行きずり王女
いつからだろ。この女がここにいるのは。
青空が一枚めくられ、乳白色の空が一面に広がる。そして、無害な結晶が空から落ちてくる。
ここは、機械で空が代わる国。事務的に、味気なく、天気予報は命中率百パーセントだった。
白い結晶は女の肌に溶ける。長い墨色の艶やかな髪を穂高の手に絡めて今は、一人夢の中にいる。
穂高は、先日から三年勤めた会社をクビになり、今、食っていくのがやっとという状態だった。
そんな彼は今、ふって沸いた災難に頭を抱えていた。
穂高の住む、都心より少し離れたビルの屋上で横になり、ふと目を閉じた。数分の間意識のない間に、女の艶やかな髪が手に絡まったままほどけずにいた。
女はどこかで見たことのあるような顔をしていた。
「……っんん」
女が声を発する。穂高が女の肌を突っついてみたのだが、それでも女は起きない。
絡みつく髪の毛も一向に取れない。穂高の肌に巧妙に絡み、手首を強くて強情な糸で何重にも巻いて、ぐしゃぐしゃにしたようだった。
白い雪が二人に降り積もり、積もった雪の高さが三センチになった頃、穂高起き上がり女の頬をひっぱたいた。空気と雪の結晶と共に景気良く鳴り響く一撃。
「いっったぁっ」
ついに女が起き、ほっとする穂高をよそに女は涙目で、片方だけ紅色に染まった頬を両手で押さえた。
「お前、何をする」
怒りを含んだ声はとても魅力がなく思え、穂高は一呼吸間を置き首を傾げた。 穂高は滅多に怒る事がなく、同僚からはよく菩薩様と呼ばれていた。
そんな穂高が、長い間に溜めた怒りを一瞬で発散させた後は、菩薩以上の穏やかさで間の抜けた返事をする男に戻っていた。
「ぁあ?お前、何首傾げているのだ。お前が私の頬をはたいたのだろ」
「あー。うん。久しぶりにキレちゃった」
「何かわい子ぶってんですの、腹立たしい。……いたっ。お前はなぜ私の髪の毛をひっぱっているのです」
女の怒りは喋る度に上がる。
「こっちが聞きたい。あなたは誰なんだ」
「……私は」
「言えないのか」
「……言いたくない」
「そうか。じゃあいい。だがこれは外してくれ」
穂高は髪の毛で絡まった手をかかげた。女は眉をつり上げ凝視する。穂高の漆黒の瞳、その奥を。
「私の髪の毛は、何というか。特殊で、気に入った者を離さないのよ。私も頭を抱える問題なの」
「気に入った者って俺か?」
「難問ね。私は寝ていただけよ。そもそも、ここはどこかしら」
「ここは中吾ビルの屋上だよ。ってかあんたは誰だよ」
「私は……だから言えないと」
穂高は、「あっ」と短く声を上げてぱたぱたと顔の前で手を振る。
「間違った。名前、聞きたかったんだ」
「名前か。私は李々杏、髪は出来れば焼かないでほどいて。焼くと災いが降りかかるから」
李々杏は真面目に言うものだから、穂高は否定出来なかった。二人は寒さに耐えれなくなり、穂高の住む部屋に行った。
穂高の部屋はきちんと整理されており、几帳面さが伝わってきた。李々杏はさほど広くはないリビングに案内された。
「そういえば、李々杏。あなたの顔どこかで見た気が……」
「気のせいよ。どこにでもあります」
穂高は自分の、赤土色の髪を空いている方の手でくしゃっと掻く。穂高は李々杏に手伝ってもらいながら温かい珈琲を入れて、ソファに深々と座る。
空がまた一枚変わり、乳白色の空から鮮やかなオレンジ色の夕日になる。
穂高はリモコンを使ってテレビを付ける。ちょうど、ニュースが流れていた。
「えー。本日の朝方頃に我が空替国の第二王女が逃亡……あ、いえ失踪いたしました。見かけた方はご一報、又は王室までお連れ下さい」
テレビの中のアナウンサーは、普段はあまり咬んだりとちったりする事がなかった。
「よほど慌ててんだな。朝方なのになぜ今頃慌てて放送してるんだろ」
「き、気づかなかっただけではないかしら」
李々杏は妙にうわずりながら声を発した。ニュースでは呼びかけた後、アナウンサーが写真を出した。第二王女の写真と言いながら出した。
「あれ?」
穂高は細目になり、もう一度確認しようとした時、李々杏が素早くリモコンを取り、消す。
「今のって李々杏じゃないのか」
「この世に似た顔は三人いる。その内の一人です」
そう言い張る李々杏だが、李々杏の面立ちはそこらに居そうな雰囲気はなかった。
通った細い鼻筋に、少しつり上がった鈍色の瞳がとても印象的だった。
「王家の人達の顔にそっくりだな」
「いえ。この世には似た顔が……」
「いや、もういいから」
同じ言葉を淡々と言う李々杏を制止し、穂高は詰めよる。
「第二王女なんだな」
「……はい。えーっとシーッ」
穂高以外誰もいないのに、李々杏は必死だった。
「だとしたら厄介だな。確か、運命の人を決める髪を持つんだったよな。絡まって」
「し、知りません」
「髪が導くんだよな、運命の人を。王室の女のみにある伝説ってこの前テレビでやってたよな」
また李々杏は知らないと言ったので、穂高は手をくいっと引くと「いたっ」と言って李々杏は頭を押さえた。
涙目になった李々杏に穂高はもう一度聞いた所、事実を認めた。
「あなたサドでしょう」
「何で王女様がそんな言葉知ってんだよ。それに俺は穂高って名前なの」
「穂高、いい名前ね」
「……ありがとう」
照れくさそうに、鼻の頭を掻き本題に入った。
「って違うだろ。話してよ本当のこと」
「チッ」
とても王女とは思えない舌打ちに、穂高は心の中で静かに突っ込んでいた。
李々杏はいつの間にか、闇に包まれた空を見て言った。
「王室は籠の鳥なの。何をするのでもボディーガードやメイドがいて、何一つ自分でしたことがなかったの。だから逃げ出して、がむしゃらに走って途中から記憶がない」
「えっ」
李々杏は頭を抱えて唸り声を上げる。
「気力だけで走っていたから」
「王室からここまで歩いても一日はかかるよ」
穂高の声がうわずり、目玉が飛び出そうになった。
「お願い。捨てないで。私あそこには戻りたくないの。穂高のこと全然知らないけど、代々伝わるこの運命の髪は本物なの。穂高が運命の人なの、だから……」
切実な李々杏に穂高は、今の現状も考えずに答えた。
「分かったよ。何とかしてやるよ」
穂高の一言に李々杏は急に、顔がぱっと華やいだ。
「本当に?」
「あぁ」
穂高は何も考えずにまた答えたら、李々杏の顔はますます華やぎ、今まで強情に絡まっていた髪の毛がするりと穂高の手を離れた。
「離れた。何で?」
驚いている穂高をよそに、李々杏は口端を持ち上げ満面の笑みになる。そして静かに語った。
「嬉しいわ。穂高。あなたのために一カ月間練りに練った作戦が成功したのね」
「作戦……って」
「一カ月前、あなたを国祭で見て一目惚れしたの。王室には内緒でやったことは事実よ。そして、あなたをここで見つけた。予測通り私の髪は寝ていたあなたに絡まった」
空がまた一枚変わり、さらに漆黒の闇を作り出した。
「これから王室の奴らが私を探すけど、穂高は私を捨てないんだったら一緒に逃げてね。約束を破る者には災難があるから」
悪魔のような李々杏の言葉に、意識を失いそうになる。
「前途多難だ」
ふって沸いたこの騒動に穂高は、なぜか不安の中に混じった不確かな変化を感じていた。
「劇的な人生の幕開けだな」
希望なのか、絶望なのか未来は分からないまま、また空が一枚変わった。