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執務十一:誕生日の夜-5

 寝室に戻り、レイチェル嬢の髪にブラシを掛けていると、そこへ同じく風呂に行っていたワイアット卿が戻った。従っていたチェンバレン氏は部屋に一歩も入らず、一礼してドアを閉めた。

「お風呂貸してくれてありがとうね、アデル」

 そう言って弛ませた頬は湯上がりで上気していて、まるで頬紅をさした様に赤かった。

「あ、ああ。別に構わない」

 そう答えて、目を泳がせる彼の頬まで赤いのは、きっと風呂の所為ばかりではない。

 レイチェル嬢はブラシを持つ私の手に触れた。

「もう良いわ。貴女もありがとう」

「冷たいお水などはお持ちしますか?」

「ううん、大丈夫」

 レイチェル嬢はしっとりと湿っていて、色っぽかった。こんな女の子と彼がこれから同じベッドに入るのかと思うと、その先が見え透いていて、気恥ずかしいやら口惜しいやら、羨ましいやら恨めしいやらで、複雑な気持ちだった。

「……それでは失礼致します」

「ええ。おやすみなさい、クララ」

 名前で呼ばれる事が、私にとってどれ程素敵な意味を持っていたのだろう。心臓が激しく脈打つ音が聞こえて、慌てて部屋を後にした。

 ドアを閉めてからも、暫くその場で立ち尽くしている。

 二人の事は心から応援したい。仕えている屋敷の主人とその許婚だから、というだけの理由に止まらず、素直に微笑ましく思える恋人同士だから、彼らには幸せになってもらいたい。

 そう考えると、同時に首をもたげてくるのは、チェンバレン氏の事だ。二人が幸せになったとして、彼はどうなのだろう。彼はその時幸せなのだろうか。氏の気持ちは知れない。彼の事を愛しているなら、その愛は何なのだ。一体何処からやって来て、一体何処に実るのだ。

 ああ、解らなくなった。歪に構成された三角形が、頭の中でグルグルと回っている。

 確かめなくては。息が詰まって、堪えられなくなってしまった。


 ノックすると、間もなくドアは開かれた。

「ミス・ブレナン。貴女がわたしの部屋を訪れるのは、もう何度目でしょうね」

 シャツのボタンを胸まで開いたチェンバレン氏は、顔色一つ変えず、静かな調子で言う。

「また何か訊きたい事でも?」

「ええ、まあ……」

 廊下の向こうから、部屋に戻る為か、ジョンが来るのを見付けた。私は失礼と解っていながらも、断り無く身体を滑り込ませて、氏の手の上からドアノブを掴み、閉じた。

「少し気になって。貴男の事が……」

「わたしをですか? 何の事でしょう」

 チェンバレン氏ははぐらかす。逸らすことなく私を見詰めるその目が、隠したものをより顕著にさせているという事を、彼自身は気付いていただろうか。

「貴男の気持ちを聞かせて欲しいのです」

「……わたしの気持ちを、ですか」

 無表情の下から滲み出る暗い色が、一層濃くなった。

「まだ解りかねますが、その前に……」

 そう言いつつ、チェンバレン氏は一気にドアを開いた。鈍い音と同時に、短い叫び声がした。

「貴男も何か用ですか?」

 ジョンが尻餅をついて額を押さえていた。ドアの角に強か打ち付けた様だ。盗み聞きでもするつもりだったのか。

「へ、へへ……何でもないです」

 言い残して逃げていった。氏は、ふう、と溜息を吐いて、再びドアを閉じる。

「それで、私の気持ちというのは?」

 彼はいつもの様に私にソファを勧めなかった。だが今はこれで良い。ドアの前での立ち話は距離が近い。この距離感なら、彼の心にも近づけると思われた。

「何がそんなに不安なのですか?」

 私の問い掛けに、チェンバレン氏は押し黙った。彼としては意外だったのに違いない。実際、気付いているのは私一人だけだ。

「今日一日、貴男の様子はおかしかった。キーツ様が来られてから……いいえ、今日が旦那様お誕生日だというお話になってから、貴男は笑わなくなってしまった。私はそれが、気掛かりだったのです」

 彼はやはり黙っている。私は続けた。

「貴男の様なひとが、旦那様のお誕生日を忘れる訳がない。なのに貴男は、忘れた様に振る舞っていましたね。どうしてそんな事を? もしかすると、貴男の不安は、旦那様のお誕生日と何か関係があるのですか?」

 その問い掛けに、とうとうチェンバレン氏は目を逸らした。目線どころか、身体ごと外に向けて、正面から顔を見られるのを拒んだ。それでも、横顔からはっきりと表情が読み取れる。彼は、悲しんでいるのだった。

「……貴女には解りませんよ」

 呟く様に言う。これ程覇気の無い声で喋る彼は初めてだ。私は回り込んで、彼の正面に立つ。

「解りたい。教えて頂きませんか?」

 俯いた彼は、上目遣いに私を見る。その目はまるで、怯えた子犬の様だ。こんな比喩はチェンバレン氏に似合わない。けれど、微かに湿り気を帯びた瞳は、私にそんな印象をもたらしている。

「……何をどうして、祝えるものか」

 恨み言の様な一言。不思議と、その一言を聞いただけで十分だった。全てが解った様な気がした。言葉の裏にある気持ちにまでは手が届かないが、それでも良いと思った。私は、単なる傍観者なのだ。

 はっきりと言えるのは、彼は恨んでなどいない。憎んでもいない。ただ、愛があるだけだ。私はそう信じている。だから、彼の口から出た感情任せの一言は、それだけで価値のあるものだった。

「ありがとうございました」

 それだけ言い残して、私は部屋を出た。

 すると「一方その頃」の事が気になって、私の足は自然と、使用人部屋とは違った場所へ向かっていた。

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