執務二:黒尽くめ-2
晩餐には立ち会えなかった。まあ、新人なのだから仕方の無い事だろう。
晩餐後すぐ、グラハム男爵の見送りとなった。日はすっかり落ちている。今から車に揺られてスコットランドの屋敷まで帰ると言うのだから、かなりの強行軍だ。
「客室も用意して御座いますが、宜しいのですか?」
チェンバレン氏はグラハム男爵に尋ねる。ワイアット伯爵は見送りには現れなかった。
「いやいや、わたくしには仕事があるのでね」
居間に灯りが点っているのをちらりと見てから言う。遠慮をしているのか、それともワイアット卿への嫌みか解らない。チェンバレン氏は、左様に御座いますか、と一礼する。
「伯爵殿下はおやすみかな?」
「はい。旦那様はお疲れのご様子で」
「ハン、どうだか」
あからさまに嫌な顔付きをする。多分ワイアット卿は、この男が嫌いなのだ。
「執事殿は大変だな。毎日毎日子供の相手では、休む間が無かろうよ」
「わたしの執務で御座いますから」
「ハハン、けなげだな。それじゃあ失礼するよ」
そう言い捨てて車に乗り込もうとする。そこを、チェンバレン氏は呼び止めた。
「言付けが御座います」
「ほう。何かな?」
チェンバレン氏は一度、ちらりと周囲に目を配り、それから男爵に耳打ちをした。長い伝言らしく、暫くそうしていたが、男爵の顔色が次第に青ざめていくのが解った。そしてそれが終わり、チェンバレン氏が一歩下がると、今度は見る見るうちに赤くなった。
「オレァ帰る! 早く車を出せ馬鹿者!!」
乗り込む前から運転士に怒鳴り散らし、ドアを閉めるなり車を発進させ、土煙を上げて走り去った。車が見えなくなるまで見送って、チェンバレン氏は振り返った。その顔は実に嬉しそうだった。
晩餐会は華やかなものだった様だ。私達に与えられた食事からも、如何に豪勢な食事が振る舞われたか想像出来る。
「毎日でもやればいいのになあ」
とジョンが軽口を叩くと、食堂中の使用人一同が、じろりと彼を睨んだ。みんな支度に始末にとてんてこ舞いで、暇そうにしていたのは私とジョンの二人きりだったのだ。私はなるべく関わりのないフリをした。
食後、私は再び玄関の掃除に取り掛かっていた。ジョンは居ない。私を巻き込まなければ良い、という訳では無いと思うのだが。
孤独にモップ掛けをしていると、午前中と同様にしてチェンバレン氏が現れ、また踊り場で物思いに耽った。腕組みをして、度々顎をさする。ジョンは思い出を振り返っているのだと言ったが、私には何かを思い悩んでいる様に見えた。
堪らず声を掛ける。
「どうかなさいましたか?」
「ああ、ミス・ブレナン。お一人ですか。彼はいけませんね。御仕置きをしなくては……」
「さっきもここで何か考えていましたよね? 悩み事ですか?」
チェンバレン氏は私の問い掛けに、ううん、と唸ってから、困った様に微笑んだ。
「悩み事と言えなくもない。そんなところでしょうか」
言葉を濁しつつも、身体ごと私に向き直って、実は、と続けた。
「この絵を売ったらいくらの値が付くかを考えていたのです」
「……はい?」
思わず聞き返した。チェンバレン氏は今一度肖像画を見上げて、更にもう一度唸った。
「あるフランスの画家の作品なんですよ。その画家にして、このサイズはとても珍しい。しかし珍品だからと言って高値になるとは限らない。これだけの大きさだと、需要がなければオークションに掛けても難しいところでしょうから……精々六十万……いやもっと低いか……」
独り言を始めてしまった。五十万だの六十万だの、金銭感覚が狂いそうだ。
「で、でも先代の御当主様の絵なのでは?」
「いいえ、違いますよ? このお方は三代前、つまり旦那様のひい御爺様です。ひい御爺様は浪費癖の激しいお方だったそうで、この肖像はその一つ。御自身の肖像を描かせるのに二百万ポンドも使ったと言うのですからね。今やワイアット家の御勤めはひい御爺様の『やらかした』散財を取り返す事、と言っても過言では無いでしょう」
唖然とする。出てくる金額の大きさもあるが、何より、主人の祖先の肖像だろうが構わず売ってしまおうという、チェンバレン氏の精神に、唖然とする。
「御財布の紐の緩い血統は旦那様にも流れてしまった様で、あの様な『詐欺師』一代男爵にまで、簡単にお金を出そうと言うのですから」
「さ、詐欺ですか?」
「詐欺です。まあなんやかやと理由を付けて、小銭を巻き上げようという部類ですね」
「あ、あの……先程耳打ちなさっていた言付けというのは?」
「五十万では足りぬと思うが許して頂きたい。貴殿のこさえた借金が如何ほどか、想像するに胸が痛む。なので約束は果たして頂かなくとも結構。されど、その『先進的な発想』とやらをお譲り頂けるなら、更にもう五十万上乗せして投資するのもやぶさかではない。貴殿の前途に幸多かれ……といった内容です」
「そんな事を旦那様が?!」
随分と挑発的だ。そして裏を掻いている。盗み聞きした限りでは、伯爵がそこまで知っているとは思えなかった。それにしても、簡単に主人の言葉を打ち明けて良いのだろうか。
「いいえ。わたしからの言付けですよ」
「え?!」
「これで男爵も詐欺など考えなくなったでしょう。バレていると知った時のあの顔、実に愉快でしたね。まあ、五十万ポンドは旦那様の勉強料というところですか。ハハハ」
実に楽しげに笑う。
この執事、腹の中まで黒尽くめらしい。
「いけませんよ、ちゃんと着替えてから横にならなくては」
アデルはベッドで寝息を立てている。執事は歩み寄り、主人の頬に掛かる髪をそっと撫で上げた。少し癖のある柔らかなゴールデンブロンドは、絡まりながら、するすると指の間をすり抜けていった。
「良く眠っていらっしゃる。お休みなさいませ、御坊ちゃん」
そう囁いてギルバートは立ち去ろうとするが、
「……もう少し此処に居ろ」
と、目を閉じたまま主が命じた。
「おや、狸寝入りで御座いましたか。あまり良い御趣味とは言えませんが」
「五月蠅い。ちょっと眠れないだけだ」
「左様で御座いますか」
ギルバートはアデルの元に戻った。
「僕が眠るまで居ろ」
「かしこまりました」
アデルは掛け布団から手を出した。
「……手袋は外せ」
言われた通り手袋を外し、ギルバートはアデルの白い指先の下に、そっとその手を添える。
やがてアデルは眠りに落ち、安らかな寝顔を浮かべた。
「一日中肩肘を張って御疲れだったのですね、可愛らしい御坊ちゃん」
フ、と笑う。そして執事は、主の耳に触れるほど唇を寄せて、
「夢の中までもお供いたします。貴男だけのセバスチャンで御座いますから」
少年はうっすらと微笑んだ。
セバスチャンはそれから後も、暫く主人の元を離れなかった。