ぼく と ぼく と ぼく
ぼくは卵を産んだ。
どうやって産んだのかわからないけれど、朝起きたら、ふとんの上に卵がふたつならんでいた。野球ボールみたいな玉がふたつ、ころころって。
両方の手のひらにひとつずつ乗せてじっと見ていると、ものすごい勢いでお母さんの足音が近づいてきた。
「ユウくん、いつまで寝てるの! もうすぐ六年生なんだから自分で起きなさい! 遅刻するわよ!」
時計を見たらもう八時になろうとしていた。あわてて立ち上がったぼくを見て、おかあさんは「早くしなさいね」といっていなくなった。
ぼくは卵を窓辺に置いて急いで着替えた。
○
「ただいまー」
学校から帰ってきて玄関を開けたとたん、あまくておいしそうなにおいがした。クッキーだ。お母さんがクッキーを焼いたんだ。
ぼくは靴を脱ぎ捨ててキッチンにかけこむと、お皿に山盛りになっているクッキーに手を伸ばした。
「ユウくん、おかえりなさい……あっ、だめよ! 先に手洗いうがいをしてきなさい!」
肩をつかまれ、洗面所の方に向きを変えられた。ぼくはちょいちょいと手と口をぬらしただけでキッチンにもどった。
「早いわね。ちゃんと洗ったの?」
「うん!」
「おなかいっぱいになるまで食べちゃだめよ」
「わかってるって」
「ああっ、もう。靴も服もちらかして。使ったものは片づけなさいって言っているでしょう?」
「あとでやるよ~」
お母さんはホットミルクのマグカップをぼくの前にことりと置いた。
「食べ終わったら宿題をやってしまいなさいね」
「うん、やるやる~」
庭で洗濯物を取りこんでいるお母さんの背中をぼんやり眺めながら、クッキーをサクサク食べる。かみくだく前にホットミルクを口にふくむと、あまさがほろりと広がってすごくおいしい。サクサク。ゴクゴク。パクパク。
おっと、いけない。もう少しでお皿を空にしてしまうところだった。全部食べたらきっとしかられる。おなかいっぱいだし、もうやめておこう。えっと、でも……あと一枚だけ食べてからにしようっと。
○
「ユウく~ん。ごはんよ~」
お母さんの声が、ぼくの部屋へと近づいてくる。
「宿題は終わった? ……あらやだ、寝てたの?」
耳元で響く声に跳ね起きる。
あ……いけね。マンガによだれが……。
「……ユウくん、宿題は?」
「えっと、まだ……」
「やるって返事したわよね?」
「マ、マンガ読んでからやるつもりだったんだよ……」
「まったく。もういいわ。先にごはんを食べちゃいなさい」
お母さんは「なさいなさい星人」だ。すぐに「なになにしなさい」っていう。ぼくのやることが全部きらいみたいだ。
そのとき、窓の辺りでピシッとひび割れるような音がした。
「ほら、早くしなさい」
さっきの音が気になったけど、「なさいなさい星人」がせかすから、ぼくはそのまま部屋を出た。
○
ごはんは半分くらい残してしまった。
「ほらあ、クッキーを食べすぎなのよ。だから言ったでしょう、おなかいっぱいになるまで食べたらだめよって。まったく、ユウくんは――」
「ごちそうさまっ!」
また「なさいなさい星人」が出てきそうだったから、ぼくはあわてて部屋にもどった。
そしたら――
――――ぼくがいた。
もっとくわしくいうと、ぼくと、ぼくがいた。
あ、いや、もっとちゃんというと、ぼくと、ぼくと、ぼくがいた。
つまり、この「ぼく」をふくめて三人の「ぼく」がいたんだ。
「ぼく」は、机に向かう「ぼく」と出しっぱなしにしていたマンガやおもちゃを片づける「ぼく」をぼんやり見ていた。
……なんだこれ。ややこしいな。
よし、こうしよう。ぼく本体を一号、机に向かっているのを二号、片づけをしているのを三号とする。正直、二号と三号の区別はつかないんだけど、まあいいだろう。
二号の手元をのぞきこむと、算数ドリルが開かれていた。そして、さらさらと鉛筆をはしらせている。
「えらいぞ、二号! 今日の宿題がもう終わりそうじゃないか!」
一号のぼくがほめているのに、二号は振り向きもしないでドリルのページをめくった。
三号はといえば、マンガやおもちゃ、携帯ゲームなんかをきちんとしまって、いつの間に持ってきたのか掃除機までかけ始めた。部屋がピカピカになっていく。
すると、窓の辺りでカチャカチャとなにやら硬いものを吸いこむ音がした。なにか大事なものを吸いこまれていたら大変だ。
「三号、ちょっと待て」
声をかけても動きをとめないから、無理やり掃除機をうばってスイッチを切った。三号は特にいやがる様子もなく、無表情でつっ立っている。床にはいつくばってよく見ると、卵の殻が破片になって散らばっていた。
え? もしかして――?
立ち上がり、窓辺を見た。
――ない。今朝置いておいた卵がない。あの、まん丸い、ころころの卵がない。
まさか……な。
三号は掃除を再開した。その肩に乗っている卵の殻の破片をつまみとってやった。ついでに、二号の頭に乗っているそれもとってやる。
やっぱり卵から生まれたのかなあ? 卵よりずいぶん大きいけど、生まれてから育ったのかなあ? これだけぼくに似ているんだからきっとそうなんだろう。ぼくもお父さんにそっくりって言われるし。ぼくの卵たちがぼくに似ているのは当然なのかもしれない。しかも、ふたりとも「ぼく」なんだ。ということは……
ぼくはすばらしいことに気がついた。
これはいいぞ! ぼくは思うぞんぶん、マンガを読んで、ゲームをして、好きなことだけできるんだ!
ただ二号も三号もしゃべらないし無表情だから、学校に行くのはぼくの役割だ。授業はつまらないけど、友達と会えるのは楽しいから、そんなのはぜんぜん構わない。
二号、三号は外に出ようともしない。まだ生まれたてだからなのかもしれない。だけど、それでじゅうぶんだ。
ぼくは自由を手に入れた。
○
「ただいまー」
玄関を開けたとたん、あまいにおいがした。
これは、クッキー? いや、ドーナツだ! お母さんの作るドーナツも最高なんだ!
ぼくは靴を脱ぎ捨て、ランドセルも廊下に転がして、キッチンに飛びこんだ。三号とすれちがう。靴をそろえ、ランドセルを部屋に運んでくれるのだろう。
もう何週間もたつから、ぼくも二号も三号もすっかりこの生活に慣れた。
テーブルに向かうとさっそくドーナツにかぶりついた。ドーナツとホットミルクの組み合わせも抜群だ。
でも、なんだろう。クッキーよりおいしいはずのドーナツはなんだかポソポソしていて味がしなかった。
部屋に入ると、もう二号が宿題を始めていた。ぼくはベッドに寝転がってマンガを読む。なかなかページが進まない。
なんか変なんだ。このごろ、マンガを読んでも、ゲームをしても、ちっとも頭に入ってこない。
好きなことだけをやっているはずなのに、好きなことまで好きじゃなくなってしまったみたいだ。
○
靴や服を脱ぎ散らかしていても三号が片づけてくれるし、宿題は二号がやってくれるし、おやつを食べすぎれば二号か三号のどちらかが夕ごはんを食べてくれる。
お母さんは「なさいなさい星人」にならなくなった。だって宿題は二号がやっているし、片づけは三号がやっているのだから。しかられなくなったのはいいのだけど、ほめられるのはいつも二号か三号だ。
「まあ、もう宿題を終えたの? えらいわねぇ」とか。
「あら、いつも部屋を片づけていい子ね」とか。
ぼくがやれば、ぼくがそう言ってもらえたのだろうか。お母さんはもうぼくのことなんかどうでもいいんだろうか。
ぼくが一号だってこと――ぼくが本物だってこと、お母さんにはわからないのかもしれない。
○
「ただいまー」
ぼくは帰ってくると、脱いだ靴をそろえて置き直した。ランドセルを部屋に持っていき、宿題のプリントとふでばこを持ってキッチンに向かう。とちゅうの洗面所で手洗いうがいもした。
おやつはマフィンだった。夕ごはんが食べられなくなるといけないから、一個でがまんした。食べ終わると、食器を流しに運んで、テーブルで宿題を始める。
お母さんはちょっと不思議そうな顔をしていたけれど、特になにも言わずに庭に出て洗濯物を取りこみ始めた。
さっき、ぼくは思い切って二号と三号を部屋に閉じこめた。
閉じこめるのは簡単だ。あいつらは聞き分けがいい。出てくるな、と言えば出てこない。今ごろ、二号はドリルを解いて、三号は掃除でもしているのだろう。
プリントの問題を解き終わったころ、おいしそうなにおいがしてきた。今日はカレーなんだ。ぼくの大好物。お鍋をかき回すお母さんの横に立って、カレーのにおいを吸いこんだ。お母さんはちょっと笑って「宿題は終わったの?」と聞いた。
「うん。いま終わったとこ」
「そう。えらいわね。がんばっていたものね」
そう言って、おたまを離してぼくの頭をなでてくれた。
「靴もランドセルもちゃんとかたづけて、ユウくんはえらいえらい」
「うん……」
ギューッて抱きしめてくれたお母さんのエプロンからタマネギのにおいがして、鼻の奥がツンとした。
なんかもう、よくわからないんだけど、頭の中とかおへその奥とかいろんなところが、あまいのと苦いのが混ざって、息が苦しくなって、泣きそうだった。
「あのね、お母さん」
「うん?」
「ぼく、これからはちゃんとがんばる」
「ううん?」
おなべがボコボコいって、お母さんはぼくから離れてコンロの火を止めた。さっきまでお母さんとくっついていたところがスースーする。
「えっとね、ぼくの部屋に来て」
「いま?」
「うん。いま。それで、本物を選んでほしいんだ」
「本物? なんのこと?」
ぼくは返事をしないで先に部屋に向かった。二号と三号を立たせ、三人で並んでお母さんが来るのを待った。すぐにトントンとノックされてドアが開いた。
「あら! まあ、まあ、まあ!」
ぼくら三人を見たお母さんは、両手で口元をおおって、目をパチパチさせている。
ぼくは二号や三号のようにしゃべらないで無表情で立っている。これでまったく同じに見えるはずだ。ぼくが見ても見分けがつかないくらいそっくりの三人。お母さんにわかるはずはない。
でも選んでほしかった。三人の中で、ぼくは一番ダメな「ぼく」だけど、それでも選んでほしかった。
お母さんはなぜだか楽しそうに「へえ~」とか「ふ~ん」とか言いながら三人のぼくらを眺めている。そして、突然手をたたいて「そうだわ、本物を選ぶんだったわね」といった。なんだよ、そのために見比べていたんじゃなかったのかよ、と力が抜けそうになる。
「では、選びます。本物のユウくんは――ドロロロロロロロロ……」
ぼくがどんなにドキドキしているか知りもしないで、お母さんはドラムロールの口真似をして、ぼくらの背後を行ったり来たりしている。ぼくはギュッと目をつむった。
「ジャーン! 本物はこの子です!」
後ろからギューッと抱きしめられた。閉じたまぶたのすき間からお湯みたいに熱い涙がドバドバ流れた。
「やあだ。なに泣いてんのよ~」
お母さんが大笑いしながら、タマネギくさいエプロンでぼくの顔をごしごしこする。
「ばかねぇ、自分の子くらい、ひと目でわかるわよ」
目を開くと、二号と三号がなんとなく悲しそうな顔に見えて、申しわけない気分になった。だって、二号や三号の方がぼくよりずっと一号に向いているのに。ずっとずっといい子なのに。
「でもね」
お母さんがぼくを抱きしめたまま続ける。
「この子たちもユウくんよ」
そう言って、三人まとめて腕の中に囲われた。
お母さんの腕の中はせまくて、暑くて、苦しくて、タマネギとカレーのにおいがした。
「だいじょうぶ。お母さんは、どんなユウくんだって大好きよ」
――ポンッ。
しゃぼん玉がはじけたようにそっと空気がふるえた。
「――あら。ひとりにもどったのねぇ」
二号と三号が消えていた。
「さ、ごはんにしましょ」
なにごともなかったかのように、お母さんが部屋を出ていく。ぼくは、その背中を追う。
「お母さん、おなかすいた! ぼく、今日は三人分食べるよ!」
ぼくのおなかがグーッと大きく鳴った。
○ おしまい ○