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【巫女‐追われし神の談】


「分かりました……。わざわざお知らせくださり、ありがとうございます……」

 ともすればうつむいてしまいそうな身体を叱咤し、まっすぐに礼を述べる。それを聞いて、訪れてきた神官は去っていった。

 あとに残されるのは、黙して座する〝巫女〟と、寝所に伏せる壮年の男性――〝巫女〟の父だけだ。外には昼日中の暑気が充ちているが、屋内にいる限りはそこまで不快でもなく、床の石に触れる脚はひんやりと冷たい。

 もっとも、暑さを忘れさせる一番の原因は、ふたりの間の重々しい沈黙なのだが。

「……」

 父も、娘も、発する言葉は何もない。娘の方は、先の報告への思索と、教義に厳正な父の反応が気がかりで黙っているだけである。下手なことを言って怒られては、怖いから。

 父はかつて、高位の神官であった。いや、過去表現は不適切だ。形式上は今でも、彼はその地位にいる。実際、重要な会談は父の耳に入れられ、できる限り同席が求められる。こうして相談も持ちかけられるあたり、四肢が動かなくなった、というだけでは放り投げるに惜しい人材だったのだろう。そのあたりの事情は、代理たる娘には分からない。

ひとの胸を一番うまく裂き続けたがゆえの信用なのかと思えば、その輪に加わるだろう未来は恐ろしい。

「……この件、お前はどう見る」

 長い言葉の空白を破ったのは、やはり父だった。伏せっているとは言っても、その眼差しに秘められた峻厳の色は失われない。思わず視線を重ねてしまって、びくりと身をこわばらせながらも、表面は取り繕って返答できた。

「数年前より王がご覧になっていた、凶兆の結果、かと。以前、国の端の海岸に現れて帰って行ったと聞きましたが……あれが先遣隊なら、本隊が来て然るべきですから」

 ひとりの神官として語る時、〝巫女〟はいつになく雄弁になる。及び腰な口調は名残こそあるものの、言葉を選ぶ間として十分ごまかせる程度だ。父や師から施された教育の成果は、こうして無意識の義務として遂行されていた。

 また、神官以外として話すことなど何もないため、必然自分の喋りはこのようなものだと認識される。臆病な彼女をそのままに知っていた母は捧げられた。ゆえに、〝巫女〟たる自分を正しく演じるという、その重荷から逃れる相手など今や失せている。

 ……いや。もうひとり、いた。怖がりで根暗な自分だけを知っていた「あの子」が。けれどその彼女は、とうの昔に都を去った。今はどこかで、自分など忘れて生きていよう。

「まあ、妥当だな。使者の言からしてもそれしかあるまい。外見が一致しているし、なにより……」

 ふぅ、と息を吐き、まぶたを閉じる。そこに隠された黒い瞳は、見えた一瞬、珍しく感情を滲ませていた。

「予言の年は今年だ。前の周期も、そのさらに以前も、たまたまおいでになられなかったというだけなのだろう。時は満ちたのだ」

 父も何かしら、この事態に感ずることがあるのだろうか。

 〝巫女〟にはある。平静の表情を保ってはいるはずだが、胸の内はとても凪いでなどいられない。彼もまったく同じだとは、思えないし想像さえできないけれど。

 わずかでいい、父親がこの想いを共有しているのならば、それは、

「あ、の」

あの時の、母の死に少しでも――

「神は還ってこられる。これは決定事項と思っておけ」

 続ける言葉は、揺るぎない。

 そして開かれた眼はいつも通りの、正しき神官たる男のものだった。

「……はい」

 硬い返事をして、頷きを重ねる。そのまま立ち上がり、足早に部屋を出た。母のことは聞けない。もはや、そんな気概は持てなかった。

 自室に戻る。父と同じく殺風景な、神官にあるべき清貧を体現した部屋だ。窓を塞いで布をかぶって、一切の陽の光を遮断する。そうしてようやく、〝巫女〟は身体の震えを解き放つことができたのだった。

「……っ」

 かたかたと、歯が打ち鳴らされる音が脳髄に響き渡る。それで余計に自分の慄きが知れて、静かな恐慌に意識は追いこまれていった。

 神が還ってくる。その意味は、あまりにも〝巫女〟には重すぎた。喜ぶべきか、称えるべきか。恐れるべきか、拒むべきか。それさえ決められず、至った心は「怖い」。その一語に集約された。

 神。かつてこの地を追われた、この世界の一柱。他の神の奸計に落とされ、東の海の彼方に去っていった、ある神のことだ。

 ひとのかたちも併せもつその神は、白い肌と黒い髪を備えているという。これは王の使者が伝えてきた、海岸の不審なひとびとの様相と一致していた。さらに彼らが乗ってきた動く丘、あるいは塔が、またも海に訪れてきているという。

 その神は、一の葦の年、還ってくると予言をした。そして今年の暦は一の葦。この符号が偶然のものだとは、神職の身にあらずとも信じがたい。

「……」

 だが、〝巫女〟に消化しがたい感慨を与えているのは、その伝説の具現のみではない。正直なところ、それだけでは漠然とした不安感だけで、ここまで思い詰めてはいないだろう。しかし、もっと〝巫女〟に近く、切実で、振りきれない類のものがある。だからこそ、〝巫女〟は行き場のない情動を抱え、ひとりうずくまって震えていた。

 その神は、人身御供を禁じていた。ひとの命が捧げられるのを、良しとしなかったのだ。

 そもそも、神がこの地から追放されたのも、彼が人身御供を巡って他の神と対立したがゆえだ。彼が戻ってくれば、きっと人身御供は止まる。犠牲を否定する彼の偶像にすら心臓を投げつける、この血に酔った儀式は終わる。

 それは〝巫女〟にとって安堵以外の何物でもない。秩序が正しい姿を取り戻す。喜ばしいことだろう。

 しかしその世界に、きっと〝巫女〟が組みこまれるべき場所はない。

「どう……しよう」

 〝巫女〟は殺した。父の代理ではある。他の神官に求められてのことではある。しかし、それでも自分は何百人も貫き続け、心臓を抉りだしてきたのだ。

 そんな自分が、人身御供を非とする神の治世に救われることなど、果たしてあり得るのだろうか? いいや、きっと自分は罰される。父や他の神官たちともども、処され刑され吊るされる。それは当然のことで、殺人を犯した当然の帰結だ。王の法にもそうある。

 それでも、やはり凝る想いは……

「……こわい、よ」

 安心と期待は儚いほどで、恐怖と絶望は奔流のごとく襲いくる。それらがないまぜになってどろどろになって、血流と化して体中を駆け巡った。

 どうすればいいのだろう。どうしようもないのだろうか。この小さな身では、しょせん父の代わりでしかない自分には。

 供犠は嫌だ。それでも、臆病な自分は、どうしてもその終わりの先を考えずにはいられないのだ。

「たすけて……」

 ぽつり、囁いた言葉。明瞭に音節を成したそれも、果てなき暗幕の闇に溶けていく。

 そのなかで探したあたたかい手は、もはや夢でしか叶わないものだった。


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