執務十六:執事と少年-7
セバスチャンは、彼の部屋で床に臥せっていた。無理もない。あんな部屋で一ヶ月も過ごしていれば、身体を壊す。
「うん、風邪ですわ。それと栄養失調気味ですわな」
聴診器を外した医者が軽い調子で言う。
「じっくり休ませて、無理矢理にでも何か食べさせたら、すぐ良くなるわな」
「なら良かった」
ワイアット卿は胸を撫で下ろした。
「ま、そういう事なんで、いつも通り送ってくださいな」
「じゃあ、俺が」
ジョンが進んで名乗り出た。彼はこの所良く働く。セバスチャンに恩義を感じているのか、それとも懲りずに私の気を引こうとしているのかは定かでないが、どちらにせよ良い変化だ。
医者が帰った後、セバスチャンの見舞いに訪れる者があった。
「やあやあ、セバスチャン。随分痩せたね。これは見る影もないや」
ワイアット卿の義兄であるキーツ卿と、
「おいおい。バトラーが風邪だなんて、不摂生甚だしいな」
愚か者――もとい、アディントンだ。
「トーマス・アディントン。僕の執事を侮辱しに来たのか? どうしてこの男と一緒なんだ、レイモンド」
「いやあ、偶然ばったり……っていうのは嘘なんだけど、彼を通してマダム・ミラーと連絡を取っているからね。一応声を掛けてみたらこの通りさ」
「ワイアット家の行く末を案じているのですよ、ワイアット伯爵。元スチュワードとして」
詰まる所、ミラー夫人の代理人という所だろう。
アディントンは散々セバスチャンを笑った後ですぐに帰り、キーツ卿もレイチェルといくらか話をしてから帰って行った。
ワイアット卿は夜を徹してセバスチャンの看護に当たった。
「お前がいない間に手紙が届いたんだ。読むぞ」
二通の手紙のうち、一通を広げた。
「『拝啓。アデル・ワイアット伯爵様。わたくしの事などお忘れの事と存じ、失礼を承知でお手紙を書かせて頂いて御座います。かつてお世話になりました、ウンベルト・グラハムで御座います。以前は大変なご無礼を働きまして、いくら謝罪致しましても、償い切れぬものと存じます。さて、以前貴方様から頂きました五十万ポンドのお陰で、借金返済のめども付き、当方の事業も軌道に乗りましたので、報告をさせて頂きます。漸くそちら様とのお約束を実行に移せる事と相成りました……云々』……世の中どうなるか解らないよな」
ハハッ、と快活に笑う。そしてもう一通を取り出し、こちらも読み上げた。
「こっちは物凄く簡単だ。『結婚致しました。貴方様の御恩は一生忘れません。アリア・ボーフォート』。良かったよな、本当に。人間幸せになるチャンスはあるもんだ」
しみじみと良いながら、手紙をたたむ。
私は、ドアの隙間からじっとその様子を見守っていた。二度と覗きをする事はあるまいと思っていたが、癖になっている様だ。
不意に、耳の中にそよ風が吹き込んだ。
「ヒャッ……!」
思わず小さな悲鳴を上げると、耳元で、しーッ、と歯の隙間から息を漏らす音がした。見れば、レイチェルが口に人差し指を立てている。
「お、奥様……!!」
「レイチェルで良いって、クララ。それより、何してるの?」
ひそひそ声で私に尋ねる。私も声を潜めて聞き返した。
「いえ、別に……それより、レイチェル様こそ、何を? もうお休みかと……」
「気になったから見に来たの。貴女もそんなところかしら?」
悪戯っぽく笑う。まあ、そうだ。
こうして二人仲良くセバスチャンの寝室を覗くハメになった。
はあ、と深い嘆息を漏らし、ワイアット卿はベッドに伏せる。
「僕は寂しいよ、セバスチャン。早く元気になってくれなくちゃ困る」
独り言の様に言う。頭上でレイチェルが、うんうん、と頷いた。
「僕はもう独りじゃない。けど、お前はこれまでもこれからも特別なんだから」
ずるずると這う様に、セバスチャンに近づき、ついには抱き付く様な格好で、被さった。
「早く起きてくれ、セバスチャン。でないとダメになりそうだ……」
ワイアット卿は、ゆっくりと顔と顔とを近づけていき、唇を重ね合わせた。
「まっ……!」
レイチェルが口を覆う。彼女には見せるべきではない光景だった。今更後悔しても遅いが。
「結局僕は変わっていないよ、セバスチャン。お前に甘えたい。笑えよ」
自嘲的な笑みを浮かべる。すると、驚いた事にセバスチャンも笑った。
「……フフフ、相変わらずで御座いますか、御坊ちゃん」
「ゲッ! セバスチャン、起きていたのか」
驚いて飛び退くと、セバスチャンはむくりと起き上がり、自らの首の辺りを揉んだ。
「ええ、まあ……御坊ちゃんが御一人でブツブツと五月蠅いので、目が覚めてしまいましたよ」
「こ……!」
ワイアット卿は肩を怒らせたが、正反対にセバスチャンに飛び付いた。
「こいつめ! 心配掛けさせて、平気な顔してるんじゃない!!」
「ハハハ。御坊ちゃんの泣き顔を薄目に見て楽しんでいましたよ」
「泣いてなんかないぞッ」
漸く、ワイアット卿とセバスチャンの再会だった。以前と同じような二人の姿を見て、何だか込み上げてくるものがある。
暫く抱き合っていた二人だが、自然に身体が離れる。そして互いにいくらか見詰め合った後、どちらからとも無く、唇を触れ合わせた。熱く、激しい口付け。舌を絡ませ合い、身体をまさぐり合い、確かめる様に、求め合った。
ぎょっとした。流石に、これはマズイ。妻が見ている前で、こんな――。
「な、何て……」
背中越しに、レイチェルの身体がわなわなと震えるのが解る。逃げ出したくなった。
ところが、
「……何て素敵なの! 二人とも!!」
レイチェルが部屋に飛び込み、叫んだ。
「え?!」
「ああ!」
「う!!」
私とセバスチャンとワイアット卿が、一様にして驚愕の声を上げた。私は身を屈めたまま、二人は抱き合ったまま、身体が凍る。
「嗚呼、性別を超えた禁断の愛……嗚呼、誰にも打ち明けられぬからこそ、燃え上がる愛……何て甘美なの……」
胸の前で手をぎゅっと握るレイチェル。ワイアット卿の頬がひくりと痙攣した。
「あ、あの、レイチェルさん……?」
「良いのよ、アデル! 気にしないで! とっても素敵だわ!! 貴男たち二人はとっても素敵!!」
部屋の中央でくるりと回る。彼女周りにお花畑が見える様だ。レイチェルは、私の遥か高みに居る。
「もう、あたしにも教えてくれれば良かったのにッ」
「で、出来るかッ! セ、セバスチャン、何とか言ってやってくれ!!」
「無理な御相談ですね、御坊ちゃん。何せ、貴男だけのセバスチャンで御座いますから」
「その台詞を言うタイミングじゃないだろうがッ!!」
私は一人、笑って誤魔化した。はは――逃げたい。
「あたし応援しちゃうんだから! 勿論、あたしも構ってね、アデル?」
「う、うん。勿論。……って、おい、良いのか?!」
「イェス! 容認!!」
レイチェルは親指を立てた。
「こんなオチで良いの……?」
私は独りごちる。何だか私が凄く馬鹿みたいだ。実際馬鹿なのかも知れないが。
嬉しい様な悲しい様な、複雑な気分だ。私だけの秘密の花園が他人に知れて、荒らされるでもなく、指定保護区にされた様な感じだ。
「ははは……まあ、良いか……」
脱力して、がっくりと肩を落とした。まあ、仲間が増えたというところで、納得するしかない。
もう彼らの邪魔をするものは一切無くなった。
彼らの絆や、愛は、永遠のものだ。きっと、朽ち果てることなく、咲き誇り続ける。きっと――。
「ま、バレてしまいましたし、ここは公然と続きをなさいますか? 御坊ちゃん」
「するか、馬鹿ァ――ッ!!」