執務五:ならぬ喧嘩をする喧嘩-3
「アフタヌーンティーの時間で御座います」
「もうそんな時間か」
ワイアット卿はバリッとアイロンの掛かった新聞を閉じると、腕時計を見つつ言った。何だかすっかり丸くなっている。妙に大人ぶって見えた。
カップに紅茶を注ぎ、角砂糖を二つ落とす。
「すっかり様になって来たな」
「左様で御座いますか? ありがとう御座います」
執事気分に浸りながら、紅茶をテーブルに置く。ワイアット卿はカップを手に取り、その香りを楽しんだ。
「良い香りだ。葉っぱを変えたのか?」
「いえ、いつものものに御座います、旦那様」
一口含むと、ん、と短く唸った。
「美味しい」
素直に感想を言う。何だかしおらしく見えるのは、たぶん落ち込んでいるからではない。
「今日のおやつで御座います」
パイにナイフを入れると、甘い匂いが立ち上った。
「ミンスミートパイか」
「はい。旦那様がお好きだと伺ったものですから」
ワイアット卿は目を見張り、私のナイフ使いをじっと見詰めて、待ち切れないのか、そわそわと居住まいを正した。皿に一切れ乗せ、差し出す。するとすかさずフォークを取り、一口目を食べようとした。余程好きなのだろう。
だがワイアット卿のフォークは、パイ生地に刺さるか刺さらないかのすんでの所で止まっていた。
「お母様の作るミンスミートパイが好きだった」
やおらに語り出す。
「いつもねだっては作ってもらっていたよ。お母様のミンスミートパイは、他の誰が作るそれより、特別美味しかった」
一度フォークを置いて、パイを眺めた。その姿は母親を思い出す子供のそれでしかなくて、私は思わず尋ねた。
「お母様はどうなさったのですか?」
「出て行った。お父様が亡くなった、次の日にね。僕に理由も告げず、居なくなってしまったんだ。けど、僕は知っている」
パイから目を離し、顔を伏せた。
「……お母様は、浮気をしていたんだ。男の所に行ったんだと思う。ミンスミートパイの作り方のメモだけ残してね」
「それは……無礼な質問を致しました。お許し下さい」
「良い。周知の事実だ。今更隠す事でもない」
目を閉じ、きつく結ぶ。涙を堪えている様だ。
「……お食べにならないのですか?」
「食べるよ」
顔を上げて、フォークを使う。一口頬張って、ゆっくり味わった。それを飲み込んでから一言、
「……解った」
フォークを置いて、立ち上がる。
「これはセバスチャンの仕業か?」
「その通りで御座います、旦那様」
扉を開け放ち、チェンバレン氏が戸口に立っていた。
「通りで……」
ワイアット卿は眉間に皺を寄せ、私とチェンバレン氏とを睨む。
「紅茶は完璧だった。パイも、お母様が作ったものと同じ味。これが作れるのはたった一人だ」
チェンバレン氏は一礼した。
「左様で御座います。紅茶をいれたのはわたし、ミンスミートパイを焼いたのもわたしで御座います」
平素通りの口調で言う。
「旦那様。貴方様が、もし休めと仰るなら、わたしは徹底的に仕事を致しません。もし要らぬと仰るなら、わたしは消え去りましょう。旦那様の御命令は絶対で御座いますから。ただ……一つだけ御注意致しましょう」
上げた顔は微笑していた。
「貴男は絶対に、後悔する」
ワイアット卿とチェンバレン氏は暫く目を合わせたまま、無言だった。この二人は、ただの主従関係に無い。その実態は知り得ないが、たぶん、一言で括る事が出来ない複雑なものだ。
「……解った」
ワイアット卿は腰を下ろした。
「僕の元に戻れ。そして毎日最高の紅茶を入れてくれ。……正直、もううんざりしていた」
こうして、地獄の日々は終わりを告げた。
「……謝らなければ、戻ってこないと思った」
アデルは浴槽に浸かり、目を閉じていた。
「わたしはそれほど意固地では御座いませんので」
ギルバートは主人の背中を、布巾で擦っている。
「これで良く御解りになられたでしょう? わたしがどれだけ貴男に必要か、わたしが居なければならないという事が」
「ああ。痛感している。僕が悪かったよ」
フフ、と執事は笑う。
「御坊ちゃんは素直な御子様に御座いますね。普段からそうで居てくれると助かるのですが」
そうだな、とアデルは呟く様に答えた。
「……僕は、間違っていたんだろうか」
低い声で語る。
「レイチェルに言われた。『言い訳にしか聞こえない。嫌いになったのならそう言えば良い』ってね。嫌いになった訳じゃ無いのに」
ギルバートは手を止めた。
「……本当の御気持ちは、どうなのです?」
「本当は……本当は、彼女と結婚したい。一緒に居られるだけで良いんだ。僕、好きなんだよ。レイチェルが必要なんだ」
告白して、大粒の涙を落とした。クスリ、とギルバートは笑う。
「素直な御坊ちゃん……素敵で御座いますね」
自らの服が濡れるのも構わず、背後からアデルの肩を抱く。
「わたしにもそれくらいの、熱い言葉を頂きたいものです」
「……冗談はよせ、セバスチャン」
顔が上気しているのは、風呂の熱が全ての理由ではない様だった。
「やっと『セバスチャン』と呼んで下さいましたね」
背中に胸をぴたりと付け、アデルの首の前で腕を交差させる。アデルはぞわりと震えた。
「僕には、お前が必要だ、セバスチャン」
「ありがとう御座います。どうか御忘れの無き様御願い致します。貴男がわたしをセバスチャンと呼び続ける限り、わたしは貴男だけのセバスチャンで御座います」
幾日かぶりに耳元で囁く。少年は笑った。
「……うん」