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執務五:ならぬ喧嘩をする喧嘩-1

 翌日のワイアット邸は、大荒れだった。

 レイチェル嬢とどの様な会話がなされたのかは知らないが、ワイアット卿は酷く落ち込んでいた。無気力甚だしく、勉強もしなければ、あれほど好きだと豪語していた乗馬も気が乗らないらしい。しかもそれが元になってか、カリカリとしていた。

「腹が減った。何か甘いものが食べたい」

 掃除の指揮にチェンバレン氏があたっている所に、ぬっ、と現れて、突然にそんな事を言う。

「駄目です。アフタヌーンティーの時間まで我慢して下さい」

 チェンバレン氏ははっきりと言う。だがワイアット卿は非常に反抗的だ。

「五月蠅い。僕が食べたいと言っているんだから何か作れ。ミンスミートパイが食べたい」

「お断りいたします」

 チェンバレン氏はきっぱりと断る。ワイアット卿は舌打ちを一つして、踵を返した。普段なら喚き散らすだけに、彼の苛々はたちが悪い様だ。

 そしてチェンバレン氏もまた、かなり機嫌が悪かった。

「ミスター・ジョン! サボタージュは良い加減になさい!!」

 ジョンは飛び上がり、ひい、と悲鳴を上げた。

「三日間ばかり食事抜きに致しましょうか?」

「し、死んでしまいますよぅ……」

「なら四の五の言わずに、働きなさいッ!!」

 鬼だ。鬼が居る。ジョンは慌てて逃げ出した。逃走しつつ、モップ掛けをしている。意外と器用な男らしい。

「……どうかなさったんですか?」

 恐る恐る訪ねてみる。

「どうもなさいません!」

 とばっちりを食った。

「……ああ、いや……。旦那様があんな調子ですからね。少し……」

 気持ちは解る気がする。彼にとってもとばっちりだったのだろう。言い返された方が気持ちは良いのかも知れない。やはりそこは、相手が子供だからというのが大きいだろう。

 しかし、私にはもっと根の深い何かがある様に思えて仕方なかった。もしかすると、これは邪推なのだろうが、昨日キーツ伯爵から言われた一言が、チェンバレン氏には気掛かりなのかも知れない。私にはどういう意味かさっぱり解らなかったが、チェンバレン氏にとっては違ったのだ。たぶん、そういう事だろう。

「わたしがいけませんでしたね。五十万ポンドの件で、随分と責め立ててしまいましたから……」

 彼の口から後悔の言葉が出るのを、私は初めて聞いた。事態は深刻な様だ。

 とは言っても、私は見守る事しか出来ないのだが。

「おい、アフタヌーンティーはまだなのか?」

 ワイアット卿が急に引き返して来て、やおらに訪ねる。

「あと二時間も御座いますよ、旦那様」

 チェンバレン氏はうんざりした様子だ。

「我慢出来ない。甘いものは良いからせめて紅茶をくれ」

「旦那様、もうすぐ御勉強の時間で御座います。家庭教師が……」

「なら良い。お前がやれ」

 私を指さして言う。ぎょっとした。

「旦那様!」

「僕は主だぞ。主が使用人に命じて何か悪い事があるか」

 それだけ言って、さっさと部屋に戻って行った。残されたチェンバレン氏はこめかみを押さえていた。


「旦那様、お茶をお持ち致しました」

 居間の扉をノックすると、中から入室を許可する声が返ってきた。

「失礼致します」

 扉を開くと、ワイアット卿は向かいの窓辺に腰掛けて、頬杖を突き、ぼんやりと窓の外を眺めていた。おずおずと立ち入って、テーブルの上でカップに紅茶を注ぐ。

「お持ち致しますか?」

「ああ」

 紅茶を差し出すと、外を見ながら腕を伸ばして受け取った。そしてゆっくりとカップを口元に持って行くと、

「香りが無いな。それと、熱すぎる」

 と、低い声で言った。

「も、申し訳御座いません。不調法で御座いました……」

「……別に良い。だがそんなんじゃレイチェルの……」

 レイチェルか、と繰り返し、溜息を吐いた。自分の言い出した事に傷ついている様だ。

 部屋を後にすると、そこにチェンバレン氏が居た。

「どうでしたか、旦那様の御様子は?」

 この屋敷でワイアット卿を一番気遣っているのは彼だ。けれど今のワイアット卿は誰の気遣いも受け入れない。すごく嫌な予感がする。

 ううん、と唸りながら腕組みをする。

「仕方ありませんね」

 そう言うと、勢い良く居間の扉を引き開けて、大声を上げた。

「旦那様、何をしていらっしゃいますか!」

 ワイアット卿はチラリとチェンバレン氏を見たが、またすぐ視線を窓の外に向けた。

「しっかりなさいませ。自分の言った事に責任は持つべきでしょう?」

 チェンバレン氏は強い口調で言うが、ワイアット卿は答えない。それどころか、

「……レイチェルは今頃どうしているだろう」

 などと感傷的な事を言い出す始末だった。

「そちらは南。キーツの御屋敷は西に御座います」

「知ってるよ。そんな事は」

「ならばしゃんとなさる事です。いつまでそうやっているおつもりで?」

 ワイアット卿は、フン、と鼻で笑った。

「お前は僕に厳しいな」

「執事で御座いますから、旦那様を叱るのもわたしの仕事で御座います」

「そうか。解った」

 そう言って、ワイアット卿は振り返った。泣いていたのか、目元が少し赤い。

「なら良い。暫く休め。僕の世話は当分の間しなくて良い」

「何を仰います」

「良い機会だろ、ギルバート。少しの間で良いから、僕の事は放っておいてくれ」

 そう言われて、ついに耐えかねたチェンバレン氏は答えた。

「……かしこまりました」

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