執務十三:風邪と林檎-3
「やあ。その……大丈夫かい?」
ジョンが相変わらずの間抜け面で立っていた。
「何かご用ですか?」
「あ、ああ。えっと、な……」
言いにくそうに、頭を掻く。わたしは廊下に出て、ドアを閉めた。
「何です?」
「もしアレなら、俺が代わってやろうかな、なんて」
目を泳がせて、頬を掻きながら、歯切れ悪く言う。
「何も問題ありませんよ。ご心配には及びません」
「あ、ああ……いや、でも……」
また何か言い掛けてまごまごしている。段々と苛々してきた。
「何かと困る事があるんじゃないかなあ、と思ってサ。ほら、その、お前……女だし?」
「困る事とは何でしょう? わたしは十分、お役目を果たせていますよ」
「ああ、そう? そうなら別に……。ところで、どうしてチェンバレンの口真似なんか?」
「していませんよ」
わたしは即座に否定した。ジョンの相手をしている暇は無い。いい加減にして欲しい。
「ご用がそれだけなら、そろそろお仕事に戻られたらどうです?」
ジョンはムッとした顔をして、胸を張った。
「何だよ。ひとが心配して来てやったってのに、その態度かよ」
「言ったでしょう? 貴男の手を借りなくても平気です」
「そうかい! ああ、解ったよ。俺が悪かったよ。じゃあな!!」
怒鳴って、ジョンは早足に立ち去っていった。その時吐き捨てる様に、
「……ひとの気も知らないで」
と呟いたのが聞こえた。
部屋に戻ると、お坊ちゃんは一人で着替えを済ませていた。――残念でならない。
「何を騒いでいるんだか」
呆れて、嘆息混じりに言う。
「申し訳御座いません」
「セバスチャンはまだ戻らないのか? 何だか落ち着かない」
その一言で、私は急に、現実へと引き戻された気がする。
「……そろそろお帰りになっても、おかしくないお時間かと思います」
「そうか。一体何処で油を売っているんだか」
チェンバレン氏なら放っておくなんて考えにくい。ワイアット卿は少し神経過敏になっている様だ。
それから数分としない内に、チェンバレン氏は帰還した。
「遅くなりまして申し訳御座いません、御坊ちゃん。御加減はいかがですか?」
「……割と良い」
ふて腐れたワイアット卿はぶすっとして答えるが、チェンバレン氏は笑顔で返す。
「それは良う御座いました。しかし念の為、お医者様から頂いた御薬を御飲み下さい」
「嫌だ。苦いから飲みたくない」
子供らしい理由だ。
「おやおや。御早く治しませんと、いつまでも御馬に乗れませんよ」
言いながら、粉薬の袋と水とを携えて、ワイアット卿の元に歩み寄る。
「誰の所為だと思ってるんだッ」
「さて? あの悪天候の中で御馬に夢中だったのは、旦那様だったかと。それともその他に理由が御座いますか? 仰って頂かなければ解りませんが」
意地悪く言う。ワイアット卿はキッと睨み、それからチラリと私を見てから、ぷいと顔を背けた。
「もう良い。全部僕が悪い。でも薬は飲まないぞ! そんなものに頼らなくても平気だ」
ワイアット卿はあくまで頑なだ。それ程苦手らしい。チェンバレン氏は溜息を吐いた。
「……なら仕方がありませんね」
一瞬、ワイアット卿の視線が戻る。その目は輝いていた。
「良いのか、セバスチャン?!」
「いいえ。無理矢理にでも飲んで頂きます。わたしが口の中で薬を溶かしますので、口移し……」
「わー!!」
ワイアット卿は慌てて大声で遮るが、もう遅かった。全て私に聞こえている。それでも私は何も聞いていない風に、エプロンの端を弄る真似をしていた。
「解った! 自分で飲むからやめてくれ、セバスチャン!!」
「左様で御座いますか? 御利口で御座いますね、旦那様」
チェンバレン氏の声が弾んでいた。
彼が帰って来た事で、私の役目は終わり、ワイアット卿の寝室を出なければいけなくなった。短い間だったが、良い経験をさせて貰えた。
これで、想像する時の材料が――。
「……よう」
しけた顔で、ジョンが立っていた。私が出てくるのを待っていたらしい。何だか今日はやけにしつこいじゃないか、と憤慨しそうになったが、思い返してみれば、私は随分と恥ずかしい事をしていた気がする。
謝ろう。そう思った時、ジョンの方から先に口を開いた。
「ごめん。悪かった。ついカッとなって、さ。別にお前を怒らせたかった訳じゃないんだけどな……」
照れ臭そうに詫びる。
「……お前が真面目に仕事してるのは知ってたしさ。それを俺みたいなのがのこのこやってきて、奪おうとするんだから、そりゃ、腹も立つよな。うん」
「そうじゃないのよ。私こそ、ごめんなさい。あんな酷い事言って」
私からも謝る。ジョンは驚いた様な、それでいて嬉しがる様な顔付きになって、笑った。
「良かった。これで仲直りだな。しかし、どうしたんだよ? 顔、赤いぜ?」
「え……?」
額に手をやると、確かに自分でも解る程に熱かった。
「あ、本当に伝染ったかも」
「何だって?! そりゃマズイな!! よし、こうなりゃ俺が看病して……」
「……不潔なひとに寄られると悪化しそう」
そう言って一歩退くと、ジョンも顔を真っ赤にした。どうやら風邪が流行している様だ。