執務十一:誕生日の夜-6
レイチェルは、アデルに背を向けていた。許婚もまた、彼女に背を向けている。互いがベッドの両端で、外側に目を向けていた。そうさせたのは、恥じらいばかりとは言えない。
「……ねえ、起きてる?」
アデルは答えなかった。
背中と背中との間に生まれた僅かな隙間が、深い溝となって二人の間に横たわっている。
「少しくらいなら、触っても良いんだよ?」
挑発的な台詞にも、自らの腕を枕にしたアデルは、微動だにしなかった。
「……やっぱり嫌いなんだ?」
尋ねられて、アデルは漸く口を開いた。
「嫌いな訳があるか」
それを聞き、レイチェルは寝返りを打ってアデルに向き直る。
「本当?」
またもアデルは無言だった。レイチェルは急に悲しくなったのか、声を震わせながら、強い口調で言った。
「あたし、アデルが好き」
乙女は手を伸ばして、丸まった背中に指先を立てる。
「ずっと好き。小さい時から好き。初めて会った時から好き。会う度に好き。会わなくても好き。今も好き。ずっとずっと好き」
掌で触れると、そこには微かに鼓動が伝わった。微弱で、速い脈動。
「……そんなに言わなくったって、解ってる」
レイチェルはアデルにそっと擦り寄って、腰に腕を回した。髪に顔を埋めて、その中で目を閉じる。
「ねえ、何だか眠れないの。眠れるまで、こうしていて良い?」
アデルは答えなかった。しかし、代わりにレイチェルの手を握って、自らも瞼を閉じた。
「おやすみ、アデル。大好きよ」
翌朝、キーツ伯爵とレイチェル嬢は帰って行った。レイチェル嬢は涙を浮かべて、手を振ってから車に乗り、キーツ卿は、
「それじゃあ、お世話になったね。今度はそっちからうちに来てくれると嬉しいよ」
告げてから、ちらりとチェンバレン氏に目を遣り、それから車に乗り込んだ。
走り去る車が見えなくなるまで見送って、ワイアット卿は無言で屋敷に戻った。彼も寂しいのだ。
チェンバレン氏は相変わらずの様子だった。寧ろ以前より悪化しているかも知れない。どう接して良いか解らないという風で、私の顔を見て何か言い掛けると、口を噤んでワイアット卿の後に続いた。
別に構わない。私が責任を感じる事はなかった。
彼ら二人の間に、いや、二人がそれぞれに何かあった時、彼らは二人でそれを解決出来る。そう確信しているから、私は安心して見ていられるのだ。
二人で傷を癒し合って、触れ合って、穴を埋め合って、補い合って、解り合って、分かち合って、重ね合う。
嗚呼――。
身体が熱くなる。
「なあ、おい。あんた、あのチェンバレンと付き合ってんのか?」
「ジョン。少し黙りなさいよ」
水を差すな。
深夜。寝間着姿のアデルがギルバートの部屋を訪れた。
「眠れないんだ。ちっとも……」
大きなシャツ一枚の姿で、第二ボタンまで開かれた襟の隙間から、首筋から鎖骨までの青白い流曲線が覗く。裾から下は華奢な脚が露わに伸びている。
「そんな格好では風邪を引いてしまいますね。どうぞ、中へ」
執事の部屋は、先程まで暖炉に火が点っていた為に、暖かかった。
アデルは指の付け根まである袖で、目を擦った。
「変なんだ、セバスチャン。眠いのに眠れない」
「心が落ち着かないからでしょう」
優しく言って、アデルをソファまで誘う。
「少しで良いから、此処にいさせてくれないか」
「ええ、喜んで」
「でも、そうか。これから寝るところだったんだろ?」
暖炉は消えている。本は本棚にある。紅茶のカップも見当たらない。しかしセバスチャンは見え透いた嘘を吐いた。
「いいえ。わたしも丁度夜更かしをしようと思っていましたよ」
アデルの向かいに座り、笑って見せる。しかしその笑顔はどことなく硬い。
「嘘はもう良いんだ」
「嘘?」
セバスチャンは惚ける。アデルはゆっくりと頭を振った。
「……お前に嘘を吐かせたくない。昨日だってそうだ」
アデルは眉間に皺を寄せた。
「お前、ずっと悲しそうな顔してただろ」
セバスチャンは目を見張った。アデルは勝ち誇った笑みを浮かべて、
「僕を誰だと思ってるんだ」
セバスチャンを指差した。
「僕の誕生日が嬉しくないのは知ってる。それならそう言えば良いのに、どうして黙ってるんだ」
珍しく見透かされて、セバスチャンは観念した様に嘆息を吐いた。
「……何も喜べませんから」
足を組んで、膝を抱える。
「御坊ちゃんが大人になっていく。大人になればわたしの必要性は希薄になっていくでしょう。わたしはそれが怖いのですよ」
なんだ、とアデルは肩を落とした。
「それならそう言え。お前がそんなだったら、僕も素直に喜べないじゃないか。僕にはお前が必要だし、それは何歳になっても変わらない。結婚したってそうだ。そんなの解り切ってるだろ? それとも何か? 僕に二度までも言わせたいのか?」
そこで一息吐いてから、続けた。
「お前は、僕だけのセバスチャンだ」
セバスチャンは脚を解いてすっくと立ち上がり、そして歩み寄ると、突然アデルの膝に腕を掛け、軽々と抱き上げた。アデルは思わず、あ、と声を上げる。
「今晩は朝まで御一緒しましょう。ただし……」
そのままベッドまで歩き、ベッドの上にひょいとアデルを投げ下ろした。
「わたしのベッドで。枕が変わると眠れませんので」
上に覆い被さろうとするセバスチャンを、
「こいつめ!」
と、アデルは引き倒し、逆に馬乗りになった。
少年に押さえつけられた執事は、クスリ、と笑う。
「……御坊ちゃん」
「何だ」
真面目な顔に戻って、アデルを見上げた。
「十七歳の御誕生日、おめでとう御座います」
「……ッ! 馬鹿ッ!!」
ニヤリと微笑したセバスチャンは、拘束を解いてアデルを抱き竦めると、そのままベッドに沈み込んだ。