執務九:僕だけのセバスチャン-4
「おや、旦那様もこちらに?」
セバスチャンが裏庭を訪れると、アデルがカエデの木を見上げて立っていた。
「ああ、急に懐かしくなって」
「わたしも丁度、ミス・ブレナンとこの木にまつわる御話をしましてね」
アデルは、ギクリと、肩をすぼめる。
「……どこまで話した?」
フフ、とセバスチャンは笑う。
「大丈夫ですよ、御坊ちゃん。御坊ちゃんが木から落ちた時、泣きながら御漏らしした事は話していませんから」
アデルは苦い顔をする。
「……こいつめ」
そう言って誤魔化す様に木の幹を叩く。セバスチャンは尋ねた。
「あの時は何故、木登りなど思い付いたのです?」
ん、と考えながら唸って、アデルは木を見上げた。
「お前を見返してやろうって気持ちが一番。あとは……お前に構って貰いたくて」
昔を思い返してか、鼻で笑う。
「お前に叩かれたのはショックだった。だけど、お前を憎む気持ちは無かったよ。たぶん、嬉しかったんだと思う」
二度、掌で幹を叩いた。
「あの時はお母様を困らせたくて、無理だと解ってて我が侭を言ったんだ。お母様の困る顔なんて見たくなかったはずなのに、変な話だろ? たぶん、あの時の僕は、お母様に叱って欲しかったんだ。だけどお母様は優しいから、そんな事出来なかった。それをお前が代わりに叩いてくれただろ。だから僕は、何だこいつ、って思うのと同時に、嬉しかったんだ」
アデルはセバスチャンに向き直った。日の光を反射して、湿り気を帯びた瞳が輝く。
「お前はどうして僕を叩いたんだ?」
「あの時、御坊ちゃんの泣き顔を見ていたら、どうしても叩きたくなったのですよ」
ニッコリと笑う。アデルも笑った。
「何だそれ。それじゃまるでサディストじゃないか」
どうでしょうね、と肩をすくめながら、セバスチャンは主に歩み寄った。
「衝動的にひっ叩きたくなりました。御坊ちゃんの情けない姿を見ていられなかったのか、それとも……」
カエデに腕を突き、アデルの顔を覗き込む姿勢になる。
「御坊ちゃんを無理矢理にでも振り向かせたかったのか」
アデルは木を背にして、セバスチャンの黒い目を見上げる。
「それじゃあ、僕らの目的は同じだった訳か?」
そう言いつつ、セバスチャンの胸を掴む。
「憶えてるか? 僕が木から落ちた後、お前に何をしたか」
「さあ、どうだったでしょう? 何せ頭を打っていましたから」
セバスチャンはとぼけてみせる。
「こうしたんだ」
そう言ってアデルは、背伸びをしてその唇を、セバスチャンの唇に触れ合わせた。暫く唇を重ね、踵を落として離れた。
「……お前が泣いているから、どうしたらいいか解らなくてしたんだぞ」
「……泣いていたのは貴男でしょう? ああ、でも思い出しました。貴男がわたしの上でお漏らしをなさるから、寝室に戻ってこの続きを……」
言葉の途中で、今度はセバスチャンからアデルの唇を吸った。強く吸って、離れ際、下唇を軽く噛み、弾いた。
「……この様に」
「……してないぞ、そんな事は」
アデルはそっぽを向く。
風が吹いて、上気した頬に髪が掛かった。