19 母と雪
まだ太陽は天頂近くにあり、雲に隠れていても大通りは十分明るい。
今は、歩行者で溢れるクレアラッツの大通りが一番空いている時間帯だ。
歩くのは高齢者や親子ばかりで、学生は自分くらいだろう。
ふと、顔に冷たいものが落ちてきた。
雪だ。
「ねえねえママ! ゆきだよ!」
大通りの中心にあるベンチに座った子供が、手に雪をのせて興奮している。
そしてそれを一緒に眺める母親。
確かに、クレアラッツでの雪は珍しい。
「ほんとだー。傘持ってきてよかったねー」
と言って母親は手に持っていた赤い水玉模様の傘を差す。
同時にセヴィスは自分が傘を持ってきていないことに気づく。
降り始めてからかなりの時間が経ったのに、気づくのがこんなにも遅かった。
どうやら、自分は楽しそうな親子に見とれていたらしい。
母親って、何だろう。
自分に母親がいたら、こんな人間にはならなかったのだろうか。
答えのない問いが、頭を過ぎった。
「じゃあ一緒に歌って帰ろうかー」
母親が立ち上がる。
華奢な腕から、持ちきれなかった紙袋が地面に落ちた。
「あ、落ちちゃった」
何も持っていない娘に笑いかけると、母親は落ちた紙袋に手を伸ばす。
すると、その紙袋を一つの黒い影が横切った。
気がつくと、袋は潰れて中から皮のコートが出てきていた。
「ママ、パパの誕生日プレゼント……」
子供が涙目で母親を見つめる。
踏み潰した男は一度止まって、母親を見下ろす。
「へーパパへのプレゼントねぇーオレそーいうの嫌い」
そう言って男は何をするのかと思えば、そのコートを踏み始めた。
年齢は未成年で、自分より少し年上だろう。
傘代わりに黒いフードを被り、着けているアクセサリーの音がうるさい。
てっきり謝るものだと思っていた。
だが彼はその後、何もなかったかの様に歩き始めた。
母親に視線を向ける。
泥で汚れたコートに母親は言葉を失っていた。
その後、再び子供に笑いかける。
「ま、また買い直そっかー」
何で怒らないんだ、と自分は思った。
そしてすぐに、弱者の特性というものを思い出す。
弱ければ、強い者には逆らえない。
昔の自分はウィンズには逆らえず、逃げた。
ファイトクラブでもチャンピオンに怯えて、観客という安全なギャンブラーに逃げていた。
この母親は己の身と子供の安全の為、男に文句は言えなかったのだ。
「パパのプレゼント……パパの……うえええん」
ついに泣き出す娘と、無抵抗な母親。
「はっざまーみろよ!」
後ろを振り返り、男は言った。
その男の背中を、自分は追いかけた。
昔ならできなかった。
でも、今ならできる。
S級になってから、そんな自尊心が芽生えるようになった気がする。
「待てよ」
セヴィスは男のフードを引っ張る。
男が振り払うと、自然にフードは脱げた。
いかにも寝起きという雰囲気の髪型だった。
「んだよてめえ!」
男は振り返ると、少し驚いた様子で足を後退させた。
今までフードを被っていたからか、自分が見えていなかったらしい。
「あー、てめえS級のセヴィスか? 授業はサボったのかー? え?」
酒の臭いがする。
相当酒を飲んできたらしい。
今の行動も、泥酔が生み出したのだろうか。
「も、もう、いいんです! こんなことで祓魔師の手を煩わせるわけには……」
男が殴りかかってくると判断したのか、後ろから母親が駆け寄ってきた。
「ほら、このババアもそう言ってんだから、てめえも学校に戻れよ。てめえと喧嘩したらオレが死んじまうだろ」
「じゃあ死ぬ前に謝れゴミ野郎」
ほとんど無意識に一歩踏み込んで、男の脇腹に拳を叩き込む。
「ぅえっ!」
男は腹を押さえて尻餅をつく。
予想以上に吹き飛んだ。
昔ファイトクラブで同じくらいの男を殴った時とは桁違いだった。
「はぁっマジかよ! てめーオレを殺す気だなー!」
「俺は祓魔師で、アンタは悪魔じゃない。だから殺す気も捕まえる気もない。謝ればそれで見逃す」
「うっせえよ! 今殺す気だっただろクソッタレ!」
男は地面に片手をついて立ち上がる。
もう片方の手は脇腹に触れたままだ。
「へっ仲間にばらしてやらあ。S級のセヴィスは、悪魔でもねえ一般人にも暴力を振るう極悪非道の野郎だってなぁ」
そう言って、男はよろよろと背を向ける。
「勝手にしろ」
男は不規則な足跡を残して、ふらつきながら逃げていった。
「……」
母親は黙り込んでいる。
昔の癖で礼を少し期待しつつ、セヴィスは声を掛けずにそのまま家に帰ろうとした。
すると、
「セビ兄、ほんとに来てくれた……! ありがとう」
女の子が自分に傘を差してきた。
女の子が取ってきたのか、この傘は母親の傘だった。
女の子の身長は小さいが、傘が大きいので自分の頭の上までちゃんと届いた。
「……セビ兄?」
女の子が背伸びしていて辛そうだったので、セヴィスはそっと傘を取って、身長を合わせる為にしゃがむ。
「うん、あたしのね、クラスのみんなはね、そう呼んでるよ。だって、あくまに襲われないのは、セビ兄のおかげなんでしょ?」
と、女の子は笑う。
泣いたせいか、目は赤い。
「困ったときはセビ兄が助けてくれるってね、有名なんだよ。あたしのね、ともだちもね、セビ兄にね、助けられたんだよ。ねえ、さっきのって、あくまなんだよね? だから」
「止めなさいミナ!」
後ろから母親が女の子、ミナの口を塞ぐ。
「まーま! ままー!」
塞がれた口からミナの苦しそうな声が漏れる。
必死に母の手を剥そうとするが、力が足りないらしく、びくともしない。
「子供の前で祓魔師が人間に暴力を振るうなんて!」
形相を変えた母親の放った言葉があまりにも意外だったので、セヴィスは傘を開いたまま腕を下ろす。
「あなたは偶然ここを通りかかっただけでしょう! 誰も助けなんて呼んでないわ!」
「ママ! 違うよ!」
母の手を剥したミナは大声で否定する。
その口は再び塞がれる。
「親の間であなたは子供たちにとって最も悪い例! 子供たちに一番見せたくない、残虐で冷酷な祓魔師! あなたは夜だけ悪魔を討伐していればいいのよ! わざわざ私たちのことに首を突っ込まないで!」
ひどい言われ様だ。
罵られるのは慣れているが、それはセヴィスと言うよりシンクが悪行を為したから残虐に見えるだけ。
俺はアンタ等一般市民が出す悪魔の出没情報通りに悪魔を倒してるだけだ。
それなのに、ちょっと気を変えて人を助けてみればこれだ。
やっぱり人助けなんかするものじゃない。
そう改めて実感した。
「分かった。じゃあ俺はアンタが悪魔に襲われても一切手を貸さない。別の祓魔師にも通報しない。それで勝手に死に曝せ」
「結構よ! あなたみたいな悪人同然の男がこのクレアラッツのS級なんて、未だに悪夢みたいだわ! 全く、どんな生活をしたらその歳でこんなにも残虐になれるのか、こっちが知りたいぐらいよ」
セヴィスは傘を地面に置き去りにしてこの場を後にする。
先程のミナに対する母親の態度を思い出すと、言い過ぎたとは思う。
それでもこの母親は自分を嫌っていて、自分もこの母親が嫌いになった。
ただただ、苛々する。
母親がいない自分は、他の母親に嫉妬しているだけなのか。
踏み込んだ水溜りは、自分の足を中心に小さな波の輪を起こした。
自分がどんな気分であろうと、忍び足で歩く癖は変わらない。
それと同じだ。
自分がどんなに強い祓魔師であろうと、スラム街で過ごしてきたという過去は何も変わらないのだ。
どんな生活をしてきたと言われたら、何も言い返せない。
セヴィス自身も、自分の幼少期を異常だと思っている。
言うことを聞かなければ兄に銃で撃たれ、家を出たらファイトクラブで賭博と暴力、食べ物を買えば没収、それに反抗すれば再び銃で撃たれる。
これを普通だと思っていた自分は、ハミルに出会ってから自分の生活がどれだけいかれていたかを自然に理解した。
それ以降はウィンズに反逆することばかり考えていた。
それがセヴィスにとっての暇つぶしだった。
今思えばウィンズの存在は、自分が泥棒と祓魔師になった最大の要因だった。
だがウィンズだけではならなかっただろう。
それを後押ししたのは、シンクとナインだからだ。
それでも後悔はしていない。




