54 決別と覚悟
本当にミルフィ以外誰もいないのだろうか。
モルディオと捕まった螺旋階段を見渡しても、上から下を見下ろしても悪魔はいなかった。
彼女の部屋の前に立つ。
ドアノブについた鍵は変形して、扉が最後まで閉まっていない。
鍵を壊した張本人は、冬でこれは少しやりすぎたと思った。
軽くノックすると、扉はすぐに開いた。
「やっぱり、来てくれたんだ」
普段着のミルフィは、自分を見て微笑んだ。
冬にしては少し薄着のような気がするが、彼女は温かそうだった。
「ずっと待ってたんだ。あんたが来てくれるの。クロエの件、放送があたしにも聞こえたってことは、勝ったんだよね」
「……ああ」
「何か顔色が悪いけど、どうしたの? とりあえず入って」
そう言って扉を閉めると、ミルフィは部屋の隅にある簡素なキッチンへ向かう。
四日前はなかったことを考えると、シェイムが他の部屋から持ってきたのだろうか。
「ごめん、こんなのしかなかった」
絨毯に座ると、ミルフィが自分の前にコップを置いて、隣に座る。
コップの中は、透明な水で満たされていた。
「勝った。でもルキアビッツは、滅んだんだ」
「どういうこと? 詳しい話を聞かせて」
セヴィスはミルフィにクロエとルキアビッツのことを全て話した。
聞いている間ミルフィは何も言わず、ただ頷いていた。
一通り話し終えると、ミルフィは寂しそうに足を抱え込んだ。
「目の前で、両親を殺されたんだね。そこはあたしも同じだけど、あたしにあんたの気持ちは分からない。状況が違うから」
「……」
「でも、あたしを助けようとしてくれたのは嬉しいし、分かりたいって思うよ」
分かりたい。
初めてそんなことを言われた。
ミルフィが隣に座ってから、初めて彼女の顔を見る。
彼女はわずかな涙を浮かべていた。
話しているうちに、彼女の過去も思い出させてしまったのだろうか。
それを見ているだけで、胸の奥が痛んだ。
「あんたは何も悪くないんじゃないかな。だから自分を責めないで」
「……」
「ほら、飲んで」
コップを手に取るだけで、涙腺が緩んできた。
久しぶりの感覚だった。
「あたしはあんたのことを新聞で読んだ程度だからよく知らないけど、あんたは一人で何でも考えすぎだと思う」
目を閉じて瞼を指で押しつける。
それと一緒に、少量の涙をなかったことにした。
「よく殺そうと思った人間にそんなこと言えるな」
と言って、何の変哲もない水を飲む。
「でも……教えてくれるんだろ。スラムの少年のこと」
「……期待に応えられるようなことは教えられない」
「何で?」
ミルフィに真実を教えるか、教えないか。
この時まで迷っていた。
それでも、自分は彼女に真実を伝える為にここに来た。
そしてここに来たのは、彼女の中にいる者たちの恨みを晴らす為でもある。
今更引き返せない。
「見れば分かる」
シャツのボタンを少し外して、今まで誰にも見せなかった右肩を晒す。
忌々しい傷痕が顔を出すと、ミルフィは口を手で覆った。
「その傷痕……」
「これで分かっただろ。お前が知りたがっていたスラムの少年は……俺なんだ」
「うそ」
ミルフィは目を見開いている。予想通りだった。
「失望しただろ。こんな奴に命を助けられたんだからな」
右肩から滑り落ちた襟を引っ張って、傷痕を隠す。
自分は間もなく、激昂したミルフィにこの部屋を追い出されるかもしれない。
そんな気がした。
だが、
「失望なんて、してない……」
とミルフィは言った。
ミルフィに追い出されるという予想は外れたが、彼女の声は小さかった。
「むしろ、同一人物でよかったって思ってる」
ミルフィは崩していた足を曲げて、自分の方を向いて座り直す。
「今更だけど、あたしはあんたのお陰で命を助けられて感謝してる」
無言で彼女に視線を向ける。
もう、そろそろ終わりにしよう。
何となく、諦めがついていた。
何への諦めかは、分かっているようで分からなかった。
「あたしは過去と決別したいんだ。今までずっとスラムの少年のことばかり考えてたから。だから」
「じゃあ……殺せ」
「えっ?」
「俺を、殺せ」
医務室にいた時から、自殺は何度も考えていた。
だから、クロエが逮捕された後、ここで死ぬ。
そう決めていた。
「お前も、お前の中にいる悪魔も、俺を恨んでるんだろ」
「確かにそうだったけど、何でそんなこと……」
「俺は祓魔師らしいことは何一つしてないし、正しいと思った正義すら貫けない。だから、ルキアビッツが消えるのなら俺も消えた方がいいと思った」
「本気で言ってるの?」
「……ああ」
念を押し、後戻りはできないようにした。
これでいいんだ。
そう言い聞かせて、頭の中を無理矢理埋め尽くした。
ミルフィはしばらく考え込み、そして頷いた。
「動かないで」
彼女は下から見つめ、冷たい両手で首筋にそっと手をかけた。
身体中に寒気が走った。
絞殺。
自分はここで死ぬ。
犯罪者として、当然の報いだ。
それでも、こんなところで死にたくないという未練がどこか残っている。
そう思っているのに、動けなかった。
死ねば、何も考えなくてもいい。
そう思っているから、動けなかった。
無意識に目を閉じた。
その瞬間、唇に柔らかくて、温かいものが触れた。
「……っ?」
自分の五感を何度も疑う。
彼女が離れてから、やっとこれが口付けだと気づいた。




