Ⅲ・美しい執事との蜜事
夜が更けた頃、わたしはようやく日誌を書き終え、リクさんの部屋へ提出しに行った。
この邸は三階建で、上空から見ると口の形状をしており、真中の四角い空間が中庭となっている。
またその中庭の上には渡り廊下がまるで迷路のように、或いは密集した枝のように交錯しているので、先日考え事をしていてうっかりいつもと違う通路を使ってしまい、危うく迷ってしまうところだった。
自室と中庭あとは特定の部屋だけを行き来するカトーもわたしと同じようなものであり、おそらく正確に把握しているのは邸の主人であるリクさんと執事の館花さんくらいだろう。
二階の北側にあるわたしの部屋を出て(なんと一メイドに個室が与えられている。この不景気に、恐ろしい話だ)階段で三階に上り、渡り廊下へ向かうと館花さんに逢った。
「おや、こんばんは」
館花さんは見た目二十代後半の男性で一年中(たとえ季節が気温40度を超える盛夏であっても)真っ黒な燕尾服を着用している。
ひょろりとした優男で、襟足の長い黒髪は女のようにつやつやとしており、さらに付け加えるならば雑誌の表紙を飾るモデル並みの美形だということである。
カトーが非現実的な美しさなら、館花さんは現実的に綺麗な男の人だった。
いつも無害そうなにこにこした笑顔は、氷の表面のようにつるつるとして、掴み所がなくて、とびきり、冷たい。
「こんばんは。お疲れ様です」
わたしが日誌を持ったままぺこりと頭を下げると、館花さんも「お疲れ様です、嶋さん」と笑った。
すこしハスキーの入った男性にしては高い声を発すると、館花さんはぐんと中性に近づく。
わたしは、耳に引っかかるその声が嫌いだ。
無意識のうちに唇を噛み、視線を逸らしてしまう。
「……これからリクさんのお部屋へ行かれるんですか?」
恐る恐る尋ねてみると館花さんは何でもない様子で「ええ、まあ」とそれでも曖昧に頷いた。
「嶋さんは?」
「日誌を、届けに」
すると館花さんの綺麗に整った眉がぴくっと反応した。
わたしが口を開く前に次の言葉が飛んでくる。
「花踏様の?」
「ええ」
「良ければ僕が渡しておきましょうか、直接」
予想だにしなかった突然の提案に、わたしは思わず「えっ」と素っ頓狂な声を上げた。
「どうぞ?」
人の良さそうな笑顔にわたしは断れ切れず、おずおずと日誌を差し出した。
その拍子に指先が、館花さんの指先に触れ、手の甲がぞわわっと毛虫が這うような感覚に襲われる。
わたしは顔をさっと青くし「ひゃっ……!」と手を引っ込める。
瞬時に脳裏をよぎったのは、この人の裸体だった。
あの夜、月明かりで照らされて浮かんで見えた、不気味なまでに美しい、この人の身体。
館花さんは意表を突かれたように目を丸くしていたが、思い当たる節があったのか、いつもの笑みとは違う悪意が見え隠れする悪魔的な微笑を浮かべた。
それでも館花さんは美しい男だった。
「嫌だなぁ、嶋さん。いくら僕でも、傷つきますよ……」
「……すみません。違うんです、今のは……」
と言っても、今しがたこの人の手を振り払い、悲鳴をあげたのは事実で、わたしは気の利いた言い訳も思いつかず、唇を噛みしめた。
館花さんは笑っていた。
「やはり……見られていたんですね、あの日。あの夜」
「…………」
この場面で沈黙するなんて肯定と同義であることは百も承知であったけれど、わたしは素直に頷けるはずもなく、かと言って茶を濁すこともできず、ただ黙ってうつむいていた。
と、
「顔を上げて……」
という館花さんの薄絹のように優しげな声音がわたしの旋毛の辺りに降って来て、髪を滑り落ち、毛先からぽとぽとと毛の長い絨毯が敷かれた廊下へと滴れた気がした。
視界に白手袋が映り、わたしは悲鳴を上げながら二歩後方へ退いた。
館花さんは困ったように微笑んでいた。
「すっかり怯えられちゃいましたね。……さて、」
「…………」
「どういたしましょう?」
恐怖と嫌悪が瞬間的に胸を一杯に満たし、わたしはどうしようもなくただ館花さんの手に渡ってしまった日誌を見つめていた。そうするより他無かったともいえる。
シンプルで機能的なデザインのスカートの布を握りしめ、やっとの思いで絞り出した声は掠れていた。
「ほ、ほんとう、だったんですか……悪夢なんかじゃなくて、げ、げ、現実……」
「嶋さんは、本当に酷い人ですね。そうじゃなかったら、どうして僕の声は枯れているんでしょう?」
館花さんが言葉を紡ぐたびに、脳内に記憶として留まっていた「悪夢」がその輪郭をくっきりと浮かび出されていくのを、わたしは必死で拒んだ。
「だって、リクさんは前に邸に遊びに来られた方……あの方が恋人、だ、って……」
「――――」
館花さんの視線と声、表面的には笑っているそこに込められたのは確かなる憤怒或いはそれに類する嫉妬だった。
わたしは声を失って、ぞっとした。
一種のホラーだと思ったと同時に先ほどまでの恐怖と嫌悪とは別の感情が、むくりと顔を出し始めた。
ここは未知の世界で、そして「ハウスメイドとしては」きっと知るべきではない世界で、それなのにわたしの中の「小説家としての」好奇心がたまらなく疼くのだ。
まるで眼前に人参をぶら下げられた若い馬のように。
ぶるんっと胸が急速に震え、動悸が激しくなる。
知りたい。
悲痛な声が、響く。
小説に、書きたい。
書きたい。
知りたい。
……………………書きたい!
「……おや? 嶋さん、顔つきががらりと変わりましたね。先ほどまでは嵐に怯える無力な小鳥のようだったのに、今は、そう、高揚した肉食獣のような目をしている」
「…………」
「知りたい、ですか?」
館花さんが手を差し出す。
つるりとして、渇いていて、固くて、柔らかい、綺麗で、汚い、不思議な手だった。
わたしはごくりと息を呑む。
試すような視線がわたしの右手に集中する。
恐怖と嫌悪と、とてつもない好奇心がまるで大型台風のように胸を滅茶苦茶にかき乱し――――つよい衝動がわたしの身体を動かした。
わたしは、館花さんの手の中にすっぽりと収まっている自分の右手を信じられない想いで見ていた。
「では、行きましょうか」
館花さんはにっこりと笑って、わたしの唇に自身のそれを重ねた。
柔らかくて、つめたいものが唇を掠めた瞬間、脳裏に何故かカトーの汚れを知らない無邪気な笑顔が過ぎった。
わたしは森の妖精を裏切ったのだと思った。
あの可憐で、脆くて、可笑しな、いたいけな少女を裏切るのだ、わたしは、
この美しい執事に手を引かれて。