迂闊
結局何事も無く家まで戻ってきたのは良いが、俺は未だ吉良の発言に怯えていた。俺と神楽だけが知っているはずの会話内容をアイツは知っており、しかも青松が従妹ではなく居候だとも見抜いていた。口から出任せに言った割には出来すぎた偶然だ、あれは間違いなく何かを知っている。
「……」
「ニャー」
猫が鳴く。
「にゃんにゃん、です」
青松が真似る。奴はうちの猫が余程気に入ったのか、さっきからひっきりなしに撫でたりモフッたり肉球をプニプニしたりとじゃれている。
「そいつ、モタって名前が付いてんだ。呼ぶと寄ってくるぞ」
「モタ? なんでモタです?」
「言葉通り、行動がモタモタしてるから」
「なるほどです」
うちの猫は大人しい。大人しすぎて掃除の邪魔になるくらいだ。それとご飯のとき以外は基本的にゆっくりとした動作なので、モタである。
「……」
平和な光景だ。
もうこの際、自分から余計なことには首を突っ込まないようにしよう。自ずと崩れる平和なら、急いて慌てる必要も無い。今は少しでも多く、束の間の休息を味わおう。吉良の言葉も全部、戯言だと思えば何てこと無い。退屈だと思っていた日常は、今こうしてみれば掛け替えの無いものだったんだ。大事に過ごそう。
「……」
それから深夜になり、眠れずに外を歩いていると吉良に出くわした。
「やぁ、芳隆君。まだ祭りの熱気冷めやらぬって感じ?」
折角一生懸命忘れたのに再び背筋が凍る。
何というか――吉良が恐ろしい。俺の記憶が混乱し始めてからというもの、どういうわけか吉良しか目に映らない。それは決して良い意味ではなく、たとえば人形が独りでに動いたときのような、ある種の不気味さから目が離せなくなってしまった感じだ。
「どうしたの?」
「寝れんだけだ」
「あはは、じゃあ私が子守唄を歌ってあげよう。最高に、眠くなるような――ね」
接近と同時に――吉良の右手が動いたのを見逃さなかった。
「甘い」
背後に回られた瞬間、それとほぼ同時に振り向き、俺は白い布を持つ吉良の右手を掴んで制した。
「――なんのつもりだ?」
「それはこっちの台詞だよ。どうしたの? いきなり私の腕つかんでさ」
「とぼけんな」
睨みを利かせながら、件の白い布を奪い取る。さわり心地はサラサラとしていて、しっとりと濡れている。
「――なるほどな」
分かった。濡れた布を持って、不意打ちよろしく背後に回ってやることと言えば――決して1つしかないとは言わないが、さっきからコイツのやろうとしていることが見え見えである。神楽じゃないが、読心術に成功した気分だ。
「深夜帯――眠れないとはいえ、納涼祭りで疲れている。よくもまあこんな状況を狙ったな?」
「……何? 何なの? 本当にどうしたの、何かあった?」
「疑心暗鬼に陥っているとなればそれまでだけどよ――この布に染み込んでるの、揮発性の睡眠薬だろ?」
「――仮にそうだったとして、私がそんなことをするメリットって何なの?」
「そりゃこっちが聞きてぇぐらいだ。お前、何をしようとしている?」
「……」
――沈黙。
「じゃあしょうがない。話してあげるよ」
ようやく口を開く気になったか。
「でもその前に、君には苦しんでもらおうかな」
「あ?」
――迂闊。このときほどそう思ったことは今まで生きてて一度も無い。
うっかりしてれば俺は通常の人間だ。想像する暇もなく――俺は吉良の左手に握られた、一振りのナイフで身体の前面を袈裟斬りにされた。
「っ……!?」
突然の激痛――というよりは火傷しているような感覚に視界が歪む。
更にその一瞬の隙を利用して、吉良は俺から白い布を取り返す。忽ちそれは口元に当てられ、呼吸に必死な俺は思わずそれを吸い込み――やはり睡眠薬だったか、意識が一瞬にして遠くなった。




