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執務七:それぞれの役目-4

「貴男は何処まで知っているの?」

 ミラー夫人はチェンバレン氏に向き直り、尋ねた。

「全て、存じ上げて御座います」

 そう、と言ってから、声を上げて笑った。

「じゃあ何も隠すまでもないわね。なら言うわ。あの子はワタシの子供じゃない」

「え? それじゃあ……」

 思わず口を挟んだが、二人とも注意しようとはせず、寧ろミラー夫人は頷いて、私に向けて話してくれた。

「あの子はね、ブライアンと前妻との間に出来た子供なのよ。あの子が生まれてすぐにブライアンの浮気が原因で離婚して、ワタシはその後釜。少し調べればすぐに解る事よ。独り身では体裁が悪いとでも思ったのかしらね。兎に角ワタシへの扱いは酷いものだった。ワタシなんて彼のお飾りでしか無かったのよ。馬鹿みたいな話でしょう? でもワタシは必死だったわ。お飾りはお飾りとして、役に立たなくちゃいけないから」

 彼女もまた、役目に従って生きたのか。私は、胸につっかえていたイガイガとしたものが取れた思いと同時に、今度は泥の様なものが溜まっていく様に感じた。

「そんな時に、あの子だけは……アデルだけはワタシを『お母様』と呼んで慕ってくれたのよ。ワタシはあの子に、嘘まで吐いて縋り付いた。みっともないわね。けれど、そうでもしなければやっていけなかったのよ。ワイアット家の中で、ワタシは独りぼっちだったから」

 私はもう、彼女を憎む事が出来ない。

「ブライアンが死んで、やっと解放されたと思った。自由になれたと思った。けど違った。ワタシはどんどん、ワイアット家の隅に追いやられていったの。アデルが当主として祭り上げられていく一方で、母親――いいえ、義理の母親は、不要な存在になっていった。あの子に必要なのは愛情ではなく教育。そうして追い出される様にして、ワタシはこの屋敷を出たわ。アディントンはワイアット家を見限ってワタシに付いてきた。彼は優秀よ。お金が絡むとね。彼がミラー公爵家を見付けて、ワタシを娶る様に仕向けたのだもの。その分、お金を要求されたのだけれど。だから、ワタシが褒美で彼を釣った訳では無いのよ?」

 冗談めかしてチェンバレン氏に言う。チェンバレン氏は頭を垂れた。

「存じて御座いました。しかし、ああでも言わなければアレが彼女らに何をしていたか……。アレがそういう男だという事は、良く知っていたもので御座いますから」

 チェンバレン氏はやはり、ワタシの代わりに殴られてくれたのだった。

「貴男は賢いわね。貴男が居てくれて良かったわ。お陰でアデルも良い子になって……」

「いえ、わたしなどは何も。旦那様は素晴らしい御方、それだけで御座います」

「そうね。あの人はあの人、あの子はあの子。ワタシがここを出ると決意した時も、そう信じられたのなら良かったのだけれど……」

 フ、と笑う。

「……皮肉ね」

「マダム・ミラー……いえ、大奥様。またいらして下さい。旦那様の為にも」

「いえ、もうあの子にワタシは必要ないでしょう」

 ミラー夫人はハッキリと言った。彼女もまた、我が子から決別する決心をしたのである。

「さよなら、チェンバレン。ワイアット卿に宜しくお伝えあそばせ」

 そう言い残し、ミラー夫人は去って行った。彼女はもう二度と、この屋敷の敷地を踏む事は無いだろう。


 ホールに戻ると、ジョンが居た。しかもモップを手に床掃除をしている。

「あ、こりゃどうも!」

 軽い調子で片手を上げて挨拶し、走り寄って来た。

「安心してくれよな。盗み見も盗み聞きもせず、真面目ーっに仕事してたからよ」

 ヘヘヘ、と笑い、鼻を擦る。怪しいものである。

「それとさ、チェンバレンさんよ。その件は悪かった。本当に申し訳ないと思ってる」

「……何の件ですかね?」

「いやあ、まさか一旦引き留めといて、一旦腰を落ち着かせた所を追っ払うなんてね。流石チェンバレンさんだ。人が悪い! 改めてアンタに付いていくぜ!!」

 褒め言葉になっていない。本当に何も聞いていないらしかった。

 何も知らないというのは、実は幸せな事なのかも知れない。

「ああ、その件ですか」

 チェンバレン氏は手を叩く。

「言われて思い出しましたよ。よくも散々に言ってくれましたね。何でしたか? 『犬っころ』でしたか?」

 ハハハ、と笑う。彼が笑う時ほど怖いものは無い。ジョンは土下座した。ワタシ――いやいや、私は思わず吹き出した。

 こうして、また一つ嵐が過ぎ去った。この晴天が、次の嵐の予兆で無ければ良い。そればかりを願っている。


「……行ったか」

 アデル・ワイアットは窓際で頬杖を突き、夕闇に染まりつつある空を眺めていた。

「その窓から見て御座いませんでしたか?」

 ギルバート・チェンバレンは主に聞き返す。

「見てない。見ていたら、泣いてしまいそうだったから」

「御強い事で御座いますね、御坊ちゃんは」

「皮肉を言うなよ。あんなの全部強がりだって解ってただろ」

 アデルの強がりは最初から始まっていた。

 母親に腕を広げられた時、本当は飛び込みたかった。

 理由を告げられた時、全て許してしまいたかった。

 母と呼んでくれと頼まれた時、そうしてやりたかった。

 見送ってやりたかった。

「強がりを言うのも、また一つの強さで御座いますよ、御坊ちゃん」

 執事は優しく語る。

「貴男もご存知だったので御座いましょう? 御母様の事を」

 フン、と鼻で笑い、詰まらなさそうに答えた。

「知ってるよ。僕の本当の母親じゃないって事も、あのミンスミートパイが本当は母の手作りじゃないって事もね」

 ふう、と息を吐いてから、でもね、と続ける。

「自分が生まれ育った家の事くらい調べるからね。でも僕はお母様をあのひと一人しか知らない。だからお母様はあのひとだけだ。ミンスミートパイは、それ以外のお母様の料理を見た事がない。お母様が厨房に立っているのも同様だ。けれど、誰が作ったのかは重要じゃない。誰と食べたかが大事なんだ。あの頃お母様と一緒に食べていたミンスミートパイ、あれが好きだったんだ」

「大好きなので御座いますね、お母様の事が」

 アデルは、五月蠅いな、と苦笑した。

「……大好きでも、離れなくちゃいけない事があるんだ。我慢しなくちゃいけない時がある。お母様は今やミラー公爵夫人。お父様の見栄に振り回される暮らしからやっと抜け出したんだ。後はこの屋敷と僕への未練を断ち切りさえすれば、もうお母様を縛り付けるものは無い。僕はそのお手伝いをしただけさ」

 ギルバートの方へ身体ごと向き直る。その顔は微笑んでいた。

 しかしギルバートは、少しも嬉しくなかった。

「今日はやけに饒舌で御座いますね」

「そうかな」

「ええ。それは照れ隠しでしょうか? それとも、悲しい御気持ちを誤魔化す為で御座いますか?」

「さあ? どっちだろう?」

 フフフ、と笑ってみせる。では、とギルバートは言う。

「確かめさせて頂きますか」

「どうやって?」

 アデルは尋ねる。ギルバートはゆっくりアデルの元に歩み寄り、腰を屈めた。

「こうやって……」

 前髪を持ち上げると、露わになった額に、軽くキスをした。そして指の背で、頬を軽く撫でる。すると、途端にアデルの目から、堰を切った様に涙が溢れた。

「あ、あれ? おかしいな……」

 流れ落ちる涙をその手で受け止め、目を擦る。それでも止めどなく涙が出てくる。

「何をしたんだよ。我慢していたのに……これじゃあ無駄じゃないか」

「魔法で御座います、御坊ちゃん。わたしが貴男にだけ掛けられる魔法です」

 うそぶいて、さあ、とハンカチを取り出して言う。

「今晩はミンスミートパイを焼きましょう。それまでに泣き止んで下さいませ。でなければ、せっかくのパイが塩辛くなってしまいますから」 

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