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執務十:理解者-4

「……ん」

 もう三度目になる。

 アリアはベッドの上で髪を掻き上げた。

「……可愛いお方」

 囁く様な声音で言うのが聞こえる。

「それは褒め言葉にならない」

 ワイアット卿が掠れた声で答えた。アリアはクスリと笑って、

「あら。褒めたつもりなどありませんわ。ただ感想を申し上げただけ……」

 良いながら、ワイアット卿の唇に吸い付く。下唇にねっとりと絡み付いてから、吸い上げる音を立てて離れた。

 彼の弄ばれている。酷く悔しくなった。だけど私はただ見ている事しかできない。彼が汚されていくのを、黙って見守るしかない。

 いざとなれば、辞職を覚悟して飛び出していく心構えは出来ている。しかし、それで防げる事なんて、たかが知れていた。

 そんな諦念と同時に、恐怖心もある。もし彼を怒らせて私がこの屋敷を去らなければならなくなったとしたら、私に行き場所はない。チェンバレン氏を責めるのはお門違いだったかも知れない。

 ワイアット卿は見る見る欲望の渦に飲まれて行く。それを止める術は無い。そう思っていた。ところが――。

「……もう良い」

 彼はアリアの肩を掴み、押し退けながら自らも起き上がった。

「もう十分だろ?」

 低い声音で言う。

「望みを言えよ」

「望みだなんて。旦那様が愛おしいだけ……」

 そう再び抱き付こうとするのを、ワイアット卿は拒んだ。

「見え透いた嘘は言わなくて良い。僕は馬鹿かも知れないが、何の疑問も抱かずに快楽に溺れるほど愚かじゃない」

 とてもあのワイアット卿の台詞とは思えなかった。

「いくら欲しいんだ」

 問われて、アリアは顔を背けた。そして消え入る様な声で、

「……五十万」

 一言だけ答えた。ワイアット卿は、やれやれ、と頭を振る。

「また五十万か」

「そう、貴男が詐欺師に施したのと同じ金額」

 何故その事を知っているのだろう。あれはワイアット卿本人と、私とチェンバレン氏しか知らないはずだ。ワイアット卿はそんな疑問を口にせず、

「その程度で良いのか」

 と言った。その程度だと言い切れるのは、やっぱり私の感覚からするとおかしい。それはアリアにも感じた事で、

「……だから金持ちは嫌い」

 苦々しく呟いた。ワイアット卿は鼻で笑う。

「もっとふんだくろうと思えばいくらでも出るぞ。百万でも百五十万でも」

「貴男は良いわね。自分で働いた訳でもないのに、普通の人達では手も届かない金額を自由に動かせるんだから。貴男には解らないんでしょうね。あたしみたいな人間が、どんな苦労をしているのか」

 私にも金銭感覚が狂っているとしか思えない。しかし、それが彼らには普通なのだ。妬みや僻みを抜きにしても、とても理解出来ない。

 そうだ、とワイアット卿ははっきり答えた。

「お前がどんな人生を送ってきたか知らない。他人の事なんて知り得ない。解ろうとしたって解らない」

 臆面もなく言い放つ。

「お前だってそうだろう? 僕の事なんか少しも知らない。知っているのは、僕が貴族だという事だけだ。僕の事なんか解ろうともしていない。確かにお前と比べたら、僕は大した苦労もしていないだろう。だけどそれは、お前の目から見ても、僕の目から見ても、推測の域を出ない。そういう同情しか出来ない」

 私は両親も育ての親も亡くしている。ワイアット卿にはまだ母親が生きているし、チェンバレン氏も居る。それだけで比べれば、私の方がよっぽど不幸だろう。けれど、だからと言って、彼を蔑む気持ちにはならない。親が生きていたって、傍らに支えとなるひとが居たって、彼は不幸だ。不幸の度合いを比べる事なんて出来ない。出来るのは、自分の不幸自慢か、同情だけである。結局そうなのだ。

「僕には金なんて不要だ。いくらあったって満たされない。でもお前にとっては違うんだろうな。お前にとっては、身体を犠牲にしてでも欲しいものなんだ。可哀想な奴だ。お前は可哀想な奴だと思う。だから同情した僕が、お前に報いてやれるなら、金なんていくらでもやる」

 彼は純粋だ。

「……ハッ! 何それ? 慈善家気取り? 結局お金で何とかなると思っているだけじゃないの」

「そうだよ。僕には金しかない。ただ、それでどうにでもなるとは思ってない。たぶんきっと、金じゃお前は救えない。お前は救われない」

 別に良いんだ、と続けた。

「誰かを救いたい訳じゃない。僕は僕の正義感を満足させたいだけだ。僕はちっぽけな人間なんだ。お前は僕が身体を許した相手だから、情けを掛けたいだけだ」

 ワイアット卿は微妙な年頃にある。大人になりかけた少年だった。彼は子供らしい素直さでもって、自分自身を顧みているのだ。

「欲しいなら構わない。要らないならそれでも良い。強請りたいなら強請れば良い。僕は、僕のした過ちには責任をとるつもりだ」

 私はそっとドアを閉めた。もう私が見るまでもないだろう。


 部屋に戻って寝たふりをしていると、アリアは戻ってきて、荷物をトランクに詰め始めた。逃げるつもりだ。私は狸寝入りをやめた。

「……帰るの?」

「ああ、起きていらっしゃったんですね。ええ、帰りますわ。このお屋敷にはも居られませんから」

 荷造りの手を休めず、取り繕う。

「お金はどうしたの?」

 私が問うと、彼女はぴたりと静止した。

「……貴女、見ていたの?」

「答えて。お金は受け取ったの?」

 アリアは背筋を伸ばして、私を睨んだ。

「……貰ってないのね」

「……ええ」

 フ、と笑う。

「バレちゃったなら仕方ないもの。こそ泥は逃げるわ」

「それで良いの?」

「他を当たれば良い事よ。金持ちなら沢山居る」

 何だか無性に腹が立った。

「それじゃあ、彼の気持ちはどうなるの?」

 それでは、虚しいだけではないか。

「あなたは責任を取るべきよ」

「責任? 遊んだだけで何の責任を負えって言うの? あたしはお金も取っていないし、坊やに不利益な事をした訳じゃない」

「そうじゃない!」

 私はアリアに歩み寄った。

「あなたがしようとした事に責任を持つべきだと言っているの」

「罪悪感なら無いわ。あたしが自分から考えた事だもの」

 違う。そうじゃない。

「……お金、持って行きなさいよ」

「はあ?」

 アリアは眉間に皺を寄せる。

「貰うのよ、五十万ポンド。ちゃんとお礼を言って、それから出て行きなさいよ」

 頭に血が上る。自分が立っているのかさえ怪しく思えてきた。

 何が何だか解らない。頭の中がぐちゃぐちゃする。段々と目の前の女が恨めしくなって、その頬を思い切り叩いた。

「身体を使ってまで掴もうとしたものを諦めて、平気な顔して逃げ出すの?! 女ならもっと誇り持ちなさいよ!! やり放題好き放題やっておいて途中で投げ出すんじゃないわ! あんたみたいなのは許さない! 絶対に許さないんだから!!」

 自分が何を言っているのか解らない。何故こんな事を口走っているのか解らない。

 ただ目の前で泣き崩れる女の姿を見て、私はほんの少し、すっとした気持ちになった。

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