執務十三:風邪と林檎-2
「うん。風邪ですわ」
医師は診察を始めてから一分としないうちに断言した。
「一昨日まで暖かくて昨日は急に冷えましたからな、そこかしこで風邪が流行ってるんですわ。熱が上がるのは子供特有のモンですわな。それ以外には大した症状も無いし、まあ問題ありませんわ。薬飲んでゆっくり休めば直ぐ良くなりますわ」
聴診器を外しながら、軽い調子で言う。アメリカ訛りだろうか。
「左様で御座いますか。安心致しました」
チェンバレン氏はあくまで真面目だ。
「じゃあ悪いんけども、また送って貰えますかな。薬の処方は医院でしますわ。診察料もついでにお願いしますわ」
鞄を持ち上げて立ち上がる。チェンバレン氏は、かしこまりました、と一礼した。
一緒になって廊下に出ると、医師は一人でさっさと行ってしまった。聞けば彼はああ見えてワイアット卿の主治医らしく、勝手を知っているのだとか。
「おや?」
チェンバレン氏が私の顔を見て、声を上げた。
「どうしたのですか?」
「え? 何がです?」
ドキリとして聞き返す。
「顔が赤いですよ? 耳まで真っ赤だ。風邪が伝染ったのでしょうか」
氏は素早く手袋を外し、ちょっと失礼、と言いながら、私の了承を待たず、私の前髪を掻き上げて額に触れた。
「だ、だだだ、大丈夫ですよ?! 少しお部屋が暑かっただけで……べ、別に何処も……」
慌てて払いのけて、後退った。チェンバレン氏は怪訝な顔をした。
「そうですか? まあ、大丈夫なら良いのですが」
彼の手は少しひやりとしていて、滑らかで、気持ちが良かった。
ワイアット卿は、あの手に触れられているのか。体中をあの手が撫で回すのか。
嗚呼――うねる。
「本当に大丈夫ですか? 何だか寒そうですが」
「い、いえ! 全然平気です。あは、はは、は……」
もどかしさに身体中を舐め回され、もじもじとしていた私は、笑って誤魔化した。
「……兎に角、わたしはまた出ますので、御願いしますよ」
診察の後で、ワイアット卿の症状はだいぶ落ち着いていた。無意識中に医師の声が聞こえていた様だ。病は気からと言うが、治す分にも気持ちは大事なのだろう。
ワイアット卿の目が、ゆっくりと開いた。
「……セバスチャンはまだ戻らないのか?」
開口一番はそんな言葉だ。まだチェンバレン氏が出てから五分と経っていない。迎えに行った時は二十分ほどかかったのだから、帰りはそれよりもう少し掛かる。それを告げると、ワイアット卿は酷く残念がった。
身体を起こして、水を飲む。昼間と同じように、コップ一杯を一口で空にしてしまった。見れば、相当な汗をかいていて、背中にシャツが張り付いている。
「汗を、お拭き致しますか?」
「……ああ。頼む」
やはり、どうせならチェンバレン氏の方が良いのだろう。私も同じ思いだ。
シャツのボタンを上から一つずつ外していき、開くと彼の胸から腹部に掛けてが露わになる。白い。細い両腕を袖から抜く。上下共に下着を着けていないワイアット卿は、裸になった。
彼の横に構えて身体を拭く。目のやり場に困った。上を見ればワイアット卿の赤らんだ横顔があり、下を見れば、腰から下の曲線と、薄いシーツ一枚で隠された局部とがある。どちらとも、直視して良いのはチェンバレン氏だけなのだ。
身体を支える必要があって、彼の背中や肩に触れなければならなかった。汗ばんだ肌が手に吸い付く様でいて、きめ細やかで、なめらかだ。この肌に触れて良いのも、本来はチェンバレン氏だけだ。
彼のあの手で、この肌に触れるのか。そしてあの黒く澄んだ瞳に全てが映り、この青く鮮やかな瞳が愁いを帯びるのか。想像すればするほど、甘美な感覚が私の脳を支配した。
セバスチャンなら今この時、お坊ちゃんに何と言うだろう。
「……気持ちよう御座いますか、お坊ちゃん?」
「ああ?」
アデルが振り向いて、睨む。私はその目を見返して、微笑んで見せた。
「まあ……な」
あやふやに答えてから、そっぽを向いた。その仕草が何となし可愛らしく思えた。
次第に、彼の全てに触れてみたいという欲求が込み上げてきた。
アデルの腰に手を当てて、腹の上に濡れた布巾を滑らせる。彼が一瞬、僅かな抵抗をする様に、ビクリと震えた。徐々に、彼の身体にまとわりつく汗を拭き取りながら、緩やかなラインを降りて行く。腕を回して、腰骨の尖りを布越しに感じながら、水が落ちるのと同じ方向に、下腹の丸みを下って行くと――。
「そこは良い! 自分でやるからッ」
叫びながら、坊ちゃんはわたしの手首を掴み、布巾をひったくった。
「あら。お恥ずかしいのですか?」
「当たり前だッ」
シーツを胸まで持ち上げて、赤面しながら怒鳴る。恥ずかしがる姿は、何とも愛らしい。このまま押し倒してしまいたい衝動まで覚える。
「構いませんのに」
「僕が構うんだ! どうしてそう嫌に積極的なんだよ!!」
決まっている。愛おしいからだ。
嗚呼、その赤い耳は今、どれくらいの熱を帯びているだろう。嗚呼、その髪が貼り付く頬を、滲む汗を取るべくして用意された布巾の無い今、どうしてしまえば良いだろう。嗚呼、その薄紅色の唇は今、何故に、何を求めて湿っているのだろう。
嗚呼――燃える。
わたしが私の中で燃え盛る炎に、更なる燃料を投下しようとした、その時。ノックの音が邪魔をした。