執務十六:執事と少年-5
屋敷は混乱のどん底に叩き落とされた。チェンバレン氏の指導下にあった使用人達は、皆狼狽えている。何をどうして良いのか解らない。あのジョンでさえ、おろおろとしている。するべき事を与えていた人物が急に居なくなったのだから、仕方が無い。
しかし私には、彼が居なくなってしまうという事態は、想像の範囲内の出来事だった。 楽園はいつか終わる。終焉に至る、一つの形だ。
「ねえ、セバスチャンはいつ戻るのかしら」
私の入れた紅茶を口に運びながら、レイチェル嬢は尋ねた。私は頭を振る。
「……奴はきっと戻らない」
ワイアット卿は窓の外を見ながら呟く様な声音で言う。
「僕が追い出した訳じゃない。だけど、奴は自分の意志で出て行った」
「何かあったの?」
レイチェル嬢の問い掛けに、ワイアット卿は無理に笑顔を作った。
「何も無いさ。大丈夫。何も心配要らない。奴は少し忙しすぎて疲れただけだ」
そんな嘘を吐く。それから私を見て、
「今日からお前が奴の代わりになってくれ。お前を侍女に任命する」
ぎょっとした。
「わ、私には、そんな……!」
「お前なら問題ないよ。何せ、奴の妹だからな」
「ええ?!」
レイチェル嬢は飛び上がる程驚いた様子だ。
「言われてみれば良く似てるよ。黒髪に、黒い瞳……。お前なら適任だ」
それに、と付け加える。
「お前は生まれてすぐに引き取られたから、僕に恨みも無いだろ? なら、安心だ」
ああ、事の経緯が何となく解った。
チェンバレン氏はワイアット卿に過去の全てを話した。しかし、彼自身の気持ちについては歪められた部分が多かったのだろう。彼は坊ちゃんに対する恨みは無かったはずで、寧ろそういう感情を坊ちゃんに抱くのは間違いだと理解していた。ところがワイアット卿にはそれを聞かせなかった。そこの所の真意は知れないが、チェンバレン氏なりの考えがあっての事だと思う。
「え? 恨みって? なになに? 何の事?」
レイチェル嬢は私とワイアット卿とを交互に見比べながら、疑問符を沢山浮かべた。
恐らく、チェンバレン氏は、自分自身が許せなくなったのだ。復讐を誓い、恨み続け、そして対象に近付く為に利用したはずの坊ちゃんと、関係が深まっていく。憎悪と愛情とがない交ぜになった挙げ句、憎悪の矛先を失い、自分を偽ったままこの屋敷に止まる事になった。
彼は、ワイアット卿の元を離れたかったのではないはずだ。やり切れなくなって、己を愛すべき者の元から引き離す事で、自らの罰したのである。
それに加えて、私の事もあったのかも知れない。氏は私に兄と呼ばれる事を望んだが、私はそうしなかった。いや、出来なかった。彼には辛い事だったろう。
でも、ワイアット卿にとっては、チェンバレン氏の裏切りでしかない。
私は自分の考えをワイアット卿に伝える事が出来なかった。
「お前しか居ない。頼めるか、ブレナン?」
「私には……」
答えを遮って、玄関の呼び鈴が鳴った。
「わたくし、ロンドン・タイムズのヘンリエッタ・ケードと申しますが……ああ、貴女は」
ケード女史が一体何の用だろう。まあ、何となく見当は付いたが。
「チェンバレン様はいらっしゃいますか?」
「……申し訳御座いません。今は、少し出掛けています」
「そうですか……残念です」
本当に残念そうだった。彼女の目当てはチェンバレン氏に他ならない。知らないのだから仕方が無いのだが、この状況で呑気な事だと、私は見当違いの怒りを覚えて、悪戯心に火を灯した。
「チェンバレンさんに何かご用ですか? 戻り次第、私からお伝えしますが」
「え、ええ……」
案の定戸惑った様子だったが、少し意味が違った様だ。
「……そうですわね。期限に遅れてしまいましたし、今更……」
「何か?」
ケード女史は肩に掛けていた長い筒状のものを差し出して言った。
「実はクリスマスまでにと頼まれていたのですが、どうしても都合が合わず……」
「何でしょう、これは?」
受け取ると、三フィートはあろうかという見た目に反して、物凄く軽い。筒の中身は空かと思われた。
「写真ですわ。この間の取材の際、撮らせて頂いた……」
そうか。そういえば印刷を頼んでいたのだっけ。それにしても大きすぎやしないか。私はふたを開けた。
瞬間、閃くものがあった。とてもアルバムに入りきらない、この大きさはまさか――。
振り向くと、私の考えは確信に変わった。
「坊ちゃん!」
居間に飛び込み、叫ぶ。急いでいたものだから思わず呼び方を間違えたが、そんな事に気を掛けている暇ではない。
「こちらに! お見せしたいものが御座います!!」
早足に廊下を行くと、ワイアット卿とレイチェル嬢も何事かと続く。
二人を導いた先は、玄関だった。扉の前まで至ると、そこにケード女史とジョンとが待っていた。
「何だ? こんな所に」
「旦那様、ご覧下さい」
訝しげにワイアット卿は振り返る。すると、そこにあるのは踊り場の巨大な絵画――ではなく、写真である。
ワイアット卿が座して、こちらに強張った笑顔を向けている。その写真が、額にぴったりと収まっていた。
「これは……?」
「申し訳御座いません、ワイアット伯爵。クリスマスまでには間に合わせる様にと、チェンバレン様から伺っていたのですが……」
写真は二人に手伝って貰って、四苦八苦しながら額に入れた。
「すごい……!!」
レイチェル嬢はぽかんと口を開けて、雄大なワイアット卿の像を見上げていた。
ワイアット卿の、奥歯を噛み締める音が聞こえた。