55 慟哭の愛撫
「何で」
「何でって……」
ミルフィは顔を赤らめて、口ごもる。
「あたしが忘れられなかったのは……助けてくれた昔のあんたなんだよ。だから、あんたを殺そうとしたことを謝りたかったのに、どうしてそんなこと言うの? 何であんたを殺さないといけないの? あたしが同じことしたら、止めたくせに」
何かに気付いたミルフィは、一度頭を押さえ、そして顔を上げた。
目が少し変わっていた。
「クロエが逮捕されて、サキュバスという悪魔の親玉まで出てきたのに、S級が何も知らないまま死ぬなんておかしいわ。あなたにしかできないことはたくさんあるのよ。自殺することが、全ての解決法なの? ……そんな方法は間違ってるわ。
あなたは、私に言ったわ。死んだ後なんて誰にも分からないって。私にとって、それが今なの。このアフター・ヘヴンが、私の死んだ後よ。あなたは今の私を見てどう思うかしら? 本当に死んだ方が楽だと思う?」
「……っ!」
一瞬、ミルフィとロザリアが重なって見えた。
幻覚かと思ったが、この口調はロザリアのものだ。
ミルフィとロザリアは、この僅かな間に入れ替わっていたのだ。
「それでも死にたいの? あなたは未練もないの? 生きたことを後悔してないの?」
「……してない」
と言うと、頬に平手が飛んできた。
派手な音が部屋に響いた。
「あなたどうしようもない嘘つきね! 欺くのは最低なことなのに、あなたはその嘘で人を傷つけ、同時に人を安心させて、人に自分殺しの罪も背負わせてるのよ。本当に、罪な人」
「……」
「今あなたが死にたいと思うなら、あなたのナイフで心臓を刺せばいいことでしょう。私はもう止めない。でも、あなたにそれはできなかった。何故なら、まだやり残したことがあるからよ」
寒気が抜け、今度は身体が変な熱を帯び始めた。
熱の正体を考えているうちに無意識に、捲っていた袖を元に戻していた。
「死んだ後ここに来てから、本当につまらないわ。この退屈は私が魔力権を渡さなければ、ミルフィが死ぬまで続くのよ。あなたはまだ二十年も生きてないのに、この退屈を味わうの? 私は正直魔力権なんてどうでもいい。でも私はここにいてあなたと話をしているわ。何故だと思う? 私は子供なあなたを放っておけないの。それに、あなたが言った……死んだ後にレンに会うというのを、私はまだ諦めてないわ。だから、今の私がいるの」
「……」
「やっと諦めたようね。随分浅い決意だったようだけど、礼なら彼女にしてあげて。彼女がいなければ、今の私はいない。その彼女を助けたのはあなたよ。だから彼女は、誰よりもあなたを……」
言葉の途中で目つきが変わった。
どうやらミルフィと入れ替わったらしい。
先程の彼女の行為を思い出すだけで、身体中が熱くなった。
自分は無防備でその行為を許可していた。
そのことに、自分が気づいていなかった。
「やっぱり、下手かな」
ミルフィは目を逸らす。
今のことを覚えていないのか、話したくないのか、入れ替わったロザリアのことは口に出さなかった。
「別にそんなわけじゃ……」
紡ぐ言葉がなくなった。
自分はやっと理解した。
彼女の言った決別の意味。
そして、自分が何もせずに死ぬことが無意味であることに。
すぐに彼女から離れて立ち上がる。
目を合わせられなくなって、身体の向きをすぐ近くの壁に向ける。
すると腰に手が回されて、後ろから抱きつかれた。
背中から伝わる熱が、自分から抵抗する力を奪っていった。
「震えてる。やっぱり、まだ自分を責めてるの」
振り返ると、彼女の腕は自然に解けた。
言葉を紡ぐ前に熱い指先が首筋を這う。
「違う、俺は……っ」
彼女は背伸びをして、自分の唇に再びキスをした。
言い訳をしようとした口は塞がれ、話す隙すら与えてくれなかった。
「ごめん。でもあたし、二度も助けられた。だから助けたい」
シャツに入り込んだ手が傷に直接触れ、そっと愛撫する。
「……何してんだ、やめろ」
「死んだら、この傷の痛みに耐えてきたあんた自身が報われないよ」
彼女の腕を掴んで剥がすと、少しはだけた肩に温かい身体が寄り添う。
それに身を任せると、身体が壁にもたれた。
彼女とのキスが与える甘美な悦楽が、何もかも拒絶できなくさせていた。
「もう……嫌なんだ」
絞り出した自分の言葉に彼女は驚く。
「最初から俺に目的なんてなかったんだ。むしろ、目的を探すのが目的だった。なのに、気づいたら巻き込まれてる。何もしてないのに銃で撃たれたり、勝手に恨まれたり、利用されたり、もううんざりだ。だから、そういう奴に泣かせることばかり考えてS級にまでなって、ルキアビッツを犠牲にしてクロエを逮捕させたのが今の現状で……」
そう腹を割って、壁に寄りかかったまま座り込んだ。
それに合わせて彼女も座った。
「俺は……どうして、二人を助けなかったんだ。助けられた、はずなのに」
両親のことを口にすると、また涙がこみ上げてくるのを感じた。
それを見た彼女から、きつく抱き締められた。
「泣いてもいいよ。あんたはずっと泣いてないんでしょ?」
「……泣きたくない。泣いたら、全部人のせいにしたくなる」
「でも全部あんたのせいでもないでしょ」
彼女は自分の背中をそっと撫でた。
初めて、人に抱き締められた気がする。
「何でそんなことするんだ。今まで誰も、そんなことしなかったのに」
「甘えてほしいからやってるんだよ。だって、あんたを受け止める人間がいなかったら、また自分を責めて、自殺したくなるでしょ? あたしは、あんたの後悔ばかりの顔、もう見たくないから」
情けない顔を隠したくて、彼女の背中に腕を回す。
彼女の服を皺になるぐらい強く握って、涙を堪えた。
「収まった?」
「……もう少し」
「……わかったよ」
気がついたら、駄々っ子のように彼女に抱きついている。
涙はとっくに引っ込んだのに、自分は何をしているのだろう。
すぐに離れると、彼女はなぜか深刻な表情をしていた。
「中の悪魔が騒いでる……。やっぱり、怒ってるのかな。あたし、あんたを殺すって悪魔に言ってたから」
「……」
「ここで自我を保てなくなって、乗っ取られたら、悪魔があんたを殺してしまう。それだけは、絶対したくないんだ。お願い、しばらく我慢して、何もしないで」
「え……?」
「ごめん……今だけ、耐えて」
謝りながら彼女は両腕を掴んで拘束し、自分を押し倒す。
この次に起こることは、予知能力がなくても分かった。
でも、抵抗できない。
一度悦楽を味わうと、次がもっと欲しくなる。
麻薬のような陶酔に囚われた自分の口がもう一度塞がれた。
今度は軽くない。
それを何度か繰り返すうちに上唇を甘噛みされた。
さらにやわらかい舌まで入ってきて、自分の舌をねぶる。
その音が聞き取れる程、静かだった。
自分は頭で不思議に思いながらも、口ではすんなりと彼女を受け入れていた。
彼女の中で、何が起こっているのだろう。
どうしてこんなことをするのだろう。
こういう行為は普通恋人にするものだ。
今起きていることのほとんどが分からない。
悪魔に乗っ取られるという理由で、苦悩に爛れた男の熱を求めるのはどうしてだろう。
奇妙な熱と悦楽が身体を蝕んでいることだけは分かる。
麻薬のような陶酔は毒なのか、と考えてみても苦しいところはない。
何もかもが突然で、目を閉じることもできなかった。
長い間接していた唇が離れると、熱い吐息が漏れた。
一度呼吸するとすぐにまた口を塞がれ、今度は違う角度でそれを繰り返す。
それは剥き出しになった渇望と共に、激しくなっていった。
腕を掴む彼女の手は震えていて、力は込められていない。
それを手探りでほどくと力なく手を握られたので、強く握り返す。
彼女は、他でもない自分に安心を求めている。
その感覚と乱れた吐息が、なぜか自分の理性をかき乱していくようだった。
それからはどこにあるかも分からない彼女の安心が訪れるまで、呼吸のような淫らなキスを繰り返した。
ほとんどは彼女にされたものだったが、途中ほんの三回だけ、何かが物足りなくて自分から舌を絡めた。
まだ少ししか会話を交わしていないのに、今は何かを弄り合うように互いの舌と指をきつく絡めている。
境界線が消えて見えなくなるぐらい、身体が密着していた。
その間時間の感覚は失せて、自分は孤独を埋める温もりを感じていた。
それから鳴った携帯電話の呼び出し音が、彼女の理性を取り戻した。
彼女が離れると、唇から透明な糸がひいた。
「……お前の中で、何があったんだ」
上体を起こして携帯電話に手を伸ばそうとすると、呼び出し音は収まった。
同時にまだ奇妙な悦楽を求めようとする何かを抑制した。
呼び出し音はどうせ悪魔の出没情報だろう、と勝手に決め付けた。
「ごめん」
謝る彼女と視線を合わせられず、はだけた肩に寒さを感じて着乱れたシャツを直す。
「今までのは全部お前の中の悪魔の仕業か?」
と聞くと、ミルフィは黙り込んだ。
図星だった。
そうでもなければ、最近会ったばかりの男にこんなことをする女はいない。
「みんなが、殺せって暴れて、ロザリアがそれを止めてて、ここで操られるのが怖くなって、気がついたらあんたに抱きついてた。それでも殺せ殺せって身体が疼くから、ここで中の悪魔に乗っ取られないように、返ってあんたを激しく求めて、自分を落ち着かせて、同時にみんなに従わない意思を見せつけてたんだ。ごめん、本当に……ごめん」
ミルフィは涙を掌で隠しながら言った。
「それなら別に謝らなくてもいいだろ。俺は
アフター・ヘヴンについてはよく知らないしな」
「……何か、嬉しい。だってこんな一面、 誰にも見せてないよね」
「こんな一面って……」
慣れない会話に、セヴィスは思わず苦笑した。
「確かにやったのはあたしだけど、あんたは勝手に舌を入れても、本当に抵抗しないで受け入れて、それどころか優しく絡めてくれたし……」
「……俺が何したとか、別に言わなくていいだろ」
「でもあんたがこんなあたしを求めてくれたから、理性を保てた……。あたしはあんたが心を許してくれて、嬉しい」
「そんなこと言われたの、初めてだ」
「誰もそんなこと言わないと思うよ」
ミルフィは机の上にある新聞の束に視線を向けた。
彼女が読んだと思われる新聞の量はとてつもないものだった。
監禁され、今まで見えなかった世界を知ろうと努力したのだろう。
「お前は俺も知らないことを知ったかもしれないな。こんな勝手に死のうとした馬鹿な男の、な」
「あんたの知らないことの一つが、その悲観さじゃないかな」
「とにかく、俺はお前やロザリアに謝らないといけない。悪かった」
ミルフィは微笑を浮かべ、肉刺で荒れた手を握った。
「命の恩人に謝られたくない」
「じゃあどうしろって」
「……」
「……分かった」
迷いはない。
でも、彼女からしてくれた時はできたのに、自分からその唇に触れるにはまだ早い気がした。
俺はまだ、彼女のことを何も分かっていない。
だからと言って、本当に彼女を知ろうとしているのか。
それとも、普通しないような彼女の行動に未だに慣れていないだけなのか。
自分の本心すらよく分からなかった。
先程とは反対に、優しい抱擁をする。
同時に互いの欲求とは違うことをした。
「また、助けられたね」
彼女は耳元で、そう囁いた。




