執務十六:執事と少年-6
一ヶ月が過ぎ、年が変わった、一月下旬。私は郊外の寂れた街に居た。
この街は何もかもが茶色に変色している。街全体が錆び付いて動かなくなった歯車の様だった。死んだ街――そんな形容が頭に浮かんだ。
こんな街でも、商売はある。ちらちらと売春宿の張り紙が目に入った。今は真昼間だから良いが、夜になるとこの細い通りのあちこちに売春婦や、禁止薬物の売人が現れるに違いない。とは言え、何もそんなものばかりではない。中には、遠隔地から出稼ぎに出て来た貧困層向けのホテルもある。
その、安ホテルを訪れた。ホテルに入るとすぐに酷い悪臭が鼻を突く。どこかで汚水管が破裂しているのだろう。そんな中でも主人は平然と居座って、新聞を読みふけっている。尋ねると、こちらを見る事もなく、ある一室を教えてくれた。
最上階の角部屋。鍵が壊れていて、ドアはノブを回さずとも、引くだけで容易く開けた。
中は異様なまでに暗い。カーテンを閉め切っているのか、日当たりが悪いのか、暫く目を凝らさなければ中の様子さえ窺い知れなかった。じっと暗闇を見詰めていると、部屋の隅に、ぼろ雑巾の様なものがうずくまっていた。
「……良くここが解ったな」
ぼろ雑巾は酷いしゃがれ声で言った。私は答える。
「貴男が行く所は他にありませんから。この部屋に、私達は住んでいたのでしょう?」
ククク、と笑い声がする。
「酷い部屋だろう。でもわたしには不思議と懐かしい。きっと、御父様と御母様、そして君との、最後の思い出の場所だからだ」
ギルバート・チェンバレン――いや、セバスチャン・ワーナーは、彼らしくない声と口ぶりで言った。
「今にも崩れてしまいそうだ。同じ事を十年以上前にも考えていたのに、今も昔と変わらない……奇妙なものだよ」
私はマッチを擦り、近くにあったランプに火を灯した。ぼんやりとした明かりを頼りに、セバスチャンに歩み寄る。
酷い有様だった。げっそりと痩せ細って、あれほど整っていた顔が、無精髭に覆われている。身体に巻き付けた毛布は朽ち果てる寸前で、穴だらけだ。
きっと、私達の父に似ている。
「屋敷に帰りましょう、お兄様。こんな所に居たら、身も心も腐ってしまいます」
「……わたしを兄と呼んでくれるのか、クララ」
セバスチャンは鼻で笑った。
「しかし、わたしは戻らない。ワイアットの屋敷は、わたしの戻るべき場所じゃない」
乾いて荒れた唇をがさがさといわせながら、かすれた喉を震わせる。
「クララ、テムズ川に氷は張っているか?」
「……いいえ。少しも」
残念だ、とセバスチャンはまた笑う。
「この寒さなら凍ると思ったのに。氷が張っていれば、二度と這い上がれないからな」
彼は自暴自棄になっていた。彼の心をここまで苛ませたのは、この劣悪な環境と、彼自身の自責の念に相違ない。
「……ここは寒いわ。一緒に帰りましょう? 私が紅茶を入れるから……」
「君こそ帰れ。わたしはお前に彼の面倒を見てもらいたかったんだ。こんな所に居てはいけない。彼の所に……!」
怒鳴ろうとするセバスチャンの声を遮って、静かな声が部屋に響いた。
「僕ならここに居るぞ、セバスチャン」
ワイアット卿が戸口に立っていた。セバスチャンは首を伸ばして、彼の姿を見た。
「なんて酷い場所だ。こんな場所にわざわざ来させるお前は、もっと酷いぞ、セバスチャン」
「旦……アデル・ワイアット伯爵! ようこそお越しを……と、言いたい所ですが、歓迎は出来ませんな。ここらの連中は、金持ちを見れば真昼間でも平気で襲う。さっさと出て行って下さいよ」
「僕だってこんな所に長居はしたくないね。だからレイチェルは置いて来た。僕を気遣うならさっさと立て、セバスチャン。そして一緒に屋敷まで来い」
ククク、とセバスチャンは笑う。
「……嫌なこった」
唸る様な声で言い放った。
セバスチャンは、兄は馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ。
「そうか。なら……」
ワイアット卿はつかつかと歩み寄って来て、やおらにセバスチャンの頬を殴った。
「来い、セバスチャン! 死にたいならその後にしろ!!」
ワイアット卿は本気で怒っている。誰も見た事のない彼の姿に、セバスチャンも腰を上げた。
屋敷の玄関では、使用人一同が整列し、セバスチャンを歓迎した。中央にレイチェル嬢が控え、その背後の写真は赤いカーテンで覆われている。
「ええ?! 何、その酷い格好! 有り得ない! 全ッ然素敵じゃない!! 早くお風呂に入れなくちゃ……!!」
「待てって、レイチェル。挨拶が済んでからだ」
ワイアット卿が窘める。
「紹介しよう。僕の妻の、レイチェル・ワイアットだ」
ワイアット卿がレイチェル夫人の横に並ぶ。使用人達から拍手が起こった。
「そして、レイチェル。こちらが僕の執事……」
手で指し示し、最もらしく紹介する。
「セバスチャン・ワーナーだ」
セバスチャンは目を丸くした。ワイアット卿は声を上げて笑う。
「僕を恨みたいなら恨め、憎みたいなら好きなだけ憎め。だけど僕は決めたぞ。クリスマスにあんな写真を用意する奴の言葉は信用しない。僕を嫌いな奴が、僕の写真を堂々と飾りたがるか、馬鹿め!」
ハッハ、と胸を張って高笑い。
「それにな、セバスチャン。あの写真は頂けない。この屋敷はもう僕だけのものじゃないんだからな」
手を挙げて合図をすると、カーテンが取り払われた。そこにあった写真は、ワイアット卿一人が写っているものではなかった。
中央にワイアット卿。その右手にセバスチャン、そして左手には、私。ワイアット卿もセバスチャンも、最高の笑顔である。私に関して言えば少々引き攣っているが。
「ここに飾るのは個人の栄誉じゃない。家族の写真だ。あんな独りよがりの絵は五十万ポンドで売り払ったさ」
「家族……?」
そうだ、とワイアット卿は大きく頷く。
「お前は家族だ、セバスチャン。前に尋ねられた時は素直に言えなかったが、今でははっきり言えるぞ。お前は僕の家族だ! お前だけじゃない、妹も一緒だぞ? 家族が離ればなれになって良いものか!!」
セバスチャンの喉から、ああ、という声が漏れるのを聞いた。
彼が欲していたのは、全幅の信頼が置ける、決して離別する事のない家族だった。
ワイアット卿は受け入れたのだ。セバスチャンの過去も、何もかも全てを。彼にはもう、自分を偽る必要が無くなった。
「ただ一つだけ、この写真には難点がある。レイチェルが、家族が一人欠けているんだ」
全くよ、とレイチェルは頬を膨らませた。結婚をしても相変わらずである。
「だからもう一度撮り直したい。お前と、お前の妹と、僕と、レイチェルとで、写真を撮ろう。そしてここに飾ろう。だからお前は、そんな格好じゃいけない。もう一度僕の執事になってくれ」
ワイアット卿は手を差し伸べて、微笑んだ。セバスチャンの両目から涙がこぼれ落ちた。
「……是非にも」
セバスチャンはワイアット卿の手を握った。
使用人達から拍手と歓声が巻き起こる。みんな、セバスチャンの帰還を待ち望んでいたのだ。勿論、私やジョンだって例外じゃない。
「さあ、風呂に入れ。今度は僕が背中を流してやる。酷い臭いだぞ」
「結構。自分で出来ますよ、御坊ちゃん」
セバスチャンは、元の調子で言った。こいつめ、と笑うワイアット卿の瞳が湿っていた。