病院奇譚
(1)
鎌二の高校時代の友人の駒戸がどうやら正気を失ったらしいという噂が彼の耳に入ったのは、もう十年も前の高校の同窓会でのことだった。彼は病院で働いているため、術後の患者のせん妄にもよく出くわすし、統合失調症の合併した糖尿病患者なんてのを何人か受け持っていたこともあったから、彼にとって気の触れた人自体はそう珍しくもないことだった。
その同窓会は高校の一学年三百人余りの全部を集めて(勿論全員が来られたわけではないにせよ)行われるものだから、宴会場は高校の最寄り駅であるM駅近くのホテルの、結婚式にでも使うような広い宴会場を貸し切って行われた。鎌二は同窓会には仕事上の多忙を理由に久しく顔を出していなかった上、律儀に卒業アルバムを見る時間もなければそんなやる気も起こらず、顔のわからない友人らしい人々と酔いに任せて適当に会話をしていた。
そして、駒戸についての話になった。
「なあ鎌二、駒戸のやつどうやら正気を失ったらしいんだ、覚えているか、ほらお前の生き別れの双子の兄貴って言われていて、実際に養子だったから、お前ら本当に生き別れの双子かもしれないなって言われていたあの駒戸だよ」
と声をかけてきた相手は見覚えがあるが、どうしても鎌二は名前は思い出せなかった。おそらく、禿げているからだ。
「ああ、いたっけな。しかしあれだよ、統合失調症ってやつは、人種に関係なく百人に一人がなるって大体決まってるんわけだから、そんなに驚くほどでもないだろう」
と適当に返した。自分に見た目が非常によく似た他人がいるというのは、あまり気分の良くないものであったせいだろう、その話をふられるまで、彼は全く駒戸という人間について忘れていたのだった。
「それもそうか。いや、しかし、気が触れたといってもアレだよ、その、頭がおかしくなっただけじゃないんだ」
と見知らぬ旧友は酔って赤くなった目をしながら、グイと顔を近づけた。そして内緒話をするかのように
「気が触れてからすぐに、あいつは全くウントモスントモ言わなくなっちまった。完全に動かないんだ。呼吸も止まっちまったっていうよ。何とかいろいろと、こう、管をつないで生きているんだって、話だ。まあ、ガンや何かじゃない分、家族も希望を捨てきれんのだろうな、悲しいことだ」
「ふむ、陰性症状が主体で、体を動かさないようなタイプの人はきっといるんだろうが、息までしないとは、何なんだろうね、ひょっとしたら医中誌でも探せば彼の症例報告が見つかるかもしれないな」
「ま、その、何だ、お前も気を付けろよ、医者の不養生っていうし、お前と駒戸は、アレだから、ほら、同じようなアレよ」
最近になって、見知らぬ旧友の言ったその言葉が妙に気になり始めた。いや、実のところずっと気になっていたのかもしれない。駒戸のことを同窓会で言われるまで思い出せなくても、駒戸のことを忘れてしまったわけではないように。それは出芽を祝福されない種が地中深くに埋められたようなもので、種自体が消えるとか、種の出芽が行われないわけではなく、この十年間というもの地中深くで養分を吸って、ゆっくり、ゆっくり、地上を目指していたのかもしれない。などと、考えてみることもできるが、マトモに考えたら、五十歳近くなり、下の世代が育ってきたことで仕事の忙しさが以前ほどではなくなったから、というところだろう。心に余裕ができたのだろう。
そんなに気になるなら調べてしまえばいいじゃないか、そう思って医中誌をネットで調べてみたら、駒戸と思しき症例報告が見つかった。病院の所在地が駒戸の実家近くであること、他になさそうな症例であることを合わせて考えるとまず間違いないだろう。
妙に姿形が似ているために家族に出くわしてしまって(別に何か悪いことをしたわけではないけれど)何か怪しまれないだろうか、などと考えてしまうとどうにも不安だったが、結局鎌二は夏休みの休暇を使って駒戸の実家近くの病院にお見舞いとして行くことにした。確か大学の同期がその病院で働いていたはずであり、ひょっとしたら何か話が聞けるかもしれない。そんなことを考えながら、彼は午前の外来をこなした後、医局で冷めた弁当を食べつつ、外のセミの声に耳をすませていた。夏も終わりに近いのに、いや終わりに近いからこそだろうか、やたらと元気のある入道雲が山の向こうにモクモクしていた。
「セミってのは、長いこと地面の中で暮らすそうで、木の上でジイジイなくのは一生のうちのわずかな時間だけだそうですね」
と隣の席の医師が突然言った。
「はあ、地中でそんなに長いこといてさぞ退屈だろうなあ」
と鎌二は言った。
(2)
駒戸の入院している病院は水田を背にした最近立て直したばかりの三百床ばかりの中規模病院だった。まだ真っ白い壁が夏の陽光を浴びて、彼にはまぶしかった。そしてこののどかな田園風景は駒戸の妙な病気にはどうにも異質なように彼には思えた。
大学時代の友人とは院内の喫茶店で待ち合わせする予定だったが「昼休みが何時に始まるかは日による」と言われていたので彼はコーヒーを注文してゆっくりするつもりだった。予想に反して、コーヒーの湯気がまだ立っているうちに友人はやってきた。
「久しいな、鎌二。こんな田舎までよく来たな。今日は初診が少なくてね、すぐに終わって、いやあ良かった。お前が医中誌で見つけて気になってたって症例のことなんだが、個人情報だから、職員用の席で話しようや」
と彼はつい立てで仕切られた喫茶店の奥の一角を指さした。
「そうだな」
「で、駒戸さんな、まったくもって説明がつかんの。あの症例報告を書いてから先、何も新しい情報はなし。可能な限りの検査を行ったけれど器質的な疾患は見つかっとらん」
「ふうむ」
と考えていると、喫茶店に置かれているテレビからNHKの教育番組が流れ始めた。
「――DNAがないとタンパク質は合成されない、しかしタンパク質がないとDNAが複製できない、この問題は卵と鶏のどちらが先か、というようによくたとえられます。しかし近年ではこの進化に関する謎は、RNAワールド仮設によって説明されうると考えられています。つまり、RNAは触媒としての機能と自己の情報を」
「まあ、とりあえず、見に行きますか、例の患者さんを」
「そうだな」
駒戸の病室は四階の一人部屋で、遠くまで広がる田園の風景がよく見渡せた。人工呼吸器の(自発呼吸が消失しているため)規則的な音と窓にさえぎられて微かに聞こえるセミの声だけが室内に響いていた。
「まあ、こんな感じだ、特に何も変わったこともない……」
と主治医が言ったとたんに鎌二は床に倒れこんだ。
「大丈夫か?」
鎌二はぼんやりと溶けていく意識の中で自分が看護師に囲まれているのを見た。
(3)
鎌二は目を開けると病室の中だった。自分が気を失って倒れたことは覚えていた。
「夕回診です」
とやって来たのは先ほど待ち合わせをしていた友人だった。
「どうです、気分は? ずいぶん長いこと寝ていたから、体に違和感が多少あるかもしれませんが、これといって検査上異常はないみたいですね。まあ、もとから、ほとんど異常がなかったもので、こちらも手を焼いていたのですが」
「ずいぶんと他人行儀だな、おい どのくらい寝ていた?」
「他人行儀も何も……。もう三十年にもなるんだったかな」
「いや、そういう冗談を聞きにわざわざこの病院に来たわけじゃないんだがな」
「まあ、とにかく、今は療養することが第一です」
「はあ」
そしてふとベッドから見える鏡に映ったやせ細った自分の姿を見て鎌二は驚いた。そして、妙な、嫌な予感がした。
「なあ」
「なんでしょう?」
「俺の名前って……」
「無理もないです、こんなに長いこと昏睡状態になっていて目覚めた例は稀ですからね、駒戸さん」
「駒戸……?」
「ええ」
(4)
目を覚ました駒戸は少しずつ自分のことを思い出し始めていた。勿論、それらの記憶がどこまで真実であるかはわからないのだが、それでもゆっくりと思い出し始めていた。彼は学生時代に自分の両親がいないことを気に病んでいた。いや、普段から気に病んでいたわけではなかった。奨学金を借りるとき、まだあまり親しくなっていない友人に親の職業を聞かれるときなどに心苦しい嘘をつくとき、などだ。
学生時代のある晩、彼は悪夢で目を覚ました。真に迫った夢だった。気持ちの悪い寝汗にぐっしょりと濡れ、荒い呼吸をしながら彼は思った。「現実と夢との差は外界の情報を感覚器を使って入手するかどうかの差にすぎない。だから、現実と夢とは別物かもしれないが、少なくとも本質的に区別ができないものだ」それから、彼はある突飛な思い付きをした。「仮想の両親の存在を細部に至るまで完全に想像したら、それは両親が存在することと本質的に何ら変わりがないことではないか」
それからの彼はひとりで部屋の中で会話をし、三人分の料理を作っては、それを全部食べていた。勿論彼自分、両親が存在しないことを知っている。しかし、想像の中で創造することができることも、彼は知っていたのだった。そういう意味で、彼は少しも気が狂ってなどいなかった。彼は自分の行動が他から奇妙に見えることについて十分に知っていたからだ。
そんな生活が5年も続いた頃、彼にはすでに両親が見えるまでに両親のイメージを確固たるものにした。そうするうちに、彼には両親が存在しないことの方が異質に感じるようになった。確かに、この両親から自分は生まれたのだ。母親の下っ腹には彼を孕んだときの妊娠線までもついていたのだから。
そんなある日に、駒戸の家に親戚が訪ねてきた。親戚の目には彼の生活ぶりが非常に奇妙なものに思え、また困惑したに違いなかった。彼は即日、病院に連れていかれた。
「先生、しかし、両親ははっきりとそこに実在するのですよ、もしいないとしたら、僕はどうやってここに生まれてきたのです?」
「いや、そうか、駒戸さん、あなたには、両親が見えるわけですね、そこにいると、そのように感じている」
と医師が慣れた様子で傾聴した。
「あなたに、両親はいないのよ!」
ヒステリー気味に親戚のオバサンはキンキンとがなりたてた。そうして、ここにいるというのに、触れないじゃないの、と彼女は真っ赤な顔で太った体を揺らしながら一生懸命に「両親」がいるはずの空を手で触った。
「いや、しかし、それでは、」
と言った時――駒戸の中にはほとんど細胞の一つ一つに至るまで両親の存在を信じ切っていた――彼は自分自身すら存在していないのだと直感的に信じてしまった。そのまま、ばたりと倒れた彼は、もう息もせず、限りなく死体に近い存在となっていた。
(5)
これらの一連の話を、駒戸は主治医に言って聞かせた。
「ふうむ」
と不思議そうな顔をした主治医の顔をパリッとした光の蛍光灯が照らしていた。
「しかし、その鎌二という人物は誰かね」
と主治医は納得いかなげに聞いた。
「私の想像した両親から生まれた、私ではないですかね、だから私の夢の中でしか存在しないんですよ、きっと。目が覚めたから、もう、私は鎌二ではなくなってしまった。そうリアルに想像することはできるかもしれませんが、どっちが幸せかわかりませんね。鎌二にもどったならば、私はどうして自分がここにいるのか理解できないままここで一生を終えていくことになるのですから。けれども、彼という存在が、本当は空白になるはずだった私の三十年分の人生を送ってくれたのだと思うと、すこしは救いがありますかね」
そういった駒戸は自分の痩せ細った両手をじっと見つめた。
「はあ」
と主治医は不思議そうな顔をしながら、病室から出て行った。駒戸はぐったりと、ベッドに再び横たわった、体が重かったからだ。そして首を横に向けて、どこまでも続いているようにみえる水田にぼんやりと浮かぶ月をじっと見ていた。
そのころ、外では昼に鳴いていたセミが地面におちて死んでいた。土中で長い夢を見ていたセミは、光のあたる世界にでると数週間で死んでしまう。