とは何なのか……。何もかも知らず、僕は彼女を姉の様に慕い続けてきた。だけど、今となっては……」
奥歯を噛み締める。キーツ伯爵はワイアット卿の言葉が途切れたのを受けて、口を開いた。
「つまり、姉の様な存在のレイチェルを妻にする事は出来ないって?」
「……いや、そうじゃない。これは『僕の問題』なんだ」
ワイアット卿は頭を振った。
「今となっては、僕らは姉弟の様には居られない。僕らは婚約者なんだ。なのに……なのに僕は、彼女との関係に固執している。姉弟のままで居たいと、そう思ってしまう。レイチェルを妻として迎えられないんじゃない。僕が、彼女の夫になるのを拒んでいる。だから僕は……紳士じゃない。紳士でない僕が、貴男の妹君を貰い受ける事は出来ない」
端から見ていても、アデルとレイチェルとは、まるで本当の姉弟の様だった。愛しいと思う分だけ、姉は弟で遊び、弟は姉と遊べる事を喜んでいた。ワイアット卿の言う通り、婚約者同士の姿とは、言えないのかも知れない。幼い頃から続いていたそれを自覚し、自白出来るだけ、彼は大人になっていたのだろう。
「成る程ね」
「お解り頂きたい、キーツ卿。決して貴男との関係に終止符を打ちたい訳では無いのです」
「それは解っているよ、アデル」
キーツ卿はテーブルの上で手を組んだ。
「ぼくは君が生まれた頃から知っているし、年の差こそあれ、掛け替えのない友人だと思っている。この関係は一生変わらないし、変えるつもりも無い。勿論ビジネスの上でも、それは同じ事だ。そもそも、ぼくは政略結婚なんて今時有り得ないと考えているしね。家族をビジネスの道具にしちゃいけない。君とレイチェルを許婚にしたのは、ぼくの父と君の父君で勝手にやった事だ。ぼくはそんな事を気にしたりしない。結婚をするかしないかは、君の言う通り、君の問題だね。しかし同時に、妹の問題でもある。だから……」
そう言い掛けて、キーツ卿は笑った。笑顔を見たのは初めてだ。頬に少しばかり皺が寄る。レイチェル嬢とは年の離れた兄なのかも知れない。
「だから、レイチェルの兄としてお願いしたい。君は今すぐ妹を追い掛けてやって欲しい。そして今ぼくに話したのと同じ事を、妹に聞かせてやってくれないか。言った通り、それは君らの問題だ。ぼくが口を出す事じゃないよ。だからそんな話をぼくに聞かせてくれなくても良かった。
ああ見えて、あれは本気だよ。君を弟の様に扱ってはいても、君の家に嫁ぐ事を夢に見ているんだ。兄としては、妹の気持ちも汲んでやって欲しい。それに君は『一旦』と言った。君に妹を貰ってくれるつもりが無くなった訳では無いんだろう? だったら、そう言ってやってくれ。妹はそれほど聞き分けの悪い子じゃない。君なりの誠意は、きっと伝わるさ。
さ、行ってくれ。今すぐに。でないと思い余って何をしでかすか解らないぞ。後始末をするぼくの身にもなってくれ」
片手をひらひらと振る。ワイアット卿はすっくと立ち上がり、無言のまま立ち去った。スカートの裾を持ち上げ、サイズの合わない靴で音を鳴らしながら、走って行った。
ふう、とため息を吐いて、キーツ卿は椅子にもたれた。
「……まったく子供なんだから。君の主には困ったものだね、チェンバレン君」
チェンバレン氏は深々と頭を垂れた。
「主の無礼を代わってお詫び致します」
「何。彼は真面目なだけさ。見た目に似合わず、ね。女装の事じゃないよ?」
「承知して御座います」
フフ、とキーツ卿は含み笑いをする。
「妹には勿体ないくらいの奴だよ」
「……そうで御座いましょうか?」
チェンバレン氏は言葉を返す。
「わたしがお叱りした所為で旦那様は御気を落として御座いましたが、レイチェル様はそれに御気付きの御様子でした。それ故にあの様な無邪気な振る舞いをなさっていたのですね。近頃は旦那様の御訪問も減り、落ち込んでいらしたのはレイチェル様も同じ……いえ、レイチェル様の方がその度合いは勝っていた事で御座いましょう。気丈な御嬢様です」
キーツ卿は鼻を鳴らし、
「兄より知った気になるなよ、チェンバレン君。ま、その通りなんだけどね」
そう言って詰まらなさそうに肩をすくめた。
「出来過ぎていたのは執事の方だったか」
「何を仰います。わたしなど至らぬ事ばかりの若輩者。まだまだ未熟なヒヨッ子で御座います。何せ、あの旦那様のセバスチャンで御座いますから」
そう言って、笑う。
「主人と違って、君は随分と役者だね。しっかり役に成り切っているよ」
不意に、思わせぶりな事を言った。チェンバレン氏は眉毛をぴくりと痙攣させた。
「……何の事で御座いましょう?」
「忘れるな。ぼくは君の事も、生まれた時から良く知っている」
そう言いながら、キーツ伯爵は席を立った。背中を見せつつ、また手をひらひらと振る。
「君が育てた彼がどうなるか、期待しているよ」
そう言い残し、出て行ってしまった。
何だろう。この、重い空気は。そして――。
「おや? まだ居たんですか? 昼食会は終わりましたよ。さ、後片付けの御手伝いをして下さい」
私の、空気の様な扱いは。