おかえり、悪役令嬢の君
長編予定だったものを、構想の八割を捨てて短編にしました。すっきり。
「ロージー! 君の悪事はお見通しだ!」
目の前で繰り広げられる断罪劇の中、それは唐突に起きた。
覚醒することを強く意識が浮上する感覚、なんて表現されているのを物語で読んだことはあるけれど、私が感じたのは目の前のカーテンがいきなり開け放たれたものに近かった。
ずっと繭の中に籠ったサナギのように、閉じ込められた部屋の中、カーテンの隙間から覗くように自分を見ていたような気分。
「私を騙そうとし、王家への反逆とみなして断罪する!」
視界に映る光景は他人事でなくなりつつある。
周囲の落ち着かぬ空気の中で、冷静に状況を分析する私。
自身が悪しきに染まらぬように、堕ちていく者達と距離を取る私。
私を侮蔑した人々を許し、そして優しく諫め、真実の悪が誰かを証明した私。
殿下を救うために、潰えぬ愛で献身的に守ろうとした私。
──でもそれが、全て計算でしかなかったら?
拒絶する魂の壁が壊れていく。
私を閉じ込めた、見知らぬ魂が消えていく。
歓喜から恐怖へと移り変わる知らぬ魂を感じながら、広がっていく本来の私。
「ヴィクトリア!?」
驚愕と嘆き、消えることへの恐怖を叫びながら消えていこうとする自身の内で起こることと、視界に映った殿下が手を差し伸べようとする姿。
反射的に払いのけた後にあったのは驚き、傷ついた顔。
そうね、そうでしょうとも。
あんなに尽くした私が拒否をするのだから。
でも、よく考えてみて?
これは殿下が最初に始めたことなのよ。
何も失わずにいられると思うのは、図々しいことに早く気づけばよいのに。
そうして悪役令嬢と呼ばれていた私は意識を失った。
***
「ヴィクトリアと婚約解消!?」
何の前兆も無かった中で告げられた言葉に、ヒューバードは思わず椅子から腰を浮かせた。
場所は王城内にある謁見の間ではなく、そこより更に奥にある、いわば秘密事を持ち込む際の応接間の中。
そこで言われたことは、ヒューバードには想定外の内容でしかなかった。
王妃の窘めるような声に椅子に座り直したが、目の前で笑顔を浮かべたままコールマン公爵が「冗談だ」と言うようなことはないまま。
「ええ。残念ですが娘では、王妃として力不足と判断されましたので」
続けられた言葉は要領を得ないもので、ただただ眼前の相手へと鋭い視線を向ければ、苦笑へと変わる。
「殿下。そんなお怒りにならなくても、きちんと説明させて頂きます」
ただ、その目は感情など少しも宿していなかったが。
陛下、とヒューバードの横に座る国王に声をかけたコールマン公爵が、許可を得たのか小さく頷く。
「娘はここ二年程の記憶が一切ないのです」
言われたことをヒューバード理解するのに、誰もが窺うようにして待っている。
呆然とする中で、同席する他の人々が驚かないのは、おそらく先に聞いていたからだろうとだけは察することはできた。
「当然、この期間に受けた王妃教育も一切覚えておりません」
思わず息を呑む。
立て続けに繰り出される思いがけない言葉の数々に、ヒューバードの内から湧き上がるのは焦燥。
コールマン公爵家の愛娘、ヴィクトリアの記憶喪失がもたらす損害。
優秀な王太子と言われるヒューバードでなくても気づく、辿る道の変わるかもしれない自身の未来。
ヒューバードには二つ下の弟がいる。
その婚約者は侯爵令嬢。十分に王位を狙える立場であるのだ。
「それならば再び教育を受け直せばいい。
記憶を失ったのだとしても、一度修了しているならば二回目は容易いだろう。
私も協力することを約束する」
だがヒューバードの提案を、コールマン公爵が首を横に振って拒否する。
「お心遣いに感謝いたしますが、一度学んだことだとしても、このタイミングで教育を受け直すことのメリットが双方にあるとは思えないですな。
それに娘が自身の妃になるには不出来だと、殿下も学園で散々に言われていたこと。
更に卒業式の日に倒れた理由が原因不明とあれば、健康についても疑わないといけない。
親としてもヴィクトリアに王妃の資格などないといえるでしょう」
王妃の資格などない。
かつてのヒューバードがヴィクトリアに言った言葉だ。
「あれは聖女の再来と謳われた、ロージー・クレイマンが悪女だと明らかにするために必要であったことだ。
それはヴィクトリアだって知っていて、それを承知してくれていた」
確かに聖女であるはずだった悪女、ロージーに出会ってからのヒューバードは恋に興じて、学園内の生徒達の前でも堂々と明言している。
ロージーが悪女だと知る前も、彼女の真実を知った後も。
だが、真実を知ってからの言葉はあくまで演技でしかなく、ヴィクトリアには後からフォローだってしている。
全ては被害者であったヒューバードが、騙した悪女を断罪するために必要だったことなのだ。
けれど、コールマン公爵は狼狽えることも無ければ、謝罪を口にすることもなく、変わらぬ笑みを浮かべている。
ただ少しだけ、目を細めたような気はするが。
口を開かぬまま数秒、不意にコールマン公爵が微かに笑った。
「失礼ながら殿下が平民の娘を寵愛していたことは周知の事実。
誰もが殿下とあの娘と結ばれるのだという、荒唐無稽な物語を信じていたのも真実です。
それに、殿下はそうおっしゃいますが、娘と会っていたという証拠がね、何一つないのですよ」
それは、と口を開いても、どう証明したものかと口籠る。
証拠が無いのも当然だ。
聖女の皮を被った悪女を断罪するため、ロージーにバレないようにとヴィクトリアが修得した、古代の魔術とされる結界を使って誰にも見られないように会っていたからだ。
ヴィクトリアが記憶を失ったというのならば、魔術の修得すら覚えていない可能性が高い。
王家の影といえども学園に入り込むことは許されず、あの偽者の聖女に骨抜きとなった側近達を追い払ったことによって、ヴィクトリアと一緒に行動していたことを証言してくれる者がいないのだ。
当時のヴィクトリアには友人などいなかったし、コールマン公爵とすら距離を置いているのだと侍女を伴ってもいなかった。
ヒューバードも、ロージーとヴィクトリアのどちらを選ぶか迷っていた時期もあったので、敢えて人を近づけなかったことも災いしたと舌打ちしそうになる。
「そして、肝心の娘が記憶を失ったとあれば、娘が協力していたという証明もできないでしょう」
コールマン公爵の薄らと細められただけの目が、今や消え失せそうな微笑みへと変貌しているが、それによって感情が一切読めない。
苛立たしさが顔に出そうなのを、ヒューバードはずっと我慢している状態だ。
どうして。
どうしてコールマンの人間はヒューバードの邪魔しかしないのか。
目の前の男然り。
かつてのヴィクトリア然り。
だがヒューバードの持てる手札は限りなく少ない。
その中で一番大きな手札を手放すわけにはいかないのだ。
「記憶が戻るのを待つこともせず、ヴィクトリアの努力を踏みにじるつもりか、コールマン公爵」
無意識に低くなったヒューバードの声に、引くこともなくコールマン公爵が一笑に付する。
「面白い冗談をおっしゃる。
ヴィクトリアの愛情と忠誠を散々に踏みにじった殿下が、今になって我らコールマンの後ろ盾と、その娘を惜しいと思ったのですか」
「無礼だぞ、コールマン!」
テーブルを叩く音が大きく響く。
緊迫する空気の中で、変わらぬ威厳を声に籠めた主が発言をする。
「そこまでにするがよい、ヒューバード」
「しかし父上! これは王族に対する侮辱です!」
ヒューバードを制する発言に抗議を唱えても、隣に座る国王の表情は厳しいものから一切変わることはない。
「これはお前の撒いた種だ。
コールマン公爵の言ったことを侮辱と取るのならば、ヴィクトリア嬢へのお前の言動も責任を取る必要がある」
投げられた言葉に、ヒューバードの表情が自然と強張る。
「先程も言いましたが、あれはロージーという悪女を断罪するためで」
だが、国王の表情が変わることなどなかった。
「ならば問おう。そのロージーとやらに出会って数年。
お前はずっと間抜けな演技を続けてきたのというのか? もしや、長らく騙されていたのか?」
問いに答えられず、ヒューバードの口が開いて、そして閉じる。
何か言わなければいけないとわかっている。
だからといって、質問のどちらを選べばマシなのかがわからない。
前者を選べば、婚約者を利用し続けた挙句、長きに渡って成果を上げられない無能と評価される。
逆に後者を選べば、恋に溺れて婚約者を蔑ろにした愚か者だと証明することになる。
全てを回避できる回答をしなければいけないのに、それが出てこない。
どちらを選んでも不正解な気がして、ヴィクトリアがもっと早くに動いていればこんなことにならなかったのにと、恨めしい気持ちで一杯になる。
そうだ、こんな時に記憶喪失になどなったヴィクトリアが悪く、何もわからないくせにヒューバードとの婚約を解消するべきではないのだ。
彼女はヒューバードへの愛によって、この危機を救わなければならない。
「ヴィ、ヴィクトリアは私を愛しています」
ヒューバードが絞り出した言葉に、誰もが表情を変えないままに見つめてくる。
居心地の悪さに首をすくめてしまいそうだったが、震えそうな体を叱咤して背筋を伸ばす。
「証拠と過程はどうであれ、私とヴィクトリアが悪女の罪を暴きました。
そして私を信じ、私の為に尽くした彼女ほど、私の妃に相応しい者はいません」
これは事実だ。
いつだってヴィクトリアはヒューバードの後を追いかけてきたし、ロージーに嫌がらせだってした。
協力するようになってからは、「全ては殿下の為ですから」という言葉だって聞いている。
今、ヴィクトリアに降りられると困るのだ。
少しの静けさの後、ヒューバードの耳に届いたのは、誰のものかも判断つかない溜息の数々だった。
「お前の言いたいことはよくわかった」
威厳は損なわれないながらも、どことなく疲れの滲んだ国王の声が部屋に響く。
「先に言っておけば良かったが、婚約解消は決定事項だ。
ヴィクトリア・コールマン公爵令嬢に、王妃となる資格と意志は無いとして婚約解消の手続きは完了している。
ヒューバード、お前の進退については追っての沙汰となるが、側近の一人も諭すことができず、婚約者との信頼関係も築けなかったのだと認識しておけ」
現実が受け入れられない。
なぜ今になって。
ここまで、あの断罪までは上手くいっていたのだ。
ロージー以上に従順になって、その賢さと行動力でヒューバードのサポートをしてくれるようになったヴィクトリア。
けばけばしい深紅のドレスを着なくなり、薄青や爽やかなレモンイエローのドレスを纏うようになったのも、ロージーが悪女だということを告げた頃だろうか。
急に態度を豹変させたことには驚いたが、思いがけない行動力と、貴族令嬢らしからぬ笑顔を見せてくれた彼女に、ようやくヒューバードの好みであろうと努力しているのだと認めたのに。
とんだ裏切りだ。
これ以降、ヒューバードの発言は許されない中で話し合いは終わり、応接間から退室しようとするコールマン公爵がヒューバードを見て口を開いた。
「殿下。もしここで殿下が少しでも娘の容態を心配したのなら、私も娘も考え直したかもしれません。
けれど、娘を案じる言葉は一つもなく、殿下にあったのは我が身の保身ばかり。
お陰で今回の婚約解消は間違いではなかったと、娘の幸せを守れたのだと確信できたのだけが幸いです」
どうぞご健勝でと晴れやかな声を残して、悠々と立ち去るコールマン公爵を見送りながら、激情の渦を胸に抱えたヒューバードがこぶしを強く握った。
***
「お帰りなさいませ、お父様!」
コールマン公爵が馬車を降りてエントランスに入れば、待ちきれないとばかりに腕の中へと飛び込んだのはヴィクトリアだった。
貴族令嬢としてはしたないが、ヴィクトリアの行動を咎める者は誰一人としていない。
「おやおや、そんなに帰ってくるのが待ち遠しかったかい?」
コールマン公爵も幼子を扱うように娘の頭を撫で、周囲の使用人達も眉を顰めることも無く、温かな笑顔で見守ってくれていた。
これがコールマン公爵家の普通なのだと、ヴィクトリアが一番よく知っている。
とはいえ、この二年程は全く交流がなかったが。
「ええ、だって私と殿下の婚約解消のお話が、ようやく終わったのでしょう?
結果を聞きたいと思っていたもの」
弾けるようなヴィクトリアの笑顔に、そうかそうかとコールマン公爵を目を細める。
「お兄様も結果を聞きたいと、今日は早くに帰ってきていますの」
兄はヴィクトリアを溺愛している。
父親が王城に婚約解消の手続きに行ったならば、気になって仕方ないのも当然のこと。
「それじゃあ夕食を早めてもらって、その後にでも話をしようか」
コールマン公爵の言葉にヴィクトリアは頷き、家令が手近な使用人に言づける。
優秀な使用人ばかりのコールマン公爵家であれば、夕食の準備もすぐに終わるだろう。
どのドレスに着替え直そうかと思いながら、ヴィクトリアは父親に少しの間のお別れを告げた。
「まあ、図々しいこと」
夕食を終えて父親の書斎へと移動したのは、こぢんまりとした部屋なので声を大きくする必要もなく、人払いがしやすいことにあるだろう。
使用人がヴィクトリアには珈琲とドライフルーツを、父と兄には酒とつまみの用意をして部屋を出て行く。
そこで聞かされた王城での顛末に、ヴィクトリアは呆れを隠せずに盛大な溜息を落とした。
「確かに殿下のことはお慕いしていた時期はありましたけど、あれだけのことをしておいて、随分な言い様ね」
「まったくだ。ここにきて、ヴィクトリアとコールマンの価値に気づくとか、暗愚にも程がある」
兄の相槌に、ヴィクトリアはニッコリと笑う。
「ええ、本当に。だからこそこの一年の間、どれだけ苦痛だったか」
ここでスコンとヴィクトリアの表情が抜け落ちた。
一瞬前まであったはずの楽しそうな雰囲気はすっかり消え失せている。
他の家族も同じだ。
「私をお父様やお兄様から引き離し、使用人すら近づけず、物語の主人公気取りでいた私の中にいた誰か。
あれのせいで、殿下から離れられずに苦労したのだから」
苦々し気に吐き出した恨みは、晴らす相手もいないままに消え失せていく。
「そして、それすらも都合の良い人間になったと喜ぶ殿下ときたら」
婚約者に言われるままに尽くし、支えてやったというのに、演技と言いながらもどこか嬉々としてヴィクトリアを罵倒する姿。
秘密裏にすら渡されることのなかった手紙や贈り物の類。
ついぞ一度も無かった謝罪。
どうしたってヴィクトリアを都合の良い駒だとしか思っていない態度。
それを愛だと信じていた、ヴィクトリアの中にいた誰かの頭は、相当おかしいと何度思ったことか。
「ヴィクトリアの中にいた者は見る目が無くて、私達も手を出せずに困っていたものだ。
殿下に盲目な献身を捧げる姿に、何度どうしてくれようかと思ったことか」
温度を感じさせない冷え切った父親の呟きに、おそらく今もあれが居たら、ヴィクトリアごと始末されていたのではないかと思う。
国内の筆頭貴族第一位である公爵家の愛娘。
それがヴィクトリアだ。
甘やかされて育てられ、それを当然として我儘に享受し、小さなお姫様として蝶よ花よと育てられた存在。
望むままに願いを叶えられ、白を黒と言っても許されるのは、コールマン公爵の娘という立場があればこそ。
勿論、そのことは理解しているし、外に出れば正しく淑女として振舞っていた。
王太子であるヒューバードの婚約者として、王妃教育だって嫁いだ後に学ぶこと以外は、早々に終わらせている。
だからこそ、身分を弁えぬ頭の弱そうな女に注意するのは当然の義務であったし、恋に浮かれた婚約者に釘を刺すのはヴィクトリアの役目であると理解もして行動していた。
どれだけ王子を言いなりにしようとする傲慢な女だと、下位の者から陰口を叩かれようと、高位貴族の寛容さで許してやった。
ヴィクトリアは王族に仲間入りするのだ。
己の立場を正確に把握し、全てに厳格であり、なおかつ寛容でなければならない。
何に対してどうあるべきか。
王妃教育で身に付けたことは、人々から見て、必ずしも正しきには映らないこともある。
だからこそ、婚約者であるヒューバードが良き理解者であり、同時に支え合う相手でならなければいけなかったというのに。
確かにヒューバードに恋をしていた頃だってあるが、人を悪女呼ばわりする態度を変えないならば、いずれかのタイミングで醒めるというもの。
ヒューバードがロージーとの噂を否定しなくなった頃には、あれを愛妾として置けるか調査させていたし、王太子として目に余ると判断するならば、婚約破棄か解消かの相談をしなくてはならないと思っていた。
実際、ヒューバードと側近以外の関係者は、ロージーの素性を把握して、ヒューバードと側近達がいつ目を覚ますのかを静観していた状態だった。
そしてヒューバードが起こす次の暴挙をもって、婚約は破棄となるはずだったのだ。
だが、ヴィクトリアの入れ替わりが起きた。
目が覚めても、ヴィクトリアのものであるはずの体をつかえない苦しみ。
突拍子もない行動を取る自身の態度に、今までの努力が消える絶望。
何よりヒューバードに媚びる姿に、ロージー以上の醜悪さを感じて催す吐き気。
「全部、最悪だったわ」
ヴィクトリアの中にいた誰かは、ここを遊戯の世界だと言って、悪役令嬢であるヴィクトリアの中にいることに怒り狂っていた。
そして遊戯だからこそ先を知っているのだと、立てられたのは杜撰な計画。
知らない人物の浅慮は運だけで強行され、最悪なことに、上手くいってしまったのだ。
成功した一番の理由が、誰かの作った新しいヴィクトリア像が、ヒューバードの大変好みだったことだろう。
少しでもヴィクトリアに似た性格をしていたら、成功しなかったに違いない。
今までのヴィクトリアなんて何も知らないくせに、全てを知っている顔で「殿下を取り返さないと、国外追放か処刑ルートよ」と口走る姿に、怒りよりも嫌悪が勝った。
ヴィクトリアがどれだけロージーを虐げようと、所詮は平民であり、ヴィクトリアは軽く小言を言われるくらいで済む程度。
なんで、国外追放や処刑になるのか。
もしヒューバードがそこまで愚かであったとしても、国王と王妃が許すはずも無いし、彼らがいなくても王太子の権限では承認されることはない。
王家がどれだけ権利を持っていたとしても、正規の手続きでない以上は刑が執行されることはない。
何もかもが意味不明だった。
体を取り戻してすぐにしたことは、無知な人間がヴィクトリアを動かしていたことを、家族に報告することで。
ありがたいことに嘘くさい話だというのに父も兄も信じてくれたし、使用人達も「お嬢様が元に戻られた」と喜んでくれている。
使用人から見ても、あれの態度はおかしかったのだ。
いつもなら、気まぐれに購入した安価なアクセサリーなどはメイド達に配ってやり、ドレスは寄付させるなりするはずなのに、どこかで金子に換えてはコソコソと使っている。
何か悪いことをしているのではないかと、気が気ではなかっただろう。
実際、家令はヴィクトリアが結界の魔術を修得するまでは、どこへ行くのか尾行させていた。
外を知らない箱入りのお嬢様が、三流の質屋に物を持ち込むなんて思わなかったと頭を抱えていたのは、後から聞いた話だ。
使用人達に真実を伝えていないが、何人かはそっくりな偽者がいたのだと信じている者もいる。
そちらの方が都合も良いかと訂正はしていない。
「大体、殿下もヴィクトリアが嫌ならば、婚約解消を打診すればよかっただけだというのに。
なんだかんだと殿下は自分の利益を無意識で考えようとする、打算的な方だから」
そう言いながらオリーブを口に運び、父親が手酌でグラスに酒を注ぐ。
一人掛けのソファに深々と座る兄も、同意したように頷いた。
「まったくだ。嫡男だからといって王太子にするのも考えものだな。
ありがたいことに第二王子殿下は健やかで、しっかりされている。
王太子が代わったところで何の問題も無い」
散々にヒューバードの悪口を言い合えば、家族の雰囲気はまた元に戻ってくる。
有能な使用人達は、このタイミングでヴィクトリアの冷えてきた珈琲を下げると、温かなミルクの入ったカップを置いてくれた。
口にすると、ミルクと一緒に蜂蜜の甘味が口の中に広がる。
「これからヴィクトリアはどうするかい?」
父親の問いに、ヴィクトリアは少し考える。
「今回の婚約解消で社交界の噂は持ちきりになるでしょうし、暫くは領地で静養しようかと。
不在の間、誰がどんな噂を囀っているか手紙をくださいな」
王家と公爵家の婚約解消なんて、誰もが真相を知りたがるゴシップだ。
のこのこ姿を見せて、好奇の目に晒される気も無い。
放っておいても王家がヒューバードに謹慎といった処罰をすれば、どちらに問題があったかはおのずと明らかになるだろう。
そうしてからコールマン公爵家に謝罪をしてくる者達がどれだけいるか。
ヴィクトリアの手帳には、誰がいつ何を言ったかを控えている。
そこには下位貴族だけではなく、貴族ですらない者もいる。
子から打ち明けられた親はどうなるだろうか。
あれぐらいの年の頃は、散々に言い聞かせたとしても子どもが言うことを聞くのは難しい。
だからといって、子どものしたことだからと許すと、公爵家の権威が損なわれる。
まあ、この辺りは未成年であるヴィクトリアが気にすることでない。
家族がいいように采配してくれるはずだから。
「帰ってきてくれた可愛い娘の顔を見られないのは寂しいが、その方がいいだろうね。
王太子でなくなりそうなヒューバード殿下が、ちょっかいをかけてくる可能性もある。
しっかり護衛を付けるから、領地でゆっくりしてきなさい」
父親の言葉にその通りだと思い、そうして思い切りよくミルクを飲み干した。
「そうね、明日には荷造りを始めるわ」
ヴィクトリアが宣言すれば、ここで三人だけのお喋りは終了だ。
まだ生活に慣れずに疲れているだろうから早く寝なさいと言って、二人に見送られて部屋を出る。
ヴィクトリアの中にいた誰かは完全に消え失せたのか、今はどこにも存在を感じない。
一体なぜいたのか、何が目的だったのか、何も聞けぬままに消えていった。
次に同じことが起きないかと不安になることもあるが、断罪の時に彼女はこれで目的を完遂したようなことを言っている。
ならば、ヴィクトリアの中に居続ける必要はないのだから、再び現れることはないはず。
今回のことで、誰かに恋することも婚約も、暫くは遠慮したいというのがヴィクトリアの本音だ。
公爵家の娘として必要であれば、父の命じるままに新たな婚約を結ぶつもりではいるが、既に権力を持ち過ぎた公爵家で焦ることも無い。
暫くは領地でのんびりしようと考えながら、部屋に戻るヴィクトリアだった。
そんな彼女が領地に帰ってから、騒がしい日々を送るのはまた別の話である。




