執務七:それぞれの役目-3
「お入りなさい」
ミラー夫人が言い、ドアが開かれた。そこに立っていたのはチェンバレン氏だった。
「おや、執事君。何の御用かな?」
アディントンが小馬鹿にした口調で問う。チェンバレン氏はアディントンを無視する形で答えた。
「マダム・ミラー、旦那様がお話をしたいと」
ミラー夫人は腰を浮かした。
「アデルが?」
「如何致しますか?」
狼狽しつつ、ゆっくりと椅子に腰を沈めながら、ええ、とミラー夫人は答えた。
「無論、構わないわ」
その言葉を聞くと、チェンバレン氏は一礼して部屋に入り、ワイアット卿を招き入れた。
ワイアット卿は先日新調したばかりの礼服に身を包み、ステッキを携えていた。少年らしくもあり、貴人らしくもある装い。アデル・ワイアット伯爵が其処に居た。
「先程は取り乱して大変失礼した、マダム・ミラー」
背筋を伸ばして部屋に入る。すかさずチェンバレン氏が椅子を差し出し、ワイアット卿はそれに腰掛ける。ステッキを渡し、肘掛けに腕を置いたその姿は堂々としていて、表情にも先程の悲しみなど一切消え去っていた。
「遠い所を僕の為にわざわざ出向いて頂き、光栄に思っていますよ、マダム・ミラー。先に御一報頂ければ、こちらもそれなりの御持て成しは致せましたのに」
「……貴男に断られるのが目に見えていたからよ」
ワイアット卿はクスリと笑う。
「確かに、それは認めざるを得ませんね」
母親に客人としての対応をしていた。ミラー夫人の表情が曇る。
「それと、我がワイアット家の執事がミラー家の者に無礼を働いた事、お許し願いたい」
ワイアット卿が詫びた時、アディントンはフンと鼻で笑った。
「何、ご心配には及びませんよ。ボクは少しも……」
「僕が話している相手はマダム・ミラーだ。出しゃばるな。もしその口を動かしたいのなら、僕の執事の頬に出来たアザについて説明するだけにしろ。でなければ黙れ」
ワイアット卿の剣幕に、アディントンは口を噤んだ。良い気味だ。チェンバレン氏も横目に見て、眉毛を吊り上げた。
「……さて、貴女の用件は何となく解った。僕がこのワイアット家の当主として相応しい器になっているか、気になったのでしょう?」
ミラー夫人が頷くのを待って、なら、と続けた。
「御心配は無用。僕はこの通りですから。勿論至らない点は多々ある。しかしそれは、この執事が補ってくれている。そしていつかは、彼無しでもこの家を守っていけるようになる。何故なら僕は、ワイアット家の当主、アデル・ワイアットですからね」
ハッキリと言い切った。ミラー夫人は目を伏せた。
「それでは……」
ワイアット卿は席を立ち、チェンバレン氏からステッキを受け取った。そしてくるりと踵を返し、ミラー夫人に背を向け、去ろうとした。
これが彼なりの決別だった。ワイアット卿の母親に対する想いは計り知れないものがある。けれど、その感情に押し流されたところで、誰の為にもならない。自らの為にも、そしてミラー家の夫人となった母親の為にも。彼もまた、役割を背負っているのである。
「……待ちなさい、アデル」
それを呼び止め、ミラー夫人は椅子を降りた。
「最後に一度だけで良い。ワタシの事を『お母様』と……」
ワイアット卿は戸口で立ち止まり、振り返ろうとして、やめた。
「御機嫌よう、マダム・ミラー」
そう告げて、出て行った。あとからチェンバレン氏が続き、一礼の後ドアを閉める。
残されたのはミラー夫人、アディントン、そして私の三人。部屋は沈黙が支配していた。ミラー夫人はドアを呆然と見詰め、アディントンは言葉無く立ち尽くし、私は無言を決め込んでいた。
「……アディントン」
不意にミラー夫人が口を開く。アディントンは裏返った声で返事をした。
「帰るわ。もうこんな屋敷に用はないもの」
ミラー夫人の見送りに、ワイアット卿は出なかった。代わりにチェンバレン氏と、短い間ながら世話をした私とが玄関口に立った。
「あの子はやっぱり出てこないのね」
ミラー夫人は名残惜しげに呟き、
「アディントン。先に行っていなさい。ワタシはチェンバレンと話があるの」
「は。しかし……」
「口答えは結構」
アディントンは恨めしげにチェンバレン氏を睨め付け、足早に自動車へ向かった。
ふう、とミラー夫人は一息吐き、チェンバレン氏に尋ねた。
「あの子はまだ貴男の事を『セバスチャン』って?」
チェンバレン氏が頷くと、
「そう。懐かしいわね。『僕だけのセバスチャン』か……」
何処か遠くを見て目を細める。
「言い訳がましく聞こえるかも知れないけれど、聞いて頂戴。ワタシは貴男達が思っている様な女じゃない」
次第に眉間に皺が寄り、口惜しげな表情に変わっていった。
「浮気癖が激しかったのはあの子の父親、ブライアンの方。でも彼が死んで、悪者にされたのはワタシだった。それはそうよね。此処はワイアットの屋敷なんだもの。ワタシはよそ者」
だからあれほど屋敷を悪し様に言っていたのか。
「ワイアット家がどれ程憎かったか。でも、あの子だけは違った。アデルだけは特別だった」
「ミンスミートパイ……で御座いますか」
「そう、ミンスミートパイ。あの子はワタシが切り分けたパイを、疑いもせず『お母様のミンスミートパイが一番美味しい』だなんて……」
そう言って、涙ぐむ。解らない。我が子を騙した事への後悔なら理解出来るが、その表情は微かに笑っているのだ。