死神のお仕事
ある街のある家にいつもと変わらぬ朝がきた。
昨夜セットしていたアラームで自力の起床を果たしていた兄・雪斗は妹たちよりもひと足先に階下へと下りていた。
時刻は七時。
母親がチラリと時計に目をやってから二階で眠っている妹たちを起こしにいった。
軽い足取りで階段を上がるとドアがしっかりと閉じられている一室の前で止まった。
「雪菜・雪音いつまで寝てるのよ。早く起きないとお兄ちゃんに笑われちゃうわよ」
家中に響き渡る母の声は熟睡していた妹たちの耳にもしっかりと届けられ、まだしっかりとくっついたままの両瞼を手で擦りながら少しずつ開いていく。
「は~い。雪菜顔洗いに行くよ」
「ふぁぁぁ・・うん。雪音を洗いに行こ」
「私を洗ってどうすんのよ」
寝ぼけている雪菜に対するツッコミ・・・にしては少々強めの一撃は意識をハッキリとさせるにはちょうど良かったらしく半目だった目がしっかりと見開かれていた。
「いった~い・・ぶたなくたっていいじゃない」
「ほらほら、双子なんだから少しは仲良くしなさいね」
階下まで聞こえてくる三人の仲むつまじい会話を聞きながら雪斗は微笑んでいた。
毎朝のこの会話が何故だか心を温かくしてくれる。
そんな情緒に浸っていると騒がしい物音とともに中学の制服に身を包んだ見た目そっくりな二人が降りてきた。
「兄貴おはよう」
「お兄ちゃんおはよう」
静かな朝を迎えることは多分一生無いだろうと思いつつも、雪斗の横顔は毎日迎える今の朝に満足しているようだった。
「朝のあいさつくらいちゃんと目を見て出来ないのかしらね」
「だって急がなきゃ時間がヤバいんだもん」
「お母さんお兄ちゃん、ごめんなさい」
「一人だけ良い子ちゃんぶるなよ」
「別に良い子ちゃんぶってなんて・・・」
「もういいから座ってご飯食べなさい」
『は~い』
ようやく落ち着いてご飯を食べ始めた二人を横目に微笑みながら、雪斗も自分の目の前に並べられたご飯を食べ始めた。
静かな時間がほんの少しだけ続いたが、それもすぐに終わりを向かえる。
「そう言えば兄貴って今いくつだっけ?」
「ん?」
「そうね~、高校三年生だからもう十八歳になるはずだけど」
「結構いい年になったわけだ」
「大きなお世話だ」
「まぁ本当なら恋人の一人くらいはいてもいい年頃なのは確かね」
「母さんまで・・・」
「お兄ちゃんならいつかきっと結婚できるわ」
「・・・雪菜」
「それじゃフォローになってないっつ~の」
三人が大笑いする中で一人だけガックリと肩を落として背中で泣いているのは、もちろん話の中心人物である雪斗である。
すっかり元気を無くしてしまった雪斗は、食べていたご飯を細々と食べることで悲しみをアピールしていた。だが誰の気を引くこともできないまま朝食の時間は幕を閉じていくのであった。
「じゃあ兄貴行ってきます」
「いってくるね、お兄ちゃん」
「気をつけていってこいよ」
「車に気をつけるのよ」
『は~い』
声を揃えて元気良く出て行った二人を見送ってからようやく静かな時間が訪れた。
母もようやく家事に集中できるようになったからか、黙々と家事をこなしていく。
妹たちが出てから十分くらいが経った頃、ようやく雪斗も重い腰を上げて立ち上がった。
(そろそろ俺も出るかな)
通っている高校が家の近くなので、いつもギリギリまで家にいるのが当たり前になっていた。
「いってきま~す」
「・・・・・・・」
(返事なしか)
家事に夢中になっているせいか母からの返事はなく、静かな空気に見送られながらの登校となった。
家の前では学校に向かう生徒たちで賑わっている。
昨日のテレビ番組の内容で盛り上がったり、近づいてくるテスト期間の文句を言い合ったりしながら皆歩いていく。
その中に親友の智哉の背中を見つけて早歩きで追いかけて横に並んだ。
ちょうど同じタイミングでもう一人の親友である悠人が追いついてきた。
『おっはよう』
これまた同じタイミングで挨拶が被る。
「うぃ~す」
二人同時に挨拶された親友は、うつむいたままの姿勢でどっちの挨拶に対しての返事なのかわからない返事を返してきた。
「どうかしたのか?」
見るからに元気の無い智哉に雪斗が声をかけた。
「朝から暗いやつだなぁ」
悠人も心配したのか顔を覗き込んで様子を伺う。
その悠人の顔をマジマジとみて、大きな溜め息を吐いた。
「人の顔を見て溜め息つくなよ」
「うっさい・・お前みたいにイケメンだったら、俺は・・俺は・・・」
今にも泣いてしまうような低く沈んだ声をもらしたかと思うと、顔をおもいっきりあげて叫んだ。
「カームバッッック!」
「いきなり叫ぶな!」
勢い良く上がった頭を後ろから悠人にツッコまれて再び下に沈んだ。
周りにいた他の生徒達も三人の方をジロジロと見ている。
鋭く刺さる視線の原因である智哉本人は全く気にする様子も無く悠人に喰ってかかった。
「何で殴るんだよ」
「お前が朝から面倒だからだ」
「相変わらず容赦ないな」
悠人の言動を隣で目の当たりにしていた雪斗は思っていた言葉が声となって出ていた。
それでも容赦ない悠人の言葉は続けられる。
「お前に何があったか知らないが、僕が変人の仲間みたいに見えるから朝から喚くな」
そこまで言われて智哉は見る影も無いほどに深く深く沈んでいってしまった。
周りのざわめきが静まるのと引き換えに、智哉が廃人のように精気がなくなっていくのをしばらく観察してからようやく悠人は救いの手を差し延べた。
「で、何があったんだ?」
今までのことはなかったかのように事情を尋ねる。
いっそのこと放っておいてもよさそうなものだが、黙らせて終わりではさすがに気分が悪いのだろうか。それとも、単純に内容が気になったのか、理由は定かではないが悠人の言葉でようやく智哉の顔は上がった。
「聞いてくれるのか?」
「くだらない話だったらもう一発殴るけどな」
「・・・・・」
「そんな意地悪言わなくたっていいだろ。ほら、智哉も早く話せって」
今にも再び沈んでしまいそうな智哉を促して取り敢えず話を進めようと試みた。
「俺にとっては人生最大の大問題なんだ。だからお前にとってはくだらなくても、頼むから殴るなよ」
さきほど殴られた箇所がまだ痛むのか後頭部を擦りながら恨みがましい視線を送っている。
「わかったから早く話せって」
「あのな・・・じつは・・」
深刻そうな面持ちで話し始めた智哉を見ていると、余程のことなのだろうかと段々と引き込まれるように聞いている自分がいることに雪斗は気が付いていない。
「凛に・・」
「凛ちゃんに?」
「・・・・・フラれたんだぁぁぁぁぁ!」
「叫ぶな!」
すかさず悠人の鋭いツッコミが智哉の後頭部を再び捉えた。
智哉のいう凛とは、これまでの流れからも察しがつくように智哉の彼女・・・なのだが、どうやら『彼女だった』と言うほうが正しいらしい。
誰が見てもかわいいと言われてしまうルックスの持ち主なのだが、そんな高嶺の花然とした女性がなぜ智哉程度の男と付き合っているのかと付き合い始めた当初から七不思議扱いにされるほどの騒ぎだった。
そんな七不思議もついに不思議ではなくなったのだろうか。
「原因はなんなんだ?」
「それがさ、この前彼女に言われたことが原因らしいんだ」
「いったい何を言われたんだよ」
遠まわしに話す智哉にイライラしながら悠人が聞きなおす。
「あなたの側に幽霊が見えるって」
「・・・・・」
しばらく沈黙が続く。
彼女の発した言葉にも驚いたが、フラれた原因がそれ(・・)というのも可哀想な話だ。
そんななか、悠人だけは疑問をいだいていた。
「ちょっと待てよ。今の話からすると凛ちゃんは霊的なものが見えるってことだよな」
「それがなんだってんだ」
「つまり普段から見慣れているわけだ。なのになんで突然の別れ話の理由がそれなんだ?」
「言われてみれば確かに」
雪斗も悠人の疑問に賛同する。
「じゃあ何で俺はフラれたんだよ」
そう怒鳴ってはみたものの、もし悠人の言うようにフラれた原因があるとするならば嘘をついてまで智哉と別れたかったことになる。
それを頭ではわかっていても気持ちの納まりがつかないのだろう。
「とりあえず落ち着けって」
「これが落ち着いていられることか」
二人の押し問答についていけなくなった雪斗は少しのあいだ傍観者に徹することにしたらしく一歩下がったところで溜め息をついていた。
「いいから聞けって。一度考えをまとめてみることも必要だろ」
「・・・わかった」
「今回の凛ちゃんの行動からして考えられることは大きく分けて二つだ」
「二つ?」
傍観者として見ていた雪斗も反射的に会話に入ってしまっていた。
悠人は物事を冷静に論理的に考えることに長けている。
そんな悠人が導き出した答えに無意識に反応してしまったのだろう。
「一つ目は普段から霊的なモノが見える彼女ですら、恐ろしくなるほどのモノが智哉に憑いているパターンだな。その場合、フラれた理由は嘘じゃないし智哉にも落ち度はないことになる。これだったらマシって理由だろ?もう一つは、単純に凛ちゃんが嘘をついていたパターンだ。お前以外の人を好きになったとか、お前を嫌いになったとかな。こっちだったら最悪だ」
「それで何で嘘をつく必要があるんだよ」
「簡単なことだろ。お前を傷つけないように考えてのことだろ」
「凛はそんな嘘をつくような女じゃねぇぞ」
悠人の見解にマジになって智哉が反論した。
そんな智哉を目の前にしても悠人の冷静さは揺らぐことなく、相変わらず淡々とした口調で言葉を返す。
「じゃあお前は相当ヤバいモノに憑かれてるんだな」
「・・・・・」
返す言葉もないほどに完敗だった。
どっちの見解が正しいにしろ智哉にとって良い結果には繋がらない。
たぶん別の見解が見出されたとしても、ハッピーエンドは迎えられないだろう。
「フラれた事実だけは変わらないんだから綺麗に忘れちまえよ」
可能な限り限界まで下がった肩を雪斗と悠人が励ましに叩く。
今にも泣き出しそうな情けない顔を智哉が自らの手でおもいっきり叩いた。
ほんのり紅くなった頬を擦りながら一言だけ呟いた言葉が二人の耳へと届いた。
「ありがとな」
それだけ言うと胸を張って歩き出し、目の前まで来ていた学校の校舎の門をくぐり正面玄関へと入っていった。
その姿を少しだけ離れた後方から見守っていた雪斗と悠人は同時に呟く。
『あいつ、大丈夫かな』
二人の不安は数分も経たないうちに現実のものとなる。
智哉は肝心なことを忘れていたのだ。
凛が同じクラスで自分の前の席に座っていることを。
「これからしばらくは地獄のような日々を送るんだろうな」
大好きだった人を一番近くで見る為に自ら凛の後ろの席になったのだが、それがこんな形で仇になろうとは幸せ絶頂だった頃の智哉は思いもしなかったことだろう。
そんな哀れな親友を想い二人は手を合わせて一礼した。
「成仏してくれよ」
雪斗が冗談でそう言った時だった。
『お前がな』
突如背後から聞こえた声に雪斗が振り返る。
だがそこに人影は見当たらなかった。
すぐに振り返ったにも関わらずそこに誰もいない事実が背中に冷たいものを走らせた。
強張る体とフリーズしかける頭をフル回転させて隣にいた親友の存在を思い出すことが出来た。
「変なこと言わないでくれよ。悠・・人・・・」
隣にいる悠人に文句を言ってやろうとしたのだが悠人はいつのまにか玄関の中に入ってサッサと靴を脱ぎ始めていた。
「じゃあ今のは誰が・・?」
気持ちの悪い感じは残ったものの空耳だろうと思うことにして悠人の後を急いで追いかけて校舎へと入っていった。
教室に入ってみると二人の心配したとおりの現実が訪れていた。
つい先ほど威勢よく歩いていった智哉が机に突っ伏して動かなくなっている。
そんな智哉の前で話の中心人物である凛が友達との話で盛り上がっていた。
それを真後ろから見ることは元カレとしてはキツいものがあるだろう。
そんな親友の机にドカっと腰掛け頭をポンポンとまるでバスケのドリブルのように何度も叩きながら悠人が助言を口にする。
「お前も馬鹿正直に座ってないで授業始まるまでどっかで時間潰せばいいだろうに」
「悠人の言うとおり。智哉がそこに座ってなきゃいい話だろ」
二人は見るも哀れな親友にアドバイスをしたつもりだったが、智哉には効果が無いようだった。
「そんなのすでに試した」
つまり助言される前に既に実行に移していたとのことだ。
その結果が完全に燃え尽きた今の智哉というわけだった。
「凛って学校内でもかなりの美人だろ?そんな彼女と付き合ってたから敵が多いわけだ。そこに凛と別れたなんて情報が流れたもんだから色んなところで色々言われたんだよ」
つまり後ろから元カノを見ていることに耐えられなくなり、気晴らしに校舎内を歩いていたら嫉妬心からくる悲しい男たちの妬みをぶつけられたらしい。
「ふーん。なんにしてもフラれた本当の理由が気になるところだな」
「今さら心の奥深くに埋めた爆弾を掘り起こしてやるなよ」
雪斗の忠告を聞こえなかったことにして悠人は智哉に確認した。
「はっきりさせてもいいか?」
少しの間をおいて智哉は小さく頷いた。
その返事を受けてから悠人は体の向きを変えると躊躇なく言葉を発した。
「凛ちゃんってさ何でこいつフッたの?」
その言葉は後ろで燃え尽きている友人に対して何の遠慮も配慮もない鋭い一言だった。
そんな直球な質問にもう一人の当事者である凛は平然としているようで悠人の質問に対して戸惑うことなく率直に返事をした。
「智くんにはちゃんと話したんだけど、智くんに霊が憑いてるからなのよ。普段から見慣れてる私でもこんなにハッキリと見えたことないから、二人っきりになっても二人っきりになれてない感じがしちゃってね、落ち着かないのよ」
その言葉を聞いた瞬間、皆の間に沈黙が訪れた。
ここまではっきりと言われたら嘘とは思えない。
いや、嘘がどうのこうのという状況ではなかった。
あまりにも素直に答えられてしまったため正直なところ皆怖くなってしまっていた。
思うことはただ一つ。
この男にはいったいどんなのが憑いているというのだろうか・・・。
それ以上でもそれ以下でもなくそのことだけが気になってしまっていた。
その結果、視線は静かに智哉の背後へと集まっていく。
「・・・なんだよ」
視線に耐えられなくなった智哉がようやく口を開いた。
「気にするな。お前を見てるわけじゃない」
視線を逸らさないまま悠人が返事をする。
「あのなー、そんなのひょいひょいと見えるわけないだろ」
全員の視線を背後に一点に集めているという事実を受け流そうと必死なのかオーバーリアクション気味に手を大きく持ち上げハァ~と大げさに溜め息をついてみせた。
それでも皆の視線は反れることなく注がれ続ける。
「・・・・・・見えるのか?」
変わらず全員が同じ一点を見つめていることが智哉の不安を掻き立てていく。
無論見えているわけではない。
だから智哉の問いに答えるものはいない。
結果として沈黙だけが続いていく。
それが更に智哉を恐怖に陥れていった。
「お前ら何とか言えよ・・ここにいるのか?」
自分でも見えない何かを一生懸命に指差しながら裏声で訊ねる。
その問いに答える者もいないと思われた時だった。
一人だけが真っ直ぐに指差して口を開いた。
「智くん違うよ。いるのはこっち」
その指し示す場所には雪斗が立っていた。
不意に指差された雪斗は驚き周りを見るが凛は間違いなく雪斗を指していた。
「冗談はやめてくれよ」
雪斗の足が本人も気付かないうちに一歩・二歩と後ろにさがっていく。
皆の視線が智哉から凛の指差す方へと移っていく。
その視線の中心には雪斗がいる。
再び訪れた沈黙だったが今度の沈黙は長くは続かなかった。
「やっぱり凛ちゃんには見えるんだな」
悠人のその一言で心霊話の重い空気は終わりを告げた。
「俺にはどうしたって見えないのがくやしいな」
「悠人だけじゃないって。俺にだって見えないんだぜ」
智哉もかなり悔しがっている。
「そりゃ悔しいよな、自分がフラれる原因になったものが見えないんじゃさ」
自分に集中していた視線がなくなり雪斗は安堵の溜め息をつきながら智哉をからかう。
それに便乗するように悠人が言葉を続けた。
「お前は見えないだけじゃなくて文句を言うこともできないもんな」
「それを言うなよな」
静かに肩を落として元気を無くしていく智哉に一筋の光明が差し込んできた。
「あれほどハッキリ見えてたのに今は智くんのところには見えないし、なにより智くんの気持ちが嬉しいから別れるの無しにしよ」
「え?!」
「だって全く見えなくなっちゃったんだもん」
「凛ちゃんいいのかい?考え直さないほうがいいこともあるよ」
そこにすかさず横槍を入れるのは悪友と書いて親友と読めてしまいそうな男である。
「お前は親友を裏切るつもりか!」
悠人の本気とも冗談ともとれる言葉に智哉が叫んだ。
その顔があまりにも本気・・・いや、必死だったからか悠人もからかうのをやめた。
「冗談だって。お前が羨ましく思えただけだよ」
「ほほぉ、悠人くんは僕に嫉妬していたのか」
さっきまで半泣き同然で情けなさすぎる顔をクラス中にさらしていた男が、何を勘違いしたのか腕を組みふんぞり返って高笑いなんかを始めた。
そんな智哉を完全に無視する格好で悠人も雪斗も自分の席へと向かっていく。
「急にどうしたのかね。元気がないじゃないか」
黒板に背を向けたまま戻る悠人を挑発するように智哉が吼える。
そんな智哉にクラス中の生徒が哀れみの視線を送る。
すでにこの時、クラス中の生徒が静かに着席していた。
そのうえで智哉に視線を向けていたのだ。
その視線に込められたメッセージを受けとめ理解することの出来なかった智哉が迎える結末は当然の結果だった。
「お前は元気があり余ってるみたいだな」
智哉のすぐ後ろから低く重い声が囁かれた。
その声を頭で理解するよりも早く体が反応していた。
背筋が伸び、見本のように綺麗な『気をつけ』の姿勢になる。その姿勢のまま首だけを回れ右させる。
まるで錆付いた機械人形のようにぎこちなく後ろに向いていく。
徐々に視界に入ってきたのは愛称『トメちゃん』で親しまれているクラス担任だった。
顔は微笑んでいるようだが唇の端はヒクついている。
「元気が有り余っているお前には先生からプレゼントをやろう」
その言葉を聞いた瞬間、智哉は全力で首を横に振った。
「いらないいらないいらないいらない」
「遠慮なんてするな。ということで、おめでとう。解答権が二倍に増えました!しかも自動回答券獲得のため挙手の必要はありませーん」
「い~や~だ~~~~~・・・」
「それじゃあ授業を始めるぞ。最初の例題を・・お、早速の権利発動。じゃあ智哉に答えてもらおうか」
「これは、いじめだぁぁぁ・・・・」
智哉の悲痛な叫びは雪斗を含めたクラス全員を笑いに誘った。
授業が終わるころ、ほとんどの問題を当てられた智哉の頭からは薄っすらと蒸気が見えたとか、見えなかったとか。
午前中の授業を終えて生徒の大半が学校で一番楽しみにしているであろう昼食の時間となった。
いつものように購買で売っている焼きそばパンを求めて廊下に出た雪斗だったが、倒れそうになるくらいの目眩に襲われて動けなくなってしまった。
通り過ぎる人たちは雪斗の様子に触れることもなく何事もなかったかのように行き来していく。
倒れまいと何とか意識を保ちつつ自分の席へと引き返していく。
やっとの思いで席に戻ると、そのまま深い眠りへと強制的に誘われてしまった。
気が付くと辺りは真っ暗になっていた。
誰もいない教室に雪斗だけがポツリと取り残されている。
さっきまでは確かに皆がいたはずなのに、そこに人の気配や温もりは感じられない。
とりあえず教室を出ようと思い立ち上がると不意に後ろから声が掛けられる。
「どこに行くんだい?」
驚いた雪斗は恐る恐る後ろを振り向いてみた。
誰もいない。
辺りを見渡すが誰の姿も見えない。
ただザラリとした声が確かに耳の奥に残っていることは間違いなかった。
「無駄だよ。まだキミには見えないからね」
落ち着かない雪斗に声は再びかけられた。
「お前はいったいなんなんだ?」
「俺かい?俺は・・・まぁそのうちわかるさ」
「どういうことだよ」
「今日の夕方、キミを迎えに行くから自己紹介は、その時にでも」
声の主がそれだけ言い終えると暗かった教室に薄っすらと光が差し込んできた。
あまりの眩しさに目を閉じてしまうほど教室が光で満たされていく。
少し時間を置いてからゆっくりと目を開けてみると活気溢れる教室に戻っていた。
時間を見てみると昼休みに入ってからまだ五分と経ってはいなかった。
(変な夢を見てたみたいだなぁ)
気付けば目眩も治まっている。
改めて購買に行こうかとも思ったが、何故だか気が向かなかった。いや、正直にいうと何故かはわかっていた。
夕方に迎えに来ると言っていた声の主の存在が気になっていたのだ。
それというのも、さっき聞いた声に聞き覚えがあった。
朝、校舎に入る前に後ろから聞こえた声と同じもの。それを確信している根拠はないが、間違いなく同じ声だったと心の底からそう思っていた。
何も手につかなくなったまま昼からの授業は早回しのように過ぎていき、約束の夕方となっていった。
智哉や悠人と一緒に帰ろうかとも考えていたが、一緒にいてはいけない気がして一人で夕日の照らす道を帰ることにした。
家までの距離はそんなにはない。
もしかしたら何事もなく家まで帰り着けるかもしれない。
そう思うと自然に早足となって普段よりも速いペースで進んでいく。
そうするうちに家の一角を視界の端に捉えることができるところまで帰ってきていた。
(何も起こらなかったのか)
気持ちが一瞬だけ緩んだ。その時、そのタイミングを待っていたかのように後ろから凄い勢いで影が伸びていき雪斗の影を呑み込んだ。
「おいおい、迎えに行くって言ったのに帰っちまうなんてツレない奴だな」
さっきと同じ声が今度は足元から聞こえてきた。
「ちゃんと教室で待っててくれないから、こんな形で会うことになっちまったじゃん」
声質のわりにどこか陽気な性格なのか不気味な感じはあまり感じられず恐怖心も次第に弱まっていった。
雪斗が何も言葉を返してこないのを確認してから声は話を続けた。
「まずは約束だった自己紹介だな。俺は簡単に言うと死神ってやつだ。最初は間違えて他の男のところにくっついちまったんだが、今日の朝になってようやくお前さんを見つけることができたんだよ」
明るい声で自分を死神と名乗る声。
そのあまりにも唐突すぎる話のせいか雪斗は理解が出来ないでいた。
自然と言葉が出てくるわけもなく沈黙を続けることとなる。
「無口なやつだが、まぁいっか。話を進めさせてもらうぞ。俺がお前のところに来たのは仕事を済ませにきたんだ」
「・・・・・・・仕事?」
死神の陽気な声にようやく雪斗が反応を示した。
姿は未だに見えないが声のする方をジッと見つめて返事を待つ。
その意図するところが通じたのか死神は話を続けた。
「そうさ仕事さ。死神の仕事には二つあってな。一つは死んだにも関わらず死んだことに気付かずに彷徨っている魂を道案内すること。もう一つは、世界に増えすぎた魂の均等化だな。人が溢れるほど存在していると世界のバランスが保てなくなっちまうんだよ」
俄かには信じがたいことをさらりと言ってのける自称死神に対して雪斗は冷静さを取り戻しつつあった。
それでも沈黙を続けることで更に話をするよう促す。
「どっちも大切な仕事に変わりはないんだが、どちらかというと後者の方がやりがいはあるな。死んでるやつってのは、説得すれば終わりっていう単純な仕事なんだ。だが、魂の均等化はそうじゃない。生きた人間を連れて行かなきゃならないんだ。これが上手くいくと担当者はご褒美がもらえる。つまり生きた人間を食っちまえるってわけさ」
ジュルリと涎をすするような音をわざとらしく響かせながら死神は嬉しそうにしている。
それが帰って雪斗を冷静にさせていった。
「姿も見せないやつの言葉を素直に聞き入れるほど人間ができてないんだ。悪いけど俺は帰らせてもらうよ」
影に染まった道を気にすることもなく踏みしめて歩き始める。
「ちょっと待てって。帰るってどこに帰るつもりなんだ?」
「自分の家に決まっているだろ」
「自分の家?お前さんの家はそっちじゃないよ。こっちさ」
影から伸びてきた手らしきものが指し示すところに突如として人が入れるほどの大きな穴が空間に開いた。
指はその穴を指して揺れる。
「さっきも言ったけど俺は仕事を済ませに来たんだ」
「俺を殺しに来たのか?」
「早とちりしなさんなって。残念なことに今日の仕事はさっきの説明の前者の方さ。俺が何かするまでもなくお前さんは死んでるんだよ」
「俺が・・・死んでる・・・?」
死神の言葉は脳裏の隅々まで一気に行き届いた。
冷静さを取り戻していた意識が脆く崩れ落ち始めていく。
それと同時に必死に抗おうと反論の言葉が口から飛び出した。
「笑えない冗談はやめてくれ。今日一日ずっと学校生活を満喫してきた人間が死んでるって?馬鹿なこと言うなよな」
吐き捨てるように声を荒げて地面に向かって怒鳴っていた。
そんな雪斗の怒りもまるで感じていないかのように死神は言葉を返した。
「自覚がないのは当然だろうよ。そういう魂を俺たちは案内してるんだからさ」
「・・・・・」
「さっきも話したように死んでることに気付かない魂を説得し本来在るべき場所へと案内するのも俺たちの大切な仕事なんだ。もちろんお前の気持ちが分からないわけじゃない。ついさっきまで当然のように生活していたのに、それを全否定されてるわけだからな。そりゃ納得しろって方が難しいだろう。でもな、お前は間違いなく死んでるんだよ。俺がこうして迎えに来てるんだからな」
ここまで言われると雪斗は何も言い返せなかった。
それを仕事としている死神にそう言われてしまっては、認めざる得ないようにも思えてしまってくる。
それでも自分が死んでしまっているとは簡単に思いたくもなかった。
「もし・・もしも、俺が死んでしまっているんだとしたら、それを証明できるものはあるのか?そうだよ、証拠がなきゃ信じるも何もないじゃないか。死神だって言うお前の姿すら俺には見ることも出来ないんだからな」
雪斗は必死だった。
その必死さからやっとの思いで出てきた言葉だった。
だが、その言葉を待っていたかのように死神は笑みをこぼした。
決して見ることの出来ないはずの笑み。
その笑みを感じ取ったのか雪斗は何かに心臓を貫かれたような錯覚を感じていた。
「証明なんて簡単なものさ。日常の会話ってものは二人以上で話すことで成り立つだろ?だがら、もしも会話している者が一人でも欠けたらその時の会話は成り立たなくなる。だが、例外はある。死んでしまっていて存在しない人間が会話に参加した気になっている場合、そいつ自身は会話している気になっていても、そいつの会話は省いてしまっても会話としてちゃんと成り立っているんだ。思い出してみなよ、今日のお前さんの会話をさ」
死神の言っていることは例えば三人以上で会話した場合、本来なら一人でも欠けるとその会話は成り立たなくなる。それなのに一人が欠けても会話が成り立ってしまうということは、それは三人での会話ではなく二人による会話だったということだ。
つまり一人は、そこに存在していないということ。
独り言は一人でも出来るが複数人での会話の場合は一人でも欠けたら会話の流れがおかしくなってしまう。
それを理解したうえで雪斗は一日の会話を思い返してみた。
今朝の家族の会話。
何よりも好きな時間だと感じるいつもの朝。
そこで交わされる親子の会話。
そんな朝を過ごして学校に行けば親友たちとともに笑いあう。
今日なんて親友の恋愛話に花咲いて笑ったり呆れたり忙しかったものだ。
そんな一日を過ごしてきたなかで無言であったわけが無い。
様々な会話に混ざりいくつもの話をした。
それなのに・・・。
それなのに・・・・・・・・・。
「・・・・・俺は・・・本当・・に・・・・」
一日を振り返って自分が参加した会話をひとつずつ思い浮かべていった結果、どの会話も自分の存在に左右されることなく話が進むことがわかってしまった。
そのあまりに無慈悲な事実に目頭が熱くなり肩が震え始める。
「まあ、受け止めにくいことだろうが事実さ」
死神の放ったあまりにも軽い言葉が重い現実として雪斗の心を圧し潰した。
涙が一気に溢れてきていた。
どうしようもなくやり場のない感情が全て涙となって溢れてきているようだった。
「俺は・・・お・・れは・・・どうすれば・・・・?」
「安心しなって。ちゃんと俺が責任もって案内してやるからさ」
死神の言葉に雪斗は無言で頷くだけで精一杯だった。
「さ迷える魂を安息の地へと導く。俺はお前を見つけることが出来て本当に安心した。魂のままさ迷ってたらいつか消滅してしまうんだからな」
「・・・・・ありがとう」
消え入るような小さな声で感謝の意を述べると俯いたまま足を引きずり歩き始めた。
魂の消滅。
死神が最後に言った言葉が脳裏をよぎる。
最悪消滅してしまっていたかもしれないことを考えるとこの結果は良かったのかもしれない。
そんな思いから出た言葉がさきほどの『ありがとう』だった。
それ以上、何も考えることのないまま死神の指が示す黒い穴に足を一歩踏み入れる。
地面がそこで途切れていることは足から伝わる浮遊感でわかっていた。
闇に沈む足。
するともう引き返すことは叶わなかった。
雪斗の意思とは関係なく体がどんどん引き込まれていき次第に完全に見えなくなってしまった。
その光景を最後まで見届けていた死神が呟く。
「生身の人間も~らい」
歓喜に満ちた高笑いが影から漏れてきた。
「人間ってのは単純なもんだな。冷静に考えれば自分が死んでるかどうか気付くだろうに」
自分のたてた策略があまりにも上手くいったのが心から嬉しかった。
「確かに会話は偶然成立していたが、あいつは友達に挨拶する時に肩に触れてるんだぜ。死んだ人間が触れえられるわけないっていうの。つまり、あいつは今日も一日元気だったわけだ。これが楽しいから死神はやめらんねぇ。そういえば言い忘れちまったな。肉体を食うのは二の次で生身の人間の生きた魂を集めることが最も重要なんだ。ってもう聞こえないんだったな」
自慢げに大声で叫ぶ死神の声は影から漏れるが誰にも聞こえない。
聞こえるのは死神にとり憑かれているものだけ。
死神の声が聞こえたら、それは死神にとり憑かれている証拠。
死神が見えるのも同じく。自分の死神は決して見る事が出来ないが、他社にとり憑いている死神を見ることは出来る。なぜなら自分が死神に憑かれているため気配を感じやすくなっているためだ。
つまり見えたら最後、見えた自分もその人も間違いなく死ぬだろう。
「最初に狙った男の近くに同業者が憑いてて俺が見えるやつがいたのには驚いたな。バレるかとも思ったが、今朝のうちにうまく狙いを変えれてよかった。誰にとり憑くかは自由だからな」
そう言って馬鹿笑いを響かせながら影は小さくなって消えていく。
翌日。
雪斗が通っていた教室では花が供えられた二つの机を囲むようにして、親友たちが涙する光景が死神の目に映っていることに気付くものはいなかった。