執務十:理解者-1
その噂が聞こえてきたのは、ある日の午後の事だった。玄関先の掃き掃除をしていると、厨房で皿洗いをしていた筈のジョンがやって来て、
「なあ、聞いたか?」
やけに嬉しそうに言う。
「何を?」
「新入りが来るって話だよ。聞いてないの?」
私は頭を振った。初耳だ。
「何だよ。じゃあ坊ちゃんの婚約が元通りになったって話は?」
首を横に振る。またしても聞いていない話だ。ジョンは、やれやれ、と肩をすくめる。
「アンタ何も知らないんだなあ」
「貴男の耳が早いだけよ。その話は何処から?」
「チェンバレンの電話を盗み聞きしたのさ。女手を増やすつもりらしいぜ?」
成る程。確かにレイチェル嬢を受け入れるに私一人では荷が重い。
しかし、何となく嫌な感じがする。
「その新人さんとやらは今日中に来るらしいが……」
丁度その時、屋敷へ続く一本道を、一台のタクシーが走ってくるのが見えた。お、とジョンは声を上げる。
「言ってるそばからお出ましだ!」
タクシーは庭先まで来て停まった。暫くして後部座席のドアが開かれ、噂の新人が姿を見せた。
腰まで伸ばした黒髪。白いフリルのワンピース。庭に降り立った彼女は清楚という印象で、認めるのは悔しいが類い希な美貌を持っている。
「うはあ……」
ほう、とジョンが溜息を吐く。トランクを引っ提げて小股に歩く姿に見とれている様だった。
「お屋敷の方々でしょうか?」
しっとりとした声音で、淑やかに尋ねる。翡翠色の瞳が綺麗だった。歳は私と同じか少し上だと思われる。
「ええ、その通りですよ」
ジョンが張り切って答えると、女性は微笑んでから軽く頭を下げた。
「今日からお勤めさせて頂きます。アリア・ボーフォートです」
「こりゃご丁寧に! 俺はジョン、こっちはミスなんちゃら。案内しますよ。屋敷は広いですからね、迷ったら大変だ」
ジョンは早口に言い、胸を叩くやら髪を掻き上げるやら、そわそわとした様子だ。美人に弱いらしい。私の時とはえらい違いだ。
「まあ、それは助かりますわ。宜しくお願いしますね」
「任せてくださいよ!!」
へらへらと笑い、
「ささ、こちらへどうぞ。あ、荷物をお持ちしましょうか?」
「宜しいのですか? ありがとう御座います」
嫌らしい男だ。少しはチェンバレン氏を見習った方が良い。
「ほら、ボサッとしていないで扉を開けるんだ」
何で私が。そう思いつつも、渋々重たい扉を開く。中に足を運びつつ、アリアは、
「すみません」
と微笑した。笑えば何でも許されるとでも思っているのか。
玄関ホールのシャンデリアを見上げて、アリアは、わあ、と声を上げた。
「以前にも幾つかのお屋敷で働いていましたけれど、こんな立派なのは初めて」
頻りに感心している。胸の前で手を合わせて、くるりと回ってホールを見渡した。
「なかなかすごいでしょ? このレベルの建築物は今時そうそう見られない」
ジョンが誇る。今にも自分が建てたのだとか言い出しそうな勢いだ。
「一八三〇年、三代前のワイアット伯爵が巨額を投じて作らせた屋敷だよ。着工からおよそ三年かけて完成したんだ。築九十年を経過した今でも補修らしい補修も必要とせず、年に一度の点検でも壁にヒビ一つ見つからない」
「ただ建築費でワイアット家の家計は切迫。この屋敷にあってその生活は爪に火を灯す様なものでした。奇跡的に八十年の月日をしのぎ、先の戦争で鉄の需要が高まり何とか持ち堪えたものの、ワイアット家は未だに負債を抱え、三代前の浪費癖が産んだツケを払わされ続けているのが現状です」
踊り場にいつの間にやらチェンバレン氏が居て、ジョンの後を続けた。げえ、とジョンは飛び上がった。
「お待ちしていましたよ、ミス・ボーフォート。わたしがチェンバレンです」
ゆったりと階段を下りて、ジョンに言い付ける。
「ミスター・ジョン、そのまま彼女の荷物を部屋まで運んで差し上げなさい。わたしは彼女と話がありますので」
「……へい」
ジョンは一人でとぼとぼと部屋へ向かって行った。それからチェンバレン氏は私に向き直り、
「ミス・ブレナンは私達と一緒に」
そう仰せ付かった。
接客室のソファに、アリアと並んで座る。はす向かいに座ったチェンバレン氏は、さて、と話を切り出した。
「自己紹介は済みましたか?」
「ええ」
アリアが頷く。私からは名乗っていない気がするが、この際どうでも良い気がした。
「なら話は早いですね。貴女方二人には、旦那様の御婚約者、レイチェル・キーツ様を御迎えするという役目を担って頂きます。確かミス・ボーフォートは家事使用人の経験が御有りでしたね?」
「十七の頃よりアップルガース家で。十九からはオズバーン家に従事していました」
「結構」
アリアはこう見えてベテランらしい。大先輩だ。私の立場がますます危うくなった。
「それでは今日からこちらで働いて頂きましょう。使用人服は用意出来ていますね?」