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執務九:僕だけのセバスチャン-2

 ビジネスの会合に子供を連れて行ける訳もなく、暫くの留守番を余儀なくされたのだが、坊ちゃんは聞かなかった。

「嫌だ嫌だ! 置いていかないで!!」

 そう言って母親に泣きつく。母親も困り果て、泣き止ませるのに必死だった。この時、黙って見ていたチェンバレン氏だったが、やおらに動き出し、泣きじゃくるアデル坊ちゃんを引き離して、突然、その頬を打った。

 この時、その場に居た全員が息を呑んだ。それはそうだ。使用人が無言のままに主人の子を平手打ちにしたのだから。これには母親もハッとして口に手をやり、アデル坊ちゃんも一瞬我が身に何が起きたのか解らず、泣き止んだという。

 誰にも叩かれた事の無い子供だった。頬を押さえ、漸くその痛みに気付いた時、一層大きく泣き出した。立ち尽くしたまま泣き喚いた。

「奥様。御坊ちゃんはわたしが責任を持って御世話致します。さ、早く御車へ……」

 そう言って深々と一礼するチェンバレン氏。母親は狼狽しながらも、

「え、ええ……」

 と泣き続ける息子に背を向けて、出掛けて行った。

 後々、チェンバレン氏のこの行為は、寧ろ母親から賞賛される。言って聞かない子にどうして良いか解らず、戸惑うしかなかった母親は、進んで憎まれ役を買って出たこの使用人に感謝さえしたのである。

 しかしそれ以来、当のアデル坊ちゃんのチェンバレン氏に対する態度は酷いものになった。躾というものを知らず、天真爛漫に生きてきた十一歳の少年は、自分を殴り付けた相手をどうしても許せなかった。

 主人夫婦が出掛けて以来、二人きりの時間が暫く続いたが、目すら合わせなかったと言う。口には出さなかったが、坊ちゃんは常に自分の傍を離れない使用人を疎ましく感じていた事だろう。子供部屋で遊ぶ時も、眠る時も、果ては便所に行く時にまで付いて来る。それがチェンバレン氏に与えられた仕事であり、最大限の奉仕活動だったわけだが、子供にとって彼は監視者でしかなかった。

 夫婦が出掛けてから数日後のある時、夜になって坊ちゃんが初めて口を利いた。

「喉が渇いた。飲み物を用意してくれ」

 夕食も終わり、これから就寝という頃だ。

「御坊ちゃん。寝る前に御飲み物を飲んではなりません」

 物怖じすることなくそう進言する。それでも坊ちゃんは頑として、

「五月蠅いッ。僕が喉が渇いたと言ってるんだぞ!」

 そう言い放つ。チェンバレン氏はすぐに何か思惑のある事と勘付いたが、しかし拒否権は無く、直ぐさま飲み水を取りに行った。そして水差しとコップとを持って戻った時、寝室から坊ちゃんの姿が消えていた。嫌な予感は的中した。

 しかしチェンバレン氏は使用人達に呼び掛ける事もせず、広い屋敷の中を一人で探し回った。

「騒ぎ立てれば思う壺。寧ろ暫く一人きりを味わうのも良いでしょう。そう思ったのです」

 だから慌てなかったし、焦りも無かった。そして屋敷中をくまなく見て回り、全ての部屋を回り終わったのは、誰もが寝静まった頃だった。

 ははあ、とチェンバレン氏は気付いた。恐らく外に出たものだろう。しかしそれでも尚彼は落ち着いていた。殆ど部屋を出ない様な子供が、夜更けに遠くまで行くものではない。チェンバレン氏は外に出て、屋敷の周りを捜索した。

 裏手に回った時、啜り泣く声が聞こえた。見ると、裏庭のカエデの木の上で、坊ちゃんが幹にしがみついていた。屋敷の周囲で使用人の目の届かない所を探した結果、木の上に落ち着いたのである。まさか木登りまでしてるとは、と驚かされもしたが、

「お休みの時間はとっくに過ぎて御座いますよ、御坊ちゃん。さあ、御遊びはこのくらいにして、降りていらして下さい」

 落ち着き払って頭上のアデル坊ちゃんに言った。

 しかし坊ちゃんは答えず、啜り泣くばかりである。この時、チェンバレン氏は彼の状況を理解して、笑った。

「降りられなくなってしまったのですね?」

 月明かりの中、初めて木に登り、降り方が解らず途方に暮れていたのだ。

「仕方の無い御子様ですよ」

 ワイアット卿の哀れな姿を思い出して、クスリと笑った。

 そこでチェンバレン氏は、自ら木を上って坊ちゃんを迎えに行った。手を伸ばせば坊ちゃんに届くと言う所まで上り、チェンバレン氏は手を差し伸べた。

「さあ、わたしと一緒に降りましょう」

 そう言うと、坊ちゃんはチェンバレン氏の手を叩いた。

「五月蠅いッ。お前の手なんか借りなくったって、僕は降りられる!」

 強がりを言う。降りられるならとっくに降りているはずなのにそんな事を言うのだから、若いチェンバレン氏は流石に少しばかり頭に来て、

「嘘を仰います! ならば自力で降りてご覧なさい!!」

 けしかける様な事を言ってしまった。こうなると売り言葉に買い言葉。坊ちゃんも怒って、

「見ていろ!!」

 怒鳴って、自らの身体を支えていた枝の上に立とうとした。足下は暗い。枝もそれほど太くなく、足を掛けようとしたが滑り、その身体が大きく揺らいだ。

「御坊ちゃん!」

 チェンバレン氏は咄嗟に坊ちゃんのシャツを掴み、彼の身体が落下するより先に自ら飛んで抱き抱えると、背中から落ちた。身を挺して坊ちゃんをかばい、こうして坊ちゃんは怪我一つ無く木から下りる事が出来た。

 この時既に坊ちゃんの身体は今と同じくらいに成長している。それを一身に受けて落ちたのだから、チェンバレン氏の身体は相当強か地面に打ち付けられたのである。

 さしもの坊ちゃんもこれには罪悪感を覚え、チェンバレン氏を心配した。しかしチェンバレン氏は坊ちゃんを抱き締めたまま、

「あまり御無理はなさいません様……」

 そう囁いた。そして坊ちゃんはチェンバレン氏の胸の中で大泣きした。

 夫婦が帰って来る頃には、坊ちゃんとチェンバレン氏とはある種の絆で結ばれていたと言う。

「わたしが『セバスチャン』と呼ばれる様になるのは、それからもう少し先の事ですが」

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