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執務十三:風邪と林檎-1

 昨日の雨は嘘だったかと思うくらいに、今日は空が澄み切っている。騒がしい珍客もなければ、目立った事件も起こらない。穏やかで清々しい昼である。これが昨日だったら私の下着も――いや、考えるのはよそう。

 そよ風に草原が波打つ。その中を白馬に乗って駆け抜ける美少年。ああ、良い光景だ。私の心まで晴れ渡る様な気持ちだ。これで私の下着が――考え出すときりがない。洗濯にとらわれているのはきっとジョンの所為だ。全部ジョンが悪い。

 私は、チェンバレン氏の代わりにワイアット卿の乗馬を見守っている。何でも、チェンバレン氏にはこれから別の仕事があって、短い間ながらワイアット卿の傍を離れなければならないらしい。その代理を任されたのだからこれは光栄な事だが、たぶん暇そうにしていてそれなりに役に立ちそうなのが私だったと、それだけの事なのだろう。ジョンの方がよっぽど仕事をしていないが、彼は役立たずだ。

 チェンバレン氏がワイアット卿の元を離れる――そこから連想して、昨日の事を思い出していた。未だに不可解だ。

 アディントンの脅迫、つまりチェンバレン氏の過去は、彼が恐るるに足らない事だった。それは解った。では、何を怯えていたのだろうか。過去について何とも思っていないなら、あの時即座に拒否出来たはずなのである。

 それにあの笑い。あのタイミングで、あの笑い様は絶対におかしい。彼はきっと、あの時初めて「何だそんな事か」と杞憂に気付いたのである。なら、それまでは何だと思っていたのか。

 導き出される結論は、彼の過去にもっと何か――。

「おーい、ブレナン!」

 少し離れた所で、ワイアット卿が私を呼んだ。

「は、はいィ?!」

 彼はいつの間に私の名前を憶えたのだろう。思わず声が上擦った。

「水を持って来てくれ」

 注文が出た。私はコップに同じく予め用意されていた水差しから水を移し、ワイアット卿の元に走った。

 彼は水を飲む時も馬を下りない。あんなに背の低いワイアット卿を、今は見上げている。何だか妙な気分だった。水を仰いで、

「おかしいな。喉がカラカラだ。おかわり」

 コップを私に返そうと腕を伸ばす。すると、彼の身体がぐらりと揺れた。

 短く唸ると同時に、自ら伸ばした腕に引っ張られる様に、鞍から滑り落ちる。

「わ! だ、だだだ、旦那様……ッ!!」

 パニックを起こしながらも、私は両手を突き出してワイアット卿を受け止めた。抱き抱えると言うより、正面から抱き合う様にして何とか彼を支える。軽い。

 ワイアット卿は私の腕の中で、力無くぐったりとしていた。首筋の辺りから熱気が立ちこめている。これはまずい。

 兎に角私は、ワイアット卿を抱いて猛然と走った。収穫籠を手に雨から逃げている様な、洗濯籠を手に物干し竿へ急いでいる様な、そんな心持ちだ。洗濯籠と言えば――だなんて無駄な事を考えている余裕はない。屋敷に駆け込んだ。


「風邪でしょうか」

 チェンバレン氏は顎をさすった。何故だろう。私などは、ワイアット卿は風邪を引かないものと思い込んでいた。いつも元気なワイアット卿。そんな印象しかない。

「昨日、雨に打たれたと仰ったにも関わらず、御着替えなどをして差し上げられなかった。……迂闊でした」

 それは仕方がない。あんなごたごたがあったのだから、誰も彼を責められない。

 ベッドに寝かされたワイアット卿は唸った。随分な高熱で、意識朦朧としている。ぼんやりとした目線を空中に漂わせながら、うわごとの様に呟く。

「……そうだ。お前の所為だ。あんなにするから、裸のままで寝る羽目に……」

 どうやら私の存在も解らない程らしい。ちらりとチェンバレン氏が振り返る。

「え? 今何か仰いましたか?」

 私は聞いていない振りをした。我ながら白々しい。

 ふう、と一息吐いてから、チェンバレン氏は踵を返す。

「御医者様を御迎えに上がりますから、その間、旦那様の御側に居て下さい」

 私に向けて言い付ける。

「桶に水を張って、額をタオルで冷やして下さい。それから喉が渇いたと御所望ならば御水を少しずつ。汗が酷い様なら拭いて差し上げて、それと御尿水は……いや、これは良いでしょう。兎も角、頼みましたよ」

 やるべき事を早口に告げて、さっさと出て行ってしまった。そんなに細かく指示しなくても、大体解ってる。一番に心配しているのは、やはり彼だった。

 寝室でワイアット卿と二人きりになる。ワイアット卿は顔を真っ赤にして、呼吸が乱れ、喘いでいる。何だか変な気分になってくる。ベッドサイドに立ってみると、そこがチェンバレン氏の立ち位置だと気付いた。彼はどんな気持ちで、ワイアット卿のこんな姿を見ているのだろう。考え出すと、全身がむず痒い様な、奇妙な感覚が襲ってくる。

 いけない。私は何て馬鹿をやっているのだろう。桶を取りに一旦部屋を出て、頭を冷やしてから戻った。

 戻った時、ワイアット卿はチェンバレン氏を呼び続けていた。

「セバスチャン……セバスチャン、何処に行った……」

 眠っているが、悪い夢でも見ているのだろうか、顔を歪めて唸っている。濡れタオルがずり落ちていた。早速冷たい水で絞り、額に乗せると、いくらか表情が和らいだ。

 ワイアット卿のあどけない顔を見ていると、胸の奥から沸き立つものがある。愛おしくなるし、守りたくなる。これが母性本能というものだろうか。実際はそれほど、年は離れていないのだが。

 何だかおかしい。今、私はチェンバレン氏と同じ位置に立っている。そして今、私はワイアット卿を愛おしいと思っている。感情までチェンバレン氏と同じだ。

 とすると、今の私は、普段の氏と同じ目でワイアット卿を見ている。まるで私自身が彼の執事に、セバスチャンになった様な錯覚がしてくる。

 掌に汗が滲む。

 嗚呼――たぎる。

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