執務十三:風邪と林檎-4
「おい、セバスチャン」
「何で御座います、御坊ちゃん」
「暇だから何か読んでくれ」
セバスチャンは林檎の皮を剥いていた。皮は一本の赤い帯となって、螺旋を描きながら皿に落ちて行く。
「林檎を御召しになりたいと仰ったり、読み聞かせをしろと仰ったり、今日は我が侭三昧で御座いますね」
「五月蠅いな。良いじゃないか、たまの病気だ」
「確かに、珍しい事に御座いますね」
皮を剥き終えて、執事は答えた。
「なら御坊ちゃん。御病気なら御病人らしく、もう少し弱々しくなさって頂かないと困ります」
皮肉とも冗談とも取れる口調でそう言うと、アデルは言われた通り、表情を曇らせた。そしてセバスチャンの、林檎を等間隔に切り分ける器用な手付きに見とれながら、呟いた。
「……さっき、嫌な夢を見たんだ」
「どの様な?」
手を休めずに聞き返すと、坊ちゃんは低い声で答える。
「お前がこの屋敷を出て行く夢」
「それは御金を稼ぐのに孤児院を飛び出す様な感じでしょうか」
昨日アディントンが漏らしたセバスチャンの過去は、自身の口からアデルへ伝わっている。
「それなら必ず戻ってくる。けれど、お前は戻らない。ずっと帰って来ないんだ」
「ハハハ。それは確かに悪夢で御座いますね。しかしご安心下さい。何度も申し上げている通り、わたしは一生貴男の御傍を離れませんよ」
「知ってるよ」
アデルの表情は晴れない。
「夢はそこで終わらない。僕は諦めて、別の執事を雇って、レイチェルと結婚して、歳を取って、お父様と同じ歳になるんだ。その時になってやっと、お前が戻ってくる」
ほう、とセバスチャンは肩で笑った。
「その間、わたしは何処へ行っていたのでしょうね? またぞろの売春宿で小銭を集めていたのでしょうか?」
「解らない」
頭を振って、アデルは続けた。
「聞いてもお前は答えない。今と全く変わらないお前は、ただ僕をじっと睨んでいるんだ。見たこともない顔で」
夢の中のチェンバレンは、憎悪に満ちた目でアデルを見下ろしていた。
「何も解らなかった。だから僕は言った。『お前に恨まれる覚えは無い』ってね。そうしたら……」
そこで一度言葉を切り、口を閉じた。
「そうしたら、どうなったのです?」
セバスチャンに促されて、漸くアデルは口を開いた。
「……お前に殺された」
林檎の芯を取る執事の手が、ぴたりと止まった。そして顔を上げ、真っ直ぐに坊ちゃんを見る。
「……それは奇妙な夢で御座いますね」
「そうだな。でも僕は、お前に刺し殺されたんだ。腹のこの辺りを、丁度、その果物ナイフで……」
セバスチャンの手で、銀のナイフがギラリと光った。アデルは目を細め、冷たい光を見詰めた。
「これは偶然で御座いますね。なら、今殺しましょうか。わたしの手には都合良くナイフが。そして御坊ちゃんは無防備でいらっしゃる。殺すには好機というものです」
執事は妖美に笑う。アデルは、よせよ、と失笑した。
「悪い冗談だ。僕は『お前に恨まれる覚えは無い』」
「ならこう申しましょうか。『自覚の有無はわたしの憎悪に関係ない』」
妙に真実みのある口調で言い、切っ先をアデルに向ける。アデルは上目遣いにセバスチャンを睨んだ。
「……よせと言っただろ?」
低く言う。ハハハ、と執事は笑い、ナイフを林檎に突き刺した。
「失礼。御坊ちゃんがあまりに真剣なので、からかっただけで御座いますよ。まあ……」
視線を上げて、ニヤリとする。
「……わたし以外の執事を雇ったのなら、本当に殺してしまうかも知れませんね。何せ、わたしは貴男だけのセバスチャンに御座いますから」
「怖い事を言うなよ」
アデルは肩を竦める。
「だけど、それなら安心だ。僕は絶対にお前を手放さない。……お前より優秀な執事なんて居ないよ」
ナイフを置いて、セバスチャンは、フ、と目を閉じた。
「それだけですか、理由は」
「それだけだ、理由は」
おやおや、と呟きながら、切り出した林檎の皿をアデルに差し出す。アデルは、一緒に載っていた小さな銀のフォークで、林檎を口に運んだ。
「……御坊ちゃん。わたしも頂いて宜しいですか」
「ん」
林檎の半分まで咥えてフォークを抜き取り、セバスチャンに譲る。
「御行儀が悪う御座いますね」
執事は悪戯っぽく言い、アデルは林檎に栓をされた口から、もごもごと、お前が悪いんじゃないか、という様な事を言葉にならない声で言った。
受け取ったフォークを、セバスチャンはナイフと同じくテーブルに戻してしまう。そして皿をアデルから奪うと、少年の小さな口から、アヒルのくちばしの如く突き出した林檎に齧り付いた。
唇同士が触れるか、触れないか。その微妙な距離で音を立てて噛み切ると、さらりとした果汁があふれ出し、アデルの顎へ伝い落ちる。アデルは口の中に残った林檎を噛みながら、憮然として言う。
「……お前、馬鹿だろ?」
「こうして食べると格別美味しくなるので御座いますよ」
互いに林檎をシャリシャリやりながら、笑い合う。
「風邪が伝染っても知らないぞ」
「伝染りませんよ。わたしは完璧で御座いますから」
「その自信は何処から来るんだ?」
「貴男から、で御座いますよ、御坊ちゃん」
完全無欠の執事は不敵に笑う。主は鼻で笑った。
「……たまには風邪を引くのも、悪いものじゃないよ」