執務六:買い物騒動-2
「何か解ったのですか?」
チェンバレン氏は頭を振った。
「いえ、何も。四方手を尽くして調べましたが……」
「そうですか」
私はあまり残念に思わなかった。祖父ほどしっかりしていた人物が妄言を口にするとは考え難いが、何はともあれ、私は此処に居て働いている。きっかけなど些細な事だ。
おや、とチェンバレン氏が声を上げる。
「いらっしゃいませんね」
馬具店の前に来ていた。ワイアット卿は外に居なければ、窓から覗く限り店内にも見当たらない。周囲を見渡しても、姿も形も無かった。
「どちらに行かれたんでしょうね」
チェンバレン氏は焦りもせずに言う。
貴族の大手企業家が忽然と姿を消した。私が真っ先に思いついたのは、
「ま、まさか、誘拐ですか?!」
だとしたら大変な事である。が、チェンバレン氏は顔の前で二度手を振った。
「ただの迷子ですよ。不意に消えるのは御子様の特技ですから」
ハハハ、と笑う。主人にここまで言うのは、見くびっているのか、それとも絶対的な信頼からなのか。弱りましたね、と顎をさする。
「昼食に間に合わなくなってしまいますよ。わたしの」
ワイアット卿のアフタヌーンティーはこの際どうでも良いらしい。
そこへ、街頭演説の自動車が通りがかった。大型車にスピーカーを積み、何やら小難しい事を喚きながら徐行している。チェンバレン氏はひらめいて、人差し指を立てた。
『えー、迷子のお呼び出しを致します』
スピーカーから鳴り響くのは、チェンバレン氏の声。
『アデル・ワイアット様、アデル・ワイアット様。執事がお探しで御座います』
それを聞いた往来の人々がざわつく。忍び笑いが聞こえてきた。
『繰り返しお呼び出し申し上げます。アデル・ワイアット様……」
呼び掛けながらゆっくりと通りを進んで行く。その隣を私が歩いているのだが、これは流石に――。
その時、物凄い勢いでワイアット卿が走って来た。それはもう、血眼になって駆け寄って来た。
「セ、セバスチャン! やめてくれ! 恥ずかしいッ!!」
ワイアット卿は肩で息をしている。チェンバレン氏はその正面に腕組みをして立っていた。
「どちらへ行かれていたのです?」
静かな調子で尋ねる。ワイアット卿は怯えた目付きで見上げながら、
「……馬具を見ていたら、通りから甘い匂いがして来たんだ。それについ釣られて行ってみるとパン屋があって、その隣の店がウェディングドレスが売っていて、それから少し戻ろうとして気付いたら知らない道に入ってて……」
「旦那様」
言葉を遮られ、ワイアット卿はびくりとした。
「わたしがどれ程心配したか、お解りで御座いますか」
あれだけ派手な事をしたのだから答えは「小程度」だが、叱られている少年はそれを指摘する事も出来ず、しゅんとした。
「……ごめん」
呟く様に言って、目を伏せる。長い睫が微かに震えていた。チェンバレン氏はしゃがみこみ、ワイアット卿の目を覗き込む。するとワイアット卿は目を逸らした。
「目を逸らさないで」
チェンバレン氏はワイアット卿の頬を両手で押さえ、顔を正面に向けさせた。
じっと目を合わせて、チェンバレン氏はその視線を、真っ直ぐワイアット卿の瞳に注いだ。そして不意に手を放すと、小さな身体を抱き寄せた。
「貴男が居なくなったら、わたしはどうしたら? 何処に行けば? 行き場所など有りません」
ワイアット卿は呆然とした。
「約束して下さい。一生涯、わたしを傍に置いて下さると。わたしから離れないと。わたしを、貴男だけのセバスチャンで居させて下さると」
ぎゅっと抱き締めて言う。それは私が聞いた彼の声の中で、一番悲痛で、一番本音に近いものだった様に思う。
もしかすると、彼は彼なりに、この間の喧嘩で傷ついて居たのだろうか。チェンバレン氏はたぶん、ワイアット家から、いや、アデル・ワイアット伯爵少年の元から離れる事を、最も恐怖に感じているのかも知れない。
ワイアット卿は鼻を啜った。
「……ごめん、セバスチャン」
そして大粒の涙が白い頬を伝った。滴がぽたりとチェンバレン氏の肩に落ちると、チェンバレン氏は身体を離して、
「おやおや、近頃は泣いてばかりで御座いますね」
と、笑いながらハンカチを取り出し、ワイアット卿の顔を拭った。途端にワイアット卿は声を上げて泣き出し、今度は逆に、チェンバレン氏の胸に飛び込んだ。
「ごめんよセバスチャン。もう一人にしないから。ずっと傍に居るから。だから僕の事も一人にしないで……」
泣きじゃくり、しゃっくりの合間合間に謝る。ワイアット卿もまた、迷子になって寂しかったのだろう。彼はまだ子供なのだ。
チェンバレン氏は、我が子の様に背中を叩きながら、
「大丈夫です。大丈夫で御座います」
困った様に笑った。
私は期待している。この二人の関係に、何かを求めている。伯爵と一般階級、主人と執事。絶対的な上下関係、主従関係にあって、それらを超越した信頼関係、絆というものを、見てみたくなる。
いや、たぶん本当の私が思っているのは、そんな事ではない。もっと非常識的で、背徳的で、それでいて、情熱的なものが、彼らにあって欲しいと願っている。
そんな私は、いけないだろうか。
さあ、とチェンバレン氏が言う。
「馬具を見に行きましょうか」
ワイアット卿は、子供らしい、愛くるしい笑顔で頷いた。