執務九:僕だけのセバスチャン-3
母親は大層感心していた。少し見ない間に、母親の元を離れようとしなかった息子が、使用人と打ち解けている。しかも母親の土産話を聞くより先に、
「お母様、チェンバレンがお菓子を焼いてくれたんだ! それとね、お母様。チェンバレンったら馬に乗るがすごく上手いんだよ! 一緒に乗せて貰ったんだ!!」
そんな事を自慢げに言うのである。驚きもしたし、嬉しかった事だろう。
「申し訳御座いません。奥様に断りも無く」
そう頭を垂れるチェンバレン氏に、
「良いのよ、チェンバレン。良くやってくれたわ」
母親は笑った。
母離れと言うには程遠いものだった。しかし、大きな成長である。母親もほっとした様子だった。
そこで、アデル坊ちゃんにもっと広い世界を見させようと、両親の間である事が決定された。それは許婚を取る事である。
相手はすぐに決まった。かねてより交友のあるキーツ伯爵家の愛娘、レイチェル嬢である。すぐに本人同士を会わせようという話になった。
キーツ伯爵家にはチェンバレン氏の同行が許された。これはアデル坊ちゃんたっての希望である。
「一緒じゃなきゃ嫌だ!」
そんな風に母親以外の人間を求めるのは初めての事で、この要求は快諾される。
そしてキーツ伯爵家に到着すると、当時の当主とレイチェル嬢と、そしてキーツ家の執事が出迎えた。
「かわいー!」
初対面からレイチェル嬢は変わらない調子だった。
「ねえねえ、君、おままごとしない? それとも着せ替えごっこがいいかしら?!」
当時十三歳。活発なレイチェル嬢に気押されて、アデル坊ちゃんは引き気味だった。
「レイチェル様。本日は昼食会で御座いますから」
執事が物静かに言う。この執事の名前をセバスチャン・リーと言って、白い髭を生やした立派な執事だった。今は他界してしまった様である。セバスチャンは当時レイチェル嬢のお目付役も兼ねていた。
「えー、つまんない、セバスチャン!」
「……セバスチャン?」
アデル坊ちゃんはその言葉を聞いて目を輝かせた。
「我が侭を仰っては行けませんぞ。レディたる者お淑やかになさらねば」
慎ましやかにそう忠言する。レイチェル嬢は口を尖らせて、
「もうッ。セバスチャンったらそればっかり!」
怒ってみせるが、それは反抗心からではなかった様だ。アデル坊ちゃんは、この二人の遣り取りとチェンバレン氏とを交互に見比べていた。
「あ、そちらの素敵な殿方は執事の方?」
「いえ、わたしはただの使用人に御座います」
チェンバレン氏は深く頭を下げた。
「ふーん、そうなんだ。あ、じゃあ、着せ替えごっこをしましょ?!」
レイチェル嬢にとって使用人とは遊び相手の事だった。有無を言わさずチェンバレン氏の手を掴むと、屋敷へ連れて行こうとする。
それを見たアデル坊ちゃんが慌てて叫んだ。
「駄目だよ!」
そう言ってチェンバレン氏のもう片方の手を掴み、
「これは僕の『セバスチャン』だぞ!!」
と言った。初めは何の事だか解らなかった。しかしよくよく考えてみると、アデル坊ちゃんは主の傍に居る人間の事を「セバスチャン」と呼ぶものと勘違いしたらしく、
「僕の『セバスチャン』を取っちゃ嫌だよ! 僕だけのセバスチャンなんだから!!」
そうして、チェンバレン氏の奪い合いになった。
それから間もなく、セバスチャンというのは人の名前だと解ったらしいが、それでも坊ちゃんはチェンバレン氏の事を「セバスチャン」と呼び続けた。
「何故でしょうねえ」
とチェンバレン氏は笑っていたが、私には何となく解る。
彼にとっては、母親の事を「お母様」と呼ぶのと同じく、身近に居て色々と世話を焼いてくれる肉親以外の人物に対して、親しみを込めた呼び方が「セバスチャン」だったのだ。彼は彼なりに、チェンバレン氏の事を名字で呼ぶのはおかしいと感じたのかも知れない。アデル坊ちゃんなりの愛情表現に他ならないのである。
「わたしも嬉しく思ったものですよ。旦那様がわたしに与えて下さった『あだ名』ですからね」
ちなみに、レイチェル嬢は未だにチェンバレン氏の名前が「セバスチャン」なのだと勘違いしているそうだ。
「ご馳走様でした」
私はチェンバレン氏に礼を言う。
「どう致しまして。もう宜しいのですか?」
「ええ。長々と失礼しました」
頭を下げて席を立つ。そろそろ仕事に戻らなければいけない時間だ。
満ち足りた気分でチェンバレン氏の部屋を出る事が出来た。やっぱり、彼らを見ていると心が和む。
主従を超えた絆。親子の様に、兄妹の様に、時に恋人の様に結ばれた固い絆。二人の間だからひしひしと感じるそれを、今日の話でより身近に感じた。
温かい気持ちで、私は仕事に戻った。