執務七:それぞれの役目-2
この女が、伯爵の母親なのか。
「あら、その呼び方はもうやめて貰いたいわね。今はジョエル・ミラー公爵夫人、マダム・ミラーとお呼びなさい」
確かに、ワイアット卿と似ている。金髪に、つり目がちの青い目、色素が抜けた様な白い肌。認めたくないが、高飛車な喋り方もワイアット卿を思わせる。間違いなく母親だ。
「おいおい、ボクに挨拶は無いのかな?」
長い顎を突き出して、チェンバレン氏を見下す様な目付きで睨む。
「……久しぶりですね、トーマス・アディントン」
「『様』を付け忘れているぞ、バトラー。上司への口の利き方も忘れちまったと見える」
高慢な物言いでチェンバレン氏を罵った。
「じゃあ、あの人も元々はここの執事だったのかしら」
声を低くしてジョンに尋ねる。ジョンが首を傾げるや否や、アディントンは、
「ああ? 何だって?」
ぐるりと振り向いて、顔をゆがめて私を睨んだ。
「君も勉強不足だ。ボクはね、スチュワードなんだよ。バトラーと一緒くたにするなんて、浅学甚だしい」
早口に罵られる。流石の私もはらわたが煮え繰り返りそうになった。バトラーとスチュワードの違いくらい知っている。バトラーは主人の身の回りの世話が主たる仕事であるのに対して、スチュワードは屋敷を含めたその家の資産全てを管理する。今はこのワイアット家にスチュワードが不在の為に、バトラーのチェンバレン氏がその仕事も兼任されているが、権限で言えばスチュワードに劣る。屋敷の資産を動かす時は家長に許可を取らねばならない。――私は決して、勉強が足りない訳ではない。決して違う。思わず言い返しそうになるが、そこへ、
「『だった』を付け忘れてますよ、トーマス」
チェンバレン氏が横槍を入れた。たぶん、私が口を開くのを制止させるべく、そうしたのだ。
「貴男はもうワイアット家の人間ではない。貴男はご褒美に釣られて主人に背を向けた、駄犬です」
アディントンは再び首を回して、チェンバレン氏の方を向いた。そしてつかつかと歩み寄り、突然、チェンバレン氏の頬を殴り付けた。強か頬を打たれたチェンバレン氏は、右足で踏ん張って持ち堪えた。
「『様』を付けろと言っただろうが。尻尾を振るしか能の無い馬鹿犬がよ」
吐き捨てる様に言う。
「こら、アディントン。相手をするなと言ったでしょう?」
ミラー夫人は団扇で口元を隠して、ほほほ、と笑う。私もジョンも、この有様を見て、今にも二人に飛び掛かりたい気分を抑えていた。
そこに、
「何の騒ぎだ、セバスチャン?」
最悪のタイミングでワイアット卿がやって来た。チェンバレン氏が離れた上に、アディントンが大声を出したのを聞きつけて、不審に思ったのだろう。ワイアット卿の姿を見るなり、ミラー夫人は声をあげた。
「まあ。まあ、まあ、まあ。大きくなったのね、アデル」
嬉々として言う。ワイアット卿は目を細めた。
「お母様……?」
ワイアット卿は眉間に皺を寄せる。私の目には、それが悲しげな表情に見えた。しかしそんな機微など気付きもせず、
「そうよ。アデルに逢いたくて来たの。さあ、おいでなさい」
そう、ミラー夫人は腕を広げた。ワイアット卿は口の端を結んで、一層悲壮な顔付きをした。チェンバレン氏も表情を曇らせた。
「さあ、どうしたの? 久しぶりにお母様が抱いて上げるわ」
ミラー夫人は腰を屈め、尚も言う。アディントンはニタついていた。
なんと惨い事をする。
「……どうして今更現れたりするんだ」
「決まっているでしょう? 貴男が可愛いからよ」
「そんなに僕が可愛いのなら、どうして捨てたりしたんだ」
「捨てたんじゃないわ。貴男には少し親離れが必要だっただけよ。あの人も亡くなって、貴男が当主になって、それでも泣き暮れて、貴男はこの屋敷を守る立場になれなかった。だからワタシは泣く泣く貴男の元から去ったのよ。だから、さあ……」
「五月蠅いッ!!」
ワイアット卿は母親の言葉を遮り、怒鳴った。ミラー夫人は飛び上がる様にして驚いた。
「言い訳なんか聞きたくない。嘘なんか聞きたくない。今頃母親面をされて、嬉しい訳が無い」
涙を堪えているのが解る。心痛が、私にも伝わってくる。
「帰れ。あんたはお母様なんかじゃない。僕はワイアット家当主、アデル・ワイアットだ。母親なんか、もう要らないんだッ」
そう言い放つと、踵を返して走り去った。
残されたミラー夫人は、沈痛な面持ちだった。どんなに酷い母親でも、我が子にああも言われては傷付くのだろう。だが同情は出来ない。彼の前から姿を消した母親は、我が子の姿を見ていない。自らが居なくなる事で、彼がどれ程心に傷を負い、どれ程に家を守ろうとしているか。再び現れ、嘘か誠か解らない話をしたところで傷は癒えたりしない。寧ろ深く抉る結果を招く。知らないという事は、それだけで罪なのだ。
「……アデル」
ミラー夫人は呟いた。今になって胸が痛んでも、もう手遅れだ。それは、ワイアット卿の痛みに比べれば、微々たるものでしかない。
「ご主人様。お坊ちゃんは突然の事に心の整理が付かないのでしょう。ゆっくりゆっくり、ご理解を頂くしか御座いません」
アディントンはミラー夫人に歩み寄り、その肩をそっと抱いた。傷心の母親は口を開き、ほう、と吐息を付く様な、声にならない言葉で答えて頷いた。
「それじゃあ、執事君。部屋を一つ頂こうか。奥様がお泊まりだ」
チェンバレン氏に向けて、アディントンが言う。
しかしワイアット卿がああ言った以上、もう彼女らは「元ワイアット家の人間」ではなく、ただ突然来訪した者達に過ぎない。断る権利が生まれた。と言うより、主が彼女たちを拒んだのだから、断るのが当然。チェンバレン氏が首を縦に振るはずもない。そう思っていたが、
「宜しいでしょう」
「な……ッ」
声を上げたのはジョンだった。私も驚いた。
アディントンは礼も言わず、ミラー夫人を支えながら、チェンバレン氏に案内させ、客間に入った。
「どうしてなんだよ」
ジョンが険しい顔をしてチェンバレン氏に尋ねる。彼が食って掛かる姿など、初めて見た。チェンバレン氏はジョンの目を真っ直ぐに見据えたまま、答えなかった。
「坊ちゃんの言いつけだろ。それに逆らうってェのか?」
人差し指を突き付けて言う。
「俺ァ、これでもアンタを尊敬してたんだぜ? あんな坊ちゃんでも誠心誠意尽くしてるアンタを見てな、こりゃ大した人だと思ってたんだ。それが、前のご主人様が出て来たら掌返した様に……。アンタにャ失望したよ」
チェンバレン氏に背を向ける。
「……次の働き口が見つかったら辞めさせて貰うわ。これ以上、アンタの下じゃやっていけねェ」
言い捨てて、立ち去ろうとした。数歩進んだ所で一度振り返り、
「アンタはアイツの言う通り、尻尾を振るしか能の無ェ、犬っころだよ」
言い残して、去った。
ジョンを止めなくてはと思う。しかし、追い掛ける事が出来なかった。チェンバレン氏の元を離れる事が心苦しかったのだ。
私はこの数日、チェンバレン氏を――いや、チェンバレン氏とワイアット卿を見ているから解る。彼は常に、仕えるべき旦那様の事ばかりを考えている。彼の行動の源は全てワイアット卿だ。単なる忠誠心では無い、もっと深い何かを抱いている。それはそう簡単に覆されるものではないはずだ。今だってそう、きっとそうなのである。
「……貴女も行かなくて宜しいのですか?」
チェンバレン氏は言う。どうしてそんなに自分を追い込もうとするのだろう。私は頭を振った。
今彼の前から居なくなっては、彼は孤独になってしまう。ワイアット卿も、チェンバレン氏がミラー夫人に部屋を与えたと知っては、黙っていないだろう。その時、誰が打ちひしがれる彼を見るのだろう。誰が知るのだろう。誰かが、知らなくてはならない。そして知らせなくてはならない。その役目を、私は負いたいと願った。
「この屋敷に女は私一人ですから、私が居なくては、お母様のお世話を出来ないでしょう?」
チェンバレン氏は誰よりもワイアット卿を気遣っている。そんな彼の決めた事に逆らっても、誰の為にもならない。自らが望まない事でも進んで引き受ける。それが奉仕というものである。
チェンバレン氏は暫く黙って私の目を見ていたが、おもむろに口を開いた。
「……すみませんが、御願いします。わたしは旦那様にお話をしてきますので」
そう言って、地に足の付かない様子で立ち去って行った。
私のいれた紅茶は、割と好評だった。と言うより、酷評を貰わなかった、という方が正しいが。少なくとも、貴婦人の口に合わないものではなかった、と言う事ではある。
「紅茶も良いけれど、何か甘い物が食べたいわね」
もう立ち直ったのか、ミラー夫人は不意にそんな事を言い出した。
「そうだわ。ミンスミートパイが良いわ。暫く食べてなかったもの。材料は有るのかしら?」
「全て揃って御座います」
ミンスミートパイ――ワイアット卿の好物だ。彼は母親の作るそれが大好きだと言っていた。もしミラー夫人がミンスミートパイを作り、それをワイアット卿に振る舞う事が出来たら、少しは母親らしさを取り戻せるかも知れない。
「ねえ、アディントン。作ってくれる?」
疑問符が頭に浮かんだ。
「お作りしたい気持ちは山々で御座いますが、生憎近頃はそういう機会も無く、レシピも失念してしまいましたので」
アディントンが答える。
「あら、残念だわ。貴男が作るミンスミートパイ、美味しくってワタシ好きだったのに……。そういえばアデルも好きだったわね」
「ええ。お母様の作るパイは最高だと、毎日の様にお召し上がりでしたね」
「そうそう。ワタシも嬉しくなっちゃって、ついワタシが作ったかの様に言ってしまって」
なんて残酷な人達だろう。心臓を握り潰される思いで、そんな遣り取りを聞いていた。ワイアット卿の悲しげな横顔を思い出し、目頭が熱くなる。
だが、泣いてはいけない。今は感情に押し流されてはいけない。私は私の役目を果たさなければいけないのだ。
「どうでしょう、ご主人様。一度お屋敷に戻られては?」
「そうね。それも良いけれど、でも……」
アディントンの進言に、ミラー夫人は言葉を濁して答えた。
「……放って置けないわ、あの子の事」
ティーカップを置いて、窓の外に目を遣る。
「きっと今だって寂しい思いをしているはずだわ。だって、ワタシの子供だもの」
この人はこの人なりに、ワイアット卿の母親で居たいのかも知れない。子供を捨てる親の気持ちなんて理解出来ないが、しかし、愛情まで捨ててしまったのでは無い様だ。
ただ、やり方が間違っている。愛情はたぶん、与えるものではないのだ。
今頃、チェンバレン氏とワイアット卿はどんな言葉を交わしているのだろう。流石に、この状況ではチェンバレン氏もワイアット卿に強く出る事は出来ないだろう。だとしたら、悲しい。
と、ノックの音がした。